阿賀野川
阿賀野川

file-162 外国人の目で見た新潟県の魅力(前編)

海外から注目される日本・新潟

 令和4年(2022)6月に観光目的の訪日外国人客受け入れが再開しました。新型コロナウイルスの流行により、ほぼ消滅したインバウンド需要が急激に回復しています。日本政府観光局(JNTO)の月次報告によると、令和5年(2023)5月の訪日外国人客数は、桜のシーズンである3・4月に比べると閑散期にもかかわらず、回復率では4月を上回り、平成31年(2019)同月比68.5%増の189万8,900人となりました。

 新潟県でもインバウンド需要を巡り、新たな動きがありました。台湾の航空会社であるタイガーエア台湾が、新型コロナウイルス感染症の影響で延期となっていた台北と新潟を結ぶ新たな航空路線を令和5年(2023)1月17日に就航しました。新潟空港では令和2年(2020)3月以降、ソウル便や中国・上海、ハルビン便など全ての国際線が運休していましたが、3年ぶりに国際線復活となりました。

 また、訪日外国人の個人旅行解禁も大きく影響し、妙高市では令和4年(2022)12月~令和5年(2023)5月にかけて訪れたスキー客が54万564人にのぼり、令和3年(2021)12月~令和4年(2022)5月より25%増えており、遠のいていた客足が回復しつつあります。

明治時代の新潟を訪れた女性旅行作家イザベラバード

 今から140年以上前、日本各地を旅し、新潟にも立ち寄ったのがイギリス出身の女性イザベラバードです。天保2年(1831)に生まれ、元々病弱だったバード。医師にアメリカ・カナダへの療養を兼ねた旅行を勧められたことをきっかけに安政3年(1856)に25歳で旅行作家としてデビューし、生涯で南米以外のすべての大陸を旅しました。その中で訪れた日本の旅の内容を『日本奥地紀行』(Unbeaten Tracks in Japan)として出版しています。
 バードは明治11年(1878)5月20日、47歳の時に横浜港に降り立ち、初めて日本の地を踏みました。この頃日本は、前年の明治10年(1877)に日本国内最後の内戦となった西南戦争が起こり、明治維新の立役者であった西郷隆盛が挙兵したものの自刃。バードが来日する直前の5月14日にも西郷と同郷の大久保利通が暗殺される紀尾井坂の変が起こるなど、近代化が進みつつも動乱の時代が続いていました。

 当時、日本では外国人の行動範囲が定められ、移動や行動制限があったため、バードは日本国内を自由に移動できるパスポートの用意や通訳の選定といった旅の準備を進め、6月10日に東京の英国公使館を出発しました。バード一行は東京を出て北上し、日光に滞在した後、新発田藩や村上藩が参勤交代の際に使用した会津街道を通って現在の新潟県阿賀町に抜けるコースを進みました。

会津街道概略図(阿賀町内)

阿賀町内の会津街道の概略図。①~⑮は町内に残る主な遺構
(画像提供:新潟県新潟地域振興局 企画振興部
会津街道紹介ブックレット「会津街道~いにしえから続くみち~」
https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/niigata_kikaku/1298232104525.html

 当時の会津街道は現在のように整備された道ではなく、バードもかなり苦戦した様子が『日本奥地紀行』に描写されています。

昨日[7月1日]の旅はこれまでで最も厳しいものの一つだった。10時間もの大変な旅だったのに、わずか15マイル[24㎞]進んだだけだった。車峠から西に向かう道はたいへん悪名高い道なので、一部の宿駅は1マイル[1.6㎞]そこそこの間隔で設けられている。しかし、多くの町がある会津平野[盆地]とその奥の広大な地域の農・工産物の新潟への移出は、少なくとも津川川[阿賀野川]に出るまではこの道によるしかない。この道は近代的なものの考え方をまったく無視し、山を、推測で言うのも怖いぐらいの急勾配で、真っすぐに上ったり下ったりしている。さらにぬかるみの連続になってしまっているうえに、大きな石が放り込まれて角だけが上に出たり、ぬかるみの中に完全に没したりしている。

