
「ライン川よりも美しい」
明治の時代、阿賀町津川(あがまちつがわ)の川を下りながらそう評した世界的なイギリス人紀行作家がいます。彼女の名前は、イザベラ・バード。明治期の日本の姿を詳細に描写した彼女が新潟を訪れてから、令和10年(2028)で150年の節目を迎えます。メモリアルイヤーを控え、彼女の足跡をたどるまち歩きを通して、当時の新潟の暮らしや文化に迫ります。前後編シリーズの前編は、津川から新潟に到着するまでの旅程をたどります。
※本稿で引用するイザベラ・バードの著書『日本奥地紀行(にほんおくちきこう)』(原題:Unbeaten Tracks in Japan)は、地理学者・金坂清則(かなさか きよのり)氏の訳注による『完訳 日本奥地紀行(平凡社)』(以下『日本奥地紀行』)です。
明治期の日本を旅したイギリス人女性紀行作家
そもそもなぜ、世界的な紀行作家であったイザベラ・バードは日本を、そして新潟を訪れたのでしょうか?
持病があり幼少期から体が弱かったバードにとって、もともと旅は医師に勧められた転地療養(てんちりょうよう※)の手段でした。
牧師だった父から教わった地形の見方や植物に関する知識と、自らの文才を生かし、旅先の国々について執筆を始めました。
※ 住み慣れた土地を離れ、異なる環境で生活することで、病気の療養や心身の回復を図ること。

イザベラ・バード(天保2年(1831)〜明治37年(1904))と、彼女が日本の旅を記した著書『日本奥地紀行』(ともに日和山五合目所蔵)
バードが新潟を訪れたのは、初めて来日した明治11年(1878)、46歳の時のことです。バードは、通訳を務めた当時20歳の伊藤鶴吉(いとう つるきち)とともに東京を出発。約3か月をかけて栃木、福島、新潟、山形、秋田、青森、北海道を巡りました。その後、関西や伊勢神宮にも足を延ばし、日本での旅は約7か月に及びました。
「バードは好奇心旺盛で負けず嫌いだったのでしょう」と推測するのは、新潟イザベラ・バード研究会の代表・伊藤頼子(いとう よりこ)さんです。平成30年(2018)に発足した同研究会は、毎年新潟県内でバードの足跡を巡るまち歩きの開催や情報発信、講演などを行っています。

伊藤頼子さん。新潟イザベラ・バード研究会代表、みるみる沢海まちあるきガイド代表、新潟シティガイドメンバー。阿賀野川の船旅を絶賛する一方で、辛口の批評も多い『日本奥地紀行』を、伊藤さんは「すごく観察眼が鋭くて、正直。その時代の先進国の人が、遠慮なく、率直に日本を読み解いていると思います」と分析しています。
「日本のお葬式にも出たり、アイヌ民族の家づくりを手伝ったり、温泉に入ったり。きっとヨーロッパと異なる日本の文化にワクワクしたんだと思います。文明開化によって日本らしさがどんどん失われていくことを危惧して、当時の日本の姿を本に書き残そうとする意図も見て取ることができます」(伊藤さん)

同研究会が主催する「イザベラ・バードが見た明治の新潟を歩く」当日の様子
長い旅路の中で新潟県内に滞在していたのは約10日間でした。バードは、現地で出会った人々や自然環境を非常に高く評価しており、冒頭の「ライン川よりも美しい」という記述をはじめ「堤防のうち川に出られるところでは馬が柄杓(ひしゃく※)で水をかけて背中を洗ってもらったり」など、自然から暮らしまで、当時の新潟の様子を克明に著書『日本奥地紀行』に書き残しています。
それでは早速、バードが新潟で最初に訪れた土地、阿賀町津川に向かいましょう。
※ 神社などでよく見かける、水をすくう道具のこと。
バードが歩いた明治の津川の面影を探して
明治11年(1878)7月1日に会津から津川へと入ったバードは2泊3日滞在し、『日本奥地紀行』に当時の津川の様子や体験を詳細に記しています。
伊藤さんと最初に向かったのは、阿賀町の伝統行事をテーマにした体験型施設「狐(きつね)の嫁入り屋敷」です。津川は江戸時代には会津藩領で、バードが訪れた当時は現在の福島県に属していました。その後、明治19年(1886)に新潟県へ編入されました。現在「狐の嫁入り屋敷」が建つ場所には、かつて福島県第15区会所と呼ばれる役所のような施設があり、バードが津川で最初に訪れた場所ではないかと考えられています。

