file-96 越後の瞽女(後編2)

  

現代によみがえる瞽女唄(ごぜうた)

小林ハルの芸を継承

 長岡瞽女の歴史をお伝えした前号。小林ハルの引退後、長岡瞽女の芸能はどうなったのでしょうか。
小林ハルと弟子の竹下玲子さん

最後の長岡瞽女・小林ハルと弟子の竹下玲子さん。竹下さんは10年間、東京から新潟に通いつづけ、瞽女唄を習った。写真提供/鈴木昭英さん

 昭和52年(1977)11月、小林ハルは東京で開催された「瞽女文学の夕べ」に出演しました。当時、オペラ歌手を目指していた竹下玲子さんは、そのイベントで初めて瞽女唄を聞き、ハルの声の響きに圧倒されました。すぐに弟子入りを決意し、月に一度、東京から新潟の福祉施設にいるハルのもとに通って、瞽女唄を習いました。
 昭和55年(1980)には演奏会で弟子として紹介され、ハルとの共演も果たして、ますます瞽女唄にのめり込んでいったそうです。

 竹下さんの活動を知った有志数名は、平成3年(1991)に「瞽女唄ネットワーク」を設立します。長岡瞽女の聞き取り調査を通して、ハルと交流のあった鈴木さんは会長に就任しました。同会は竹下さんを支えながら、瞽女唄の普及に努めていきます。
 中でも、春から初夏にかけて開催していた「越後瞽女唄ツアー」は巡る先々で聴衆を集めました。「瞽女を認知してもらうには、唄を聞いてもらうのが一番効果的」と実感した鈴木さんは、次なる活動について考え始めます。

 「瞽女唄ネットワーク」は、平成7年(1995)9月から、瞽女頭・山本ゴイの菩提寺である唯敬寺(えいきょうじ 長岡市)を会場に、竹下さんを講師として「瞽女唄教室」を始めることにしました。

金川真美子さん

瞽女唄教室の第一期生の金川真美子さん。演奏会の他に、大学の講義の一環として瞽女唄を教えたり、瞽女についての映画や美術とのコラボ・イベントに参加するなどして活動中。

 「場所を借り、三味線を5棹買って一般公募しましたが、集まるかどうか心配で。幸い、子どもから主婦まで8名が名乗り出てくれました。遠くは大阪から通ってくださる人もいて、改めて瞽女唄の魅力のすごさを感じました」と、鈴木さんは当時を振り返ります。

 第一期生の一人、金川真美子さんは当時6歳。母の勧めで参加し、最初はお手玉唄など子供向きの唄から順に習っていきました。「まず耳で聞いて覚え、後になって意味が分かると、クイズが解けたみたいでおもしろくて、どんどん唄を覚えていきました」。
 翌年には長岡瞽女の行事「妙音講(みょうおんこう)」を50年ぶりに復元し、以来、演奏会として継続して実施しています。
 「瞽女唄教室」はその後、演奏活動を行う「越後瞽女唄・葛の葉会」に再編成され、現在も年2回春と秋に行う「瞽女唄ネットワーク」主催の公演や、地域のイベントへの出演などを行っています。

瞽女のふたつの顔

金川さん

「八百屋お七」や「葛の葉子別れ」などレパートリーは30曲。「芸術の一分野として瞽女唄を残していきたい」と金川さん。

「妙音講」

「妙音講」では唯敬寺(えいきょうじ)の住職が瞽女の始まりや掟を説いた「瞽女式目(ごぜしきもく)」を読み上げ、その後、「越後瞽女唄・葛の葉会」のメンバーが瞽女唄を奉納する。写真提供/鈴木昭英さん

 珊瑚(さんご)色の和服を着た金川真美子さんの伸びやかな声がお堂に響き渡りました。
 平成27年(2015)4月18日、今年も妙音講が唯敬寺で執り行われました。26歳になった金川さんは、瞽女唄定番の「葛の葉子別れ(くずのはこわかれ)」の一節を披露。歌舞伎や浄瑠璃でも有名な物語の中の、人間の姿を借りた狐が、人間の夫との間に生まれたわが子と別れなければならないという、悲しく切ないシーンです。

 瞽女唄には、このような長い物語を七五調で語ってゆく「祭文松坂(さいもんまつざか)」(「段物(だんもの)」ともいわれる)と、七七調で同じ節回しを重ねてゆく「口説(くどき)」、言葉よりも音楽に重きを置いた「唄い物」などのジャンルがあります。正月や春に家々を訪ねて歌うお祝いの唄もありますが、多くは、しんみりとした悲哀に満ちた曲調です。

 「内容は子どもや家族のこと、恋愛、戦(いくさ)などさまざまですが、女性が唄うので女性の目線で描かれている話が多いですね。今、レパートリーは30ちょっと。もっと多く演目を練習して、瞽女を現代に蘇らせたいと思っています」と金川さん。
 瞽女唄を習い、瞽女についてのイベントや講演会に出たり、自分で調べたりする過程で、瞽女の『背後』にあるものを考えるようになったとも言います。

 「聞き手の存在です。障害のある人を受け入れてくれる地域があってこそ、瞽女は誇りを持って生きていけたのだと思います。瞽女も聞き手もお互いに得られるものがある。そうして社会が回っていたのだと思います」。

 また、鈴木さんは瞽女がもたらしたものは娯楽だけではないと考えています。
  「遠い国から旅をしてやってくる瞽女を大いなる力の持ち主と認め、人々を祝福してくれる聖なる来訪者と意識し、神様の代弁者とさえ考えられていたようです。だから、養蚕の振興のために歌ってもらったり、安産を願って妊婦が瞽女の使った三味線糸を身につけたりする、民間信仰の例が各地に残っています。実際に、長岡瞽女の県外での主要な巡業地は、養蚕の盛んな関東だったんですよ」。

 瞽女は地域と深く結びつき、芸能と信仰というふたつの顔を持っていました。とすれば、通信や交通が発達し、科学が進歩する中で、瞽女の持つ力が薄れ、忘れられていったのは必然だったのかもしれません。
 芸能として残っている瞽女唄の調べに耳を傾け、かつての人々の暮らしや願いに思いをはせれば、現代で失われた何かに気付くことがあるかも知れません。


■ 取材協力
瞽女唄ネットワーク 会長 鈴木昭英さん
越後瞽女唄・葛の葉会 金川真美子さん

■ 資料
「瞽女 信仰と芸能」鈴木昭英 高志書院 1996年
「越後瞽女ものがたり 盲目旅芸人の実像」鈴木昭英 岩田書院 2009年

■ 瞽女画像提供
鈴木昭英さん



前の記事
一覧へ戻る
次の記事