日本各地には「観音霊場」と呼ばれる巡礼の道があります。代表的なものが近畿地方の「西国三十三所観音霊場」で、新潟にも古い歴史を持つ「越後三十三観音霊場」があります。越後三十三観音第十五番札所(ふだしょ)・千蔵院(せんぞういん)住職の諸橋精光(せいこう)さんにその成り立ちや魅力を伺いました。

千蔵院・ご住職の諸橋精光さん。「越後三十三観音霊場は越後の人のために作られました。新潟には歴史を持つ寺院がたくさんあるということを、多くの人に知ってほしいですね。」

観音霊場とは?

 三十三観音霊場に代表される「観音霊場」とは、観音さまをお祀りする「札所(ふだしょ)」と呼ばれる寺院を順番にお参りしていく信仰の道のことです。札所には一番札所、二番札所と番号がふられ、三十三の札所をすべて巡ることで願いが叶うとされています。
「三十三という数字は、法華経(ほけきょう)に説かれる観音さまが三十三身に姿を変えてお救いくださることに由来します。観音巡礼の始まりは奈良時代にさかのぼります。養老2年(718)、僧・徳道上人(とくどうしょうにん)は死後の世界を体験し、閻魔(えんま)大王から「人々を救うために三十三の観音霊場を定めよ」と託宣(たくせん)(※1)を受け、生き返ってからその教えをもとに近畿地方に三十三のお寺を開いたそうです。これが日本最古の巡礼路「西国三十三所観音霊場」の始まりと伝えられています。」と諸橋さん。

 しかし、その信仰はすぐには浸透しなかったようで、270年後の永延2年(988)、花山(かざん)天皇によって受け継がれます。天皇は出家後、徳道上人が開いた霊場を巡り、それぞれの寺の特徴や観音さまへの祈りを和歌に詠みました。この歌が霊場ごとに伝わる御詠歌(ごえいか)(※2)と考えられています。

 また、花山天皇が木札に歌を記してお堂に打ち付けたことから霊場の寺を「札所」と呼ぶようになったともいわれています。

※1 お告げ。
※2 仏の教えをたたえる歌で、主に和歌に節をつけて唱えるもの。

江戸時代には長岡藩主・牧野家の祈願寺として栄えた千蔵院。

 平安時代は貴族や出家者など限られた人だけが観音さまを信仰していましたが、鎌倉時代に入ると源頼朝が信仰していたこともあり、関東に坂東(ばんどう)三十三観音霊場が整えられます。さらに室町時代には秩父三十四観音霊場が加わり、西国、坂東、秩父を合わせた百観音霊場としての信仰の形が整いました。江戸時代になると、全国各地に三十三観音霊場が次々と開かれていき、さらに街道が整備されると、観音巡礼は庶民に浸透していくようになりました。

 「観音信仰は、苦しむ人を救うという慈悲の教えに基づいています。難しい教えを知らなくても、観音さまに手を合わせるだけで救ってくださる、その身近さが、多くの人々を惹きつけてきたのだと思います。」と諸橋さんは言います。

越後三十三観音霊場の始まりは?

越後三十三観音霊場で作成された冊子。各札所の縁起や地図が掲載され、表紙には各札所のご本尊の観音菩薩が記されています。

 「越後三十三観音霊場は、鎌倉幕府の五代執権だった北条時頼公が定めたといわれています。時頼公は民衆の声を聞くために全国を旅した名君として知られた人物です。全国行脚の途中、康元元年(1256)に越後を訪れ、三十三観音霊場を開きました。

 越後の札所が定められたのが鎌倉時代だとすると、西国、坂東に次いで比較的早い時期に成立したことになり、全国的にみても古い霊場といえますね。」と諸橋さん。

 一方で、越後三十三観音霊場が戦国時代の末期に始まったとする説もあります。
「『越後風俗志』には、天正2年(1574)に、上越地域の番玄(ばんげん)という僧侶が西国三十三の巡礼が叶わない人々のために、越後に三十三観音を開いて巡礼できるようにせよという神様のお告げを受け、上杉家に伝え、その後霊場が開かれたという言い伝えが記されています。」と諸橋さん。

 いずれにしても、全国で霊場が整えられる前に、越後に人々の信仰と祈りが息づいていたことには変わりありません。

越後の札所の魅力は?