阿賀町のシンボル・麒麟山

展示、体験、交流、会議、カフェ、お土産などさまざまなサービスを提供している「狐の嫁入り屋敷」。2階からの阿賀野川(あがのがわ)・常浪川(とこなみがわ)・麒麟山(きりんざん)の眺望(ちょうぼう)は抜群(ばつぐん)です。
ここで私たちを出迎えてくださったのが、阿賀町観光ガイドの薄友一(うすき ともいち)さんです。

阿賀町観光ガイドの薄友一さん。まち歩きガイド歴13年。町役場職員時代からまちづくりに携わり、イベント「つがわ狐の嫁入り行列」の立ち上げや、阿賀町観光ガイドの団体設立にも関わっています。手にしている本が『日本奥地紀行』(原書)です。
津川はかつて「津川宿」と呼ばれた宿場町(しゅくばまち)で、阿賀野川を行き交う船による物流の一大拠点として栄えた川湊(かわみなと)の町でした。
「津川の中心部を通る主要地方道新発田津川線はかつて会津街道と呼ばれ、バードが来た頃は真ん中に水路があったんですよ」(薄さん)

会津街道は交易の要所として重要な役割を担っていました。
津川の町では、バードの著書に「庇(ひさし)の下が通路」と書き記された雁木(がんぎ※)や、「二度直角に屈折し」と書かれた道(下図の赤線部分)、港の交易で扱われた商品や荷物を納めていた蔵など、今も当時の名残を目にすることができます。
※家々の庇(ひさし)を道路側に張り出し、その下を通路とした建物の造り。

当時の地図。「『日本奥地紀行』にはバードが菓子屋でお菓子を買い求めた記述もありますが、どの菓子屋だったのかは分かっていません。バードが津川の町で手に入れたお菓子を再現して、試食会を開いたこともあります」(薄さん)

津川は慶長(けいちょう)15年(1610)に雁木を設置した雁木発祥の地であり、町の人には「とんぼ」と呼ばれ親しまれています。

雁木の下の様子

蔵が点在する津川の街並み
『日本奥地紀行』と照らし合わせながら町を歩くと、あまりにも詳細に書かれているため、今と昔の相違点が分かるのが面白いと伊藤さんは語ります。
とはいえ、すべてが事実どおりとは限りません。たとえば、「(夕食に)出された鮭の切り身はこれまで味わったことがなかったほど美味しかった」と書かれている箇所。これは近年の研究により、時期から考えると、実は「サクラマス」だったのではないかと推測されています。
「詳細に記録されているからこそ、『実際は少し違うのではないか?』と気づくことができ、謎が生まれます。そこをまた考察するのが楽しいんです」と伊藤さん。

町のそばに湧(わ)き出ているのは、もしかしたらバードも飲んだかもしれない清水(しみず)です。現在も地域の人たちによって、大切に守り継がれています。
宿での楽しい語らい、町中を歩いて手に入れたお菓子、絶品だったという鮭(サクラマス)の話、そして本を伏せたような形の切妻(きりつま)屋根の家々……。具体的で生き生きとした描写から、2泊3日という短い滞在ながらも、津川で過ごした時間はバードにとって非常に興味深く、楽しいものだったことがうかがえます。
明治の津川の街並みに思いを馳せながらたどり着いたのは住吉神社。「バードが来た頃の写真と見比べると、社(やしろ)の向きが変わっています」と薄さん。当時はこの神社が街道の突き当たりで、右に曲がった先に船が発着する大船戸(おおふなと)がありました。津川を発つ際、きっとバードは住吉神社を眺めながら船へと向かったのでしょう。

