令和6年(2024)10月、佐渡無名異焼が国の伝統的工芸品に指定されました。伝統的工芸品の指定は佐渡市では初、県内では15年ぶりとなります。江戸時代に相川で生まれ、佐渡島内に広がった無名異焼。無名異焼について詳しいお二人にお話を伺いました。
無名異焼が生まれた陶芸の島・佐渡
―今、佐渡では無名異焼の窯元はいくつあるのでしょうか。
本間 5年ほど前、島内で窯業届が出ていたのは確か14軒。現時点ではおそらく10軒あるかないか。その中には無名異焼ではない窯元もありますし、無名異焼でも届けを出したままやめたり、亡くなられたり、今は趣味でやっているという方もいるので、正確にはちょっと分からないんですね。
―無名異焼以外にも佐渡には窯元があるのですか。
本間 江戸時代、相川には2つの流れがあり、ひとつは近世初期から羽口屋(はぐちや)と称して金山の羽口焼成から始まり、陶器や素焼、瓦、後に楽焼を始めた伊藤甚兵衛(いとうじんべえ)家。これは現在の伊藤赤水(いとうせきすい)さんの先祖です。
もう一つは、釉薬を使って高温で焼き上げる陶器製造の流れで、寛政年間に黒沢金太郎(くろさわきんたろう)という人が地元の土を使って生活雑器の焼成に成功し、金太郎焼として島内に浸透しました。焼きものは釉薬をかけると硬く割れにくくなりますから、佐渡では黒沢金太郎は「釉薬の祖」といわれています。
―焼きものの系統が違うということでしょうか。
本間 元々佐渡の陶芸には、3系統あったといわれています。普通、焼きものは素焼をしてから釉薬をかけますが、赤焼き(無名異焼)は一発勝負なんですね。明治期に入ると、三浦常山(みうらじょうざん)、伊藤赤水が相次いで高温で焼く堅牢な無名異焼の焼成に成功し、彫塑の置物や器、茶道具が人気となって、無名異焼でも美術工芸的な作品を主とする新しい流れと、湯呑みや急須などの従来からの生活雑器などを踏襲する流れに分かれるんです。
一方の金太郎焼は基本的に生活雑器で、美術品はほとんどありません。黒沢金太郎の家は明治年間に閉窯するまで4代続きますが、明治期に入ると金山が佐渡の観光ルートになり、お土産として無名異焼の需要が高まって、無名異焼をやろうという人が増えました。金太郎焼はそれに押し出されるような形で、3代目の途中で相川から新穂へ移るんです。その後、金太郎焼で修業した人たちが、国中平野など島内各地に窯を開いたのですが、今はもう、ほとんどやめてしまいました。
―焼きものが盛んだったのは、佐渡の土が焼きものに適していたから?
本間 金や銀などの鉱物が採れる場所は相川や西三川のほかに、小さなところも含めると約50か所ほど島内にはありましたから、無名異の土にこだわらなければ、焼きものは作れたと思います。また、焼きものを作ること自体、佐渡の人にとっては非常に身近で取り組みやすかったのかもしれません。けれど佐渡は信楽や瀬戸のように特別に良い陶土があったわけではないし、古くから焼きものの産地でもない。焼きものは、島の人が生活していくための「技(わざ)」だったんですね。
―なぜ無名異焼は美術工芸としても発展し、佐渡を代表する焼きものになったのですか。
本間 様々な要因があると思いますが、相川は天領の地で幕府の中でも地位の高い人たちが多く来ていて、お茶や俳句の心得もあるような方々から注文されて作ることも多かったようです。例えば三浦常山も受注生産で手の込んだもの作っており、注文書には「茶椀にこんな絵を描くこと」など詳細に書かれていたり、細工を施すようなものも受けていたようです。作る側も勉強や工夫をし、注文の品を作った後に、それと似たものを自分で作って売ることもしていたんじゃないでしょうか。
もうひとつ、明治から昭和の始めまでは博覧会や展覧会の時代でしたよね。焼きもので生活をしながら創作活動を行い、博覧会に出品することで、「こんなものもできる」という可能性を探っていたのかもしれません。佐渡から出品して大きな賞をもらうことで、全国に無名異焼が名を知られるようになったんです。
備前や信楽、唐津などに比べると、日本の焼きものの歴史の中で、無名異焼は新しい焼きものといえますから、斬新なことも考えられるわけです。赤土の伝統に基づいて新しいものを作る。五代伊藤赤水さんはその典型だと思います。
素晴らしい技術を持っていた無名異焼の作り手たち
ー無名異焼の作り手が多かった時代、相川郷土博物館の学芸員として、無名異焼のことを詳しく調べておられたそうですね。
柳平 昭和61年(1986)に佐渡技能伝承展示館ができ、そこで佐渡中の陶芸家の焼きものを展示する時に、全ての陶芸家にお願いに回りました。当時島内で40軒ほど、そのうち相川に15〜16軒はあったでしょうか。
ー皆さん、相川の無名異の土を使って作っておられた。
