新潟の豪農や豪商、旧家といわれる家には、代々の婚礼衣裳が残っている家があります。これは歴史ある旧家が多い京都にもない風習だといいます。
 人生の門出を祝う婚礼には、いつの時代もその家の歴史や物語が隠されています。県内には旧家が多くありますが、ここでは2つの旧家にお話を伺いました。

上越・保阪家に残る婚礼衣裳

 12代続く上越屈指の旧家として知られる保阪家。かつて上越地方の97か村をまとめ、新田開発などの事業や学校建設などにも携わるなど、地域に多大な貢献をしてきました。
東洋一とも称される高田公園のハスは、戊辰戦争で困窮した高田藩の財政や、凶作に苦しむ人々のため、8代保阪貞吉が食用のハスを栽培したことに由来するといわれています。
 また、9代当主・保阪潤治は古写本や古文書をはじめ、多くの美術品の蒐集家(しゅうしゅうか)として知られています。昭和21年(1946)の農地改革によって、その多くは散在したものの、現在は国内外の美術館で所蔵され、中には国宝や重要文化財に指定されたものも多くあるそうです。

◎保阪家に嫁いだ女性たちの美しい婚礼衣裳

 「私の祖母が明治27年(1894)にお嫁入りした時の花嫁衣裳です。」と教えてくれたのは、12代当主の保阪洋子さん。冒頭の写真の衣裳が、その100年以上前の打ち掛けです。「長襦袢(ながじゅばん)の襟元には金糸で刺繍(ししゅう)された鶴の模様があり、手間が掛かった仕立てであることが分かります。祖母は新発田からお駕籠(かご)に乗り、16歳で嫁いだそうです。」と洋子さん。

お話を聞かせてくれた12代当主の保阪洋子さん。保阪家に残る貴重な花嫁衣裳を見せてくれました。

 洋子さんの祖母は新発田の市島家から、母のハルさんは秋田県の大地主の家から、それぞれ保阪家に嫁いだそうです。「母は昭和7年(1932)に東京で結婚式を挙げ、そのときは歌舞伎の着付師が婚礼衣裳の着付けをしたと言っていました。」披露宴は上越で、多くの著名人も出席し、高田の駅前通りは警備員が出たほど賑わったと伝えられています。

市島家から嫁いだ祖母の婚礼道具。婚礼道具には保阪家の家紋である「丸二隅立テ四ツ目」が描かれています。

 「祖母の婚礼道具には保阪家の家紋である「丸二隅立テ四ツ目」が描かれていて、大鏡はドイツ製と聞いています。私の父はこの道具を何度も見せてくれて、大事に残してほしいと話していました。」と洋子さん。その言葉どおり、今も洋子さんは祖母や母の花嫁衣裳や婚礼道具を大切に守っています。

先々代の花嫁衣裳を表具にして作ったという3幅の掛け軸

生地全体に細かな鶴の模様が施されています。

 洋子さんは、十数年前から春と秋の2回、自宅の一部と共に広大な日本庭園を公開しています。公開時には、保阪家に代々伝わる貴重な書物や書画をはじめ、時には母や祖母の婚礼衣裳や着物を飾ることもあるそうです。

聖籠町・二宮家の婚礼

 二宮家は新発田藩領蓮潟興野(はすがたこうや)の名主職を務め、江戸末期には庄屋格に遇せられた旧家。明治維新後は千町歩(せんちょうぶ)地主※としてその名を知られ、近年はバラの庭園としても有名です。
 この二宮家には、昭和11年(1936)に行われた婚礼の全てを記した貴重な資料が残されています。
 その中には、婚礼にまつわる経緯から、その準備や手配、またそれぞれの費用までが詳しく記され、昭和初期の新潟の旧家の結婚式が、どのようなものだったのかをうかがい知ることができます。
 9代当主・二宮正光さんに、この資料についてお話を伺いました。

※1000町歩(1000ヘクタール)以上の土地を所有する巨大地主のこと。

◎昭和初期の新潟の旧家の婚礼を今に伝える
 二宮家に保管されている「二宮孝正婚禮諸事留帳」は、現当主二宮正光さんの父・孝正さんと母・慶子さんの婚礼の記録。昭和9年(1934)11月30日に縁談が持ち込まれた経緯から、昭和11年(1936)6月の婚姻届提出、そして婚礼後の挨拶やお礼の贈り物に至るまで、約2年間の婚礼についての全てが2冊にわたって詳細に記されています。

左が縁談が持ち込まれた経緯から顔合わせと結納までの詳細を記した1冊目。右は2冊目で、婚礼準備から婚姻届出とその後までが記録されています。この2冊を通して見ると、壮大な旧家の物語を読んでいるかのようです。

 記録したのは、正光さんの祖父である7代二宮孝順氏。「昔の資料なので、私も読みきれてはいないのですが、例えば縁談話が持ち込まれる前、東京の女学校に通っていた当時の母の様子から、見合いは帝国ホテルで、誰がどこに座ってどんな料理が出たといったことまで、祖父はよくここまで細かく書いたなあと思うほどです。祖父は、長男である父の結婚が、よほどうれしかったんでしょう。」と正光さん。

貴重な資料を見せてくれた9代目二宮正光さん葉子さんご夫妻。

文字だけでなく、ところどころに絵も入って記録されています。

 正光さんの母・慶子さんが柏崎の豪農・飯塚家から二宮家に嫁いだのは19歳のとき。記録によれば婚礼は昭和11年(1936)5月18日から、7日間も続いたとあります。

 「初日は親戚を招いて少人数で行い、翌19日にはお寺さまや分家の人たちを招き、20日には聖籠村の男衆60軒、21日は女衆72軒、23日は小学校の教員18名、24日は小作の世話人33名と記録されています。婚礼でお出しする料理も、見ると日によって献立を変えているんですね。当時はごちそうを食べるのが、何よりの楽しみでしたから、特にこだわったのではないでしょうか。」と正光さん。

5月18日、婚礼初日の献立。当時の新潟の行事食を知る上でも貴重な資料です。

 慶子さんのお嫁入りは、飯塚家のある柏崎から列車の車両を貸し切り、花嫁道具はトラック3台で運ぶなど、実に盛大なものだったようです。「嫁入り当日の柏崎からの列車は何時何分に到着したとか、運転手何人に料理の折詰と酒一本ずつ付けた、ということまで書いてありました。」と正光さん。村人に慕われていた旧家・二宮家の賑やかな婚礼が目に浮かぶようです。

 二宮家には慶子さんの花嫁衣裳も大切に保管されています。「この衣裳は花嫁箪笥(だんす)などの嫁入り道具一式と共に、東京の三越であつらえたものだそうです。それ以上のことは、私も母から聞いていないので、よく分からないのですが。」と正光さん。
 しかし、桐や菊などが織り出された地に、金銀糸の立涌文様と、極彩色に刺繍された鶴が舞う見事なその衣裳は、約90年前のものとは思えないほどの美しさ。伝統的でありながらどこかモダンさも感じられます。

 二宮家の女性たちは、代々この衣裳を着てお嫁入りするそうです。
 「私の妹や娘たちなど、この衣裳を着た花嫁姿は今まで何人も見ましたが、この衣裳を着ると不思議によく見えるんですよ。」と笑う正光さん。
 二宮家の女性たちに代々受け継がれる花嫁衣裳と、昭和初期の婚礼にまつわる貴重な記録。そこには、家の歴史や家族の思い、そして地域の文化が込められています。

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