住吉神社
バードの後を追うように、道を辿(たど)り、川べりにたどり着きました。
「ここが大船戸。バードはここで船に乗ったはずなんです」
薄さんが昔の写真と照らし合わせながら教えてくれたその場所は、阿賀野川と常浪川の合流地点です。バードはまさにこの場所から、次の旅へと発ったのでした。

大船戸。手前が常浪川、奥が阿賀野川です。写真中央よりやや奥で2つの川が合流しており、水の色の違いが分かります。
“ライン川よりも美しい”川下りを追体験しながら
大船戸で津川を後にしたバードは、舟べりが低く底が平たい「平田舟(ひらたぶね)」で新潟へ向かいます。
舟は先着順で、満席になり次第出航することになっていたため、7月3日の早朝にバードは通訳の鶴吉に叩き起こされて急いで宿を出発し、乗船します。『日本奥地紀行』には「私は、積み荷の先端に持参の椅子を置いて腰を下ろし」「暑く静かな午後、起きている者は船頭と私を除いてだれ一人いなかった」とあります。

バードが船旅で見たであろう津川の風景は、絶景として葉書になっていました。(津川街道小花地本尊岩絶景) (日和山五合目所蔵)

現在は、本尊岩はありませんが、バードが絶賛した風景が残っています。(新潟イザベラ・バード研究会所蔵)
さらにバードは同書の中で、「キラン(スコットランド北西部スカイ島にそびえる突起に富んだ険しい山)や廃墟なきライン川であり、美しさの点ではいずれにも勝っていた」「まるで夢を見ているような心地良い午後だった」「うっとりするような風景が12マイル(約19キロメートル)続いた」とも記しています。他の乗客にとっては生活の一部だった舟下りも、バードにとっては心躍る体験だったようです。

津川の歴史を今に伝えるマンホール
さて、バードが乗った平田舟が通ったルートは、果たしてどこだったのでしょうか?
『日本奥地紀行』には阿賀野川とだけ記載されていますが、新潟へ上陸するための船の動きや、河岸の風景の描写から、実際には、阿賀野川から小阿賀野川(こあがのがわ)を通って、そこから信濃川を経て、新潟へと入っていったルートが有力とされています。

「小阿賀野川から新潟へ向かったのであれば、ここも通ったはず」と伊藤さんが案内してくれたのは、小阿賀野川と信濃川の合流地点です(新潟市江南区両川)。
今回の取材では、バードのように船で新潟の街へ入る旅を追体験するため、新潟イザベラ・バード研究会が主催する「イザベラ・バードが見た明治の新潟を歩く【沢海(そうみ)編】」にも参加し、水上バス「信濃川ウォーターシャトル」に乗りました。

水上バス「信濃川ウォーターシャトル」

今回は新潟ふるさと村で乗船し、みなとぴあ歴史博物館前で下船しました。
6月中旬のツアー当日はあいにくの小雨模様でしたが、バードが新潟に滞在していたのは7月上旬です。バードも、同じような梅雨空の下を旅した日があったのかもしれません。
水上を進む船の上では、頬(ほお)をなでる風が心地よく感じられました。生い茂る植物や川岸に広がる町並み、船のそばを羽ばたく鳥など、次々に移り変わる景色が目を楽しませてくれます。世界各地を旅したバードも、新たな景色との出会いに胸を高鳴らせていたことでしょう。

『日本奥地紀行』には、舟の上から目にした光景や聞こえた音をもとに地域の人の暮らしも記されています。
バードは7月3日の早朝に津川を出発し、午後3時頃に新潟へ到着しました。バードが目にした明治の新潟は、どのような町だったのでしょうか。そして、その先にはどのような旅が待っていたのでしょうか。後編ではツアーの続きをたどりながら、バードが新潟を旅の目的地の一つに選んだ理由にも迫ります。
取材協力
阿賀町観光ガイド(問い合わせ先:阿賀町役場まちづくり観光課)