柳平 そこが複雑なのです。無名異焼の始まりは相川の金山ですから、当時の相川の人たちには金山の無名異の土を使うのが無名異焼の本流だという認識がありました。その後、島内各地に陶芸家が増え、いろいろな方が無名異焼を焼くようになると、資源保護の制限もあり、相川の人でなければ無名異の土を使えず、他の地区の人たちはベンガラという着色料を使って焼くようになるわけです。確かに、見ると艶や色合いが相川の人が馴染んでいるものと少し違うんですね。当時、無名異焼を旧相川町の文化財にしようとしたときも、作り手はそれぞれ独自のやり方で作っておられたので、ろくろなどの技術の定義をすることが難しく、それで土だけにはこだわったようです。
その後、平成16年(2004)の市町村合併で、相川の人だけという縛りもなくなり、佐渡市内に住む陶芸家であれば、誰でも無名異の土を求めることができるようになりました。
―無名異焼は相川で生まれ、その後、島内各地に広がったと聞きました。どのように広がっていったのでしょう。
柳平 戦後は相川で育った窯元の弟子の方たちが独立して、特に小平窯にいた人たちが沢山独立し、島内に広がりました。その中には文平窯の清水文平(しみずぶんぺい)さん、良平窯の根本良平(ねもとりょうへい)さんのように、芸術方面で活躍する一方で、高度な職人の技で茶碗や急須なども作る流れができたんです。無名異焼は茶陶(ちゃとう)※や鑑賞用器などの美術工芸と、佐渡の土産物のイメージが強いですが、実は湯呑みや急須など、島民の生活を支える器でもあったんです。
※茶陶:お茶席で用いられる焼きものの総称
もう1つの流れとして、戦争で疎開してきた蝋型鋳造(ろうがたちゅうぞう)の人間国宝である佐々木象堂(ささきしょうどう)さんが、金属不足で作品を作れなくなったので焼きものを始め、そこへ新潟から来た田村吾川(たむらごせん)さんたちが一緒に作るようになり、グループができたんです。島外から地元へ戻ってきた人、無名異にこだわらない作品を作る人も島内に増えたんですね。
―無名異焼について沢山の資料をまとめられていますが、無名異焼の特徴をどうお考えですか。
柳平 やはり、技術です。私は技法をずっと調べていましたが、あれだけ高い技術を要求される焼きものはなかなかありません。ほんの少しのことで傷になってしまうし、普通の陶器より、よほど薄く繊細にしないと無名異焼らしくならないんです。ツヤを出すためギリギリまで磨き込み、でも持つときに手が滑らぬよう、あえて作り込みきらない。それを全てひとりでする作り手もいましたが、窯元によっては分業制で、焼きものに彫る人、絵を描く人、最後に磨く人、それぞれの職人が表に名前は出ないけれど、素晴らしい技術を持っていました。
当時、佐渡技能伝承展示館で体験学習をしていると、見学に来た県外の陶芸家に、「どうして佐渡はそこまでちゃんと手作りで丁寧にやるのか。そこまでしていたらとても手がかかりすぎるのでは」と技と効率のバランスに対してご意見を頂くこともありましたね。
―無名異焼の作り手は皆さんそれぞれ独自の個性を作り上げていますが、これは佐渡という土地が持つ力なのか、それとも育てる環境があったのでしょうか。
柳平 私が実際に調査を始めたのは昭和50年代からですが、窯元で弟子とのトラブルは佐渡ではあまり聞かないですし、上達すれば独立させてくれて、技も惜しみなく教える。小平窯で修業した人たちは、独立して、その子どもの世代まで焼きもので生活できたのですから、すごいことですよね。
相川の私の家の近所にいくつも窯がありますが、昔は窯出しを近所中で楽しみにして、窯から出てくるお茶椀を見てこの色合いがいい、こっちが欲しいと、気に入ったものを我先に手に取りたいから、みんなでそわそわして窯出しを待っていました。そういうことも含めて、この土地の文化だったんでしょうね。
―無名異焼が国の伝統的工芸品に指定されて、改めて感じたことは。
柳平 やはり時代の流れです。昭和60年代には若者5人展などの展覧会を随分相川でやりました。現代工芸展や展覧会に出展したり、皆さん頑張っていましたが、だんだん出品する人も減り、創作から身を引いて、親が作っていた急須や茶碗を踏襲しながら、それでも自分なりの釉薬を作るなど、一生懸命だった若い人のことは特に印象に残っています。
昔はお店に行くと相川の焼きものが並び、急須が飛ぶように売れ、地元の人も「あの人の急須が好き」「この人の急須はキレがいい」、そんな風に作り手と使い手、観光客も含めてやり取りができていた時代が過ぎて、気づいたらお茶もマグカップで飲む時代になってしまった。そのうち作り手も高齢になり、急須は手間がかかるのでもう作れん、となってしまう。
本人の努力と意思だけでは、焼きもので生活していくことはとても大変です。国の伝統的工芸品に指定され、佐渡でどんな方法であれば陶芸家が長く続けられるのか。それをよく考えます。素晴らしい無名異焼の技術と文化を後世に残すために、何がきっかけでもいいから、佐渡で土に携わる仕事をしてくれる若い人が、少しでも増えて欲しい。そう思います。
参考文献/
『「佐渡無名異焼」資料集成』(佐渡市教育委員会、2006)
『羽口屋 伊藤甚兵衛窯』(相川郷土博物館、2006)
『初代三浦常山と無名異焼』(相川郷土博物館、2001)