越後三十三観音霊場冊子に記された札所の巡礼地図。県内各地域に点在していることが分かります。

 上の地図は、越後三十三観音霊場のおおよその位置を示したものです。上越から一番札所が始まり、中越、下越と広範囲にわたっています。

 「越後の札所のうち、十五の寺院で上杉家の名前が登場しています。宗教家であった上杉謙信との関わりを感じることができるのではないでしょうか。また、全国の霊場にはあまり見られない特徴的な習わしがあり、それが霊場巡りを始める前に、まず能生(のう)の白山神社にお参りするというものです。この風習は、番玄が授かったお告げが能生の白山神社の神様だったことに由来すると考えられています。」と諸橋さん。

歴史に触れる札所の地へ

 「越後の札所は、観光地とは少し違って、札所巡りではないと行かないような海辺や山、村に点在しています。どの寺も歴史があり、実際に訪れることでしか触れられない魅力があります。」と諸橋さん。
 歴史的な建築や装飾、戦国武将・上杉謙信の祈願寺など、巡礼することで知ることも少なくありません。
 ここからは、三十三観音霊場のうち、2つのお寺をご紹介します。
 南魚沼市にある「天昌寺(てんしょうじ)」は、江戸時代の随筆「北越雪譜」にも登場した古寺。そして長岡市の「照明寺(しょうみょうじ)」は、上杉謙信が戦勝祈願したという言い伝えが残ります。霊場を巡ることは信仰だけでなく、越後の自然や歴史に出会う時間でもあるのです。

雲洞庵(うんとうあん)ゆかりの古刹(こさつ)
北越雪譜にもその名が残る
【第十二番札所 天昌寺】


 天昌寺の起源は、縁起(※)によれば、平安時代中期、恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)によるとあり、歴史が古い寺院です。その後、延徳2年(1490)に、雲洞庵の七世禅実(ぜんじつ)和尚(おしょう)を招いて、曹洞宗の寺院として開かれました。
江戸時代の随筆「北越雪譜」の「寺のなだれ」にも紹介されるほど地域の文化史においても注目されている寺院です。
※神社の縁起とは寺社・仏像の造立の由来、利益や功徳にまつわる伝説、またはそれらを記した書物のこと。

「最近は若い方のご参拝も増えてきて、ありがたいですね。」と住職の阿部哲彦さん。

「一般的に正観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)は立像が多く、天昌寺の坐像は珍しいと思います。」と阿部さん。観音堂は本堂から離れた場所にあるため、本堂で観音堂の鍵を預かって参拝します。豪雪地のため、冬期間の参拝はできません。

本堂の欄間彫刻は江戸時代の名工・小林源太郎によるもので、見事な技巧は美術史的価値もあるそうです。


良寛が暮らしたとも伝わる
上杉謙信が祈願した古寺
【第二十番札所 照明寺】


 長岡市寺泊にある照明寺は、源義経や上杉謙信が戦勝祈願に訪れたと伝えられる寺院です。永承2年(1047)、一説では永承4年(1049)に、高野山龍光院に安置されていた聖観世音菩薩を、栄秀(えいしゅう)という僧が背負って諸国を巡っていたときに、この地に着くと菩薩像を重く感じて動けなくなったので、この場所に安置したという縁起が残っています。ご本尊は金銅で作られ、50年に1度ご開帳がされ、次のご開帳は23年後だそうです。

境内の一角にある密蔵院には良寛が一時暮らしたという記録が残っています。

観音堂の船絵、天井絵の装飾も見事です。

「昔は多くの弟子がこの寺にいて、冬になると大根の干し菜で作る雑炊を食べる音が周囲にまで聞こえたという逸話もあり、青菜雑炊の照明寺といわれていたこともあります。」とご住職の亀山隆雄さん。

令和9年(2027)には
「越後三十三観音霊場」記念行事

越後三十三観音霊場では、令和9年(2027)に、北条時頼公生誕800年を記念した特別なご開帳行事が行われます。
 「春(5月16日〜6月30日)と秋(9月1日〜10月18日)の2回にわたってご開帳をし、記念グッズなどの製作も予定しています。その記念行事の前に、令和8年(2026)には越後三十三観音霊場のガイドブックを発行する予定です。越後三十三観音霊場を多くの方に知っていただき、実際にお参りいただけたらうれしいですね。」と諸橋さん。記念行事をきっかけに多くの方が越後の霊場に触れてくれることに期待を寄せていました。

●イベント情報
名称/開創北条時頼公生誕800年 越後三十三観音御開帳
期日/2027年5月16日〜6月30日、9月1日〜10月18日
問い合わせ先/越後三十三観音霊場会事務局(千蔵院)TEL. 0258-33-1962
https://echigo33kannon.org

 

取材協力/
越後三十三観音霊場会事務局(十五番札所・千蔵院)
住所/長岡市柏町1-5-12
TEL/0258-33-1962

第十二番札所 天昌寺
住所/南魚沼市思川39
TEL/0257-82-0147

第二十番札所 照明寺
住所/長岡市寺泊片町2408
TEL/0258-75-2301

参考文献/
越後風俗志/温故談話会/国書刊行会
能生町史下巻/能生町史編さん委員会/能生町役場
文化誌日本新潟県/講談社
越後三十三観音札所巡礼の旅/佐藤高/新潟日報事業社出版部

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