(イザベラバード・著/金坂清則・訳注『完訳 日本奥地紀行1 横浜-日光-会津-越後』(平凡社、2012年)P235より引用。※[ ]内は訳者等による補足説明)

 バードは7月1日に宿泊地である津川(現在の阿賀町)に入ると、疲労回復のためか2泊しています。

バードが見た現在も残る阿賀町の“とんぼ”

 バードが滞在した阿賀町は、阿賀野川と常浪川(とこなみがわ)が麒麟山(きりんざん)を挟むように合流する地点にあります。福島まで続く阿賀野川上流は、岩や浅瀬が多く、船が行き来するのに不向きだったため、新潟から来た船は津川の港で荷物を降ろし、陸路で会津まで運び、会津からはその逆の方法で運ぶのが定番でした。そのため、津川が水路・陸路の中継地点として栄えました。

 バードは当時の津川の町について、印象に残った雁木(がんぎ)の様子を次のように記しています。

津川の家の屋根は板葺きで大きな石で重しをしてある。しかし、切妻造(きりづまつくり)の家が通りに面して並び、庇の下が通路(ベランダ)[雁木(がんぎ)]となって続いており、しかも通りは右端で二度にわたって屈折し[鈎型(かぎがた)をなし]、下手は川の堤防上にある宮[住吉神社]の境内で終わっているので、ほとんどの日本の町ほど単調ではない。人口は3,000人で、多くの物資がここから新潟に舟で送られる。
(中略)私は陸路の旅の第一行程を終えることができた。新潟へは明日[七月三日]の朝、舟で向かう。

(イザベラバード・著/金坂清則・訳注『完訳 日本奥地紀行1 横浜-日光-会津-越後』(平凡社、2012年))P239より引用。※[ ]内は訳者等による補足説明)

明治時代後期~大正時代に撮影された“とんぼ”が映る津川の街並み

明治時代後期~大正時代に撮影された“とんぼ”が映る津川の街並み
(写真提供:阿賀町観光ガイド薄友一様)

 「雁木」とは、主に冬の積雪期の通路を確保するため、家屋の一部や庇(ひさし)を道路側まで延ばしたもので、阿賀町では「とんぼ」と呼ばれています。会津地方の方言で「とんぼ」は建物の入り口や、玄関という意味があることから、家屋の一部が延びた雁木のことをとんぼと呼ぶようになったという説があります。現在でも旧会津街道の宿場町としての面影を残しており、バードが目にした街並みを我々も実際に見ることができます。

バードが絶賛した美しい阿賀野川と新潟市

 江戸時代を中心に隆盛を極めた津川の船着場は「大船戸(大船場)」と呼ばれ、150隻もの船が発着し、船荷の積み下ろしをする丁持衆(ちょうもちしゅう)が100人以上働いていました。
 その近辺には船番所、会津藩の米蔵、塩蔵、蝋蔵、物産問屋などが立ち並んでおり、「日本三大河港」と称されていました。この活気に満ちた状況は大正時代に鉄道が整備されるまで続きます。バードは常浪川の船着場から船に乗り、阿賀野川を下って行きました。
 バードは、常浪川と阿賀野川の合流点に近い船着場(現在のきりん橋周辺と推定)から船に乗り、現在の新潟県立津川漕艇場がある場所を通って阿賀野川を下り、新潟に向かいました。

明治時代後期から大正時代の阿賀野川の様子

明治時代後期から大正時代の阿賀野川の様子
(写真提供:阿賀町観光ガイド薄友一様)

 この阿賀野川の船旅を、バードが心から楽しんでいる様子は、次の文章からも読み取ることができます。

二つが合流して一つになった川[阿賀野川]は、もっとゆっくりできればうれしいのにと思えるほどに美しかった。朝には[朝焼けのため]不思議なほど色彩豊かで柔らかかった陽の光は、昼にはギラギラと照りつけることのない輝くような美しい光へと変化した。暑さも酷くはなかった。

(イザベラバード・著/金坂清則・訳注『完訳 日本奥地紀行1 横浜-日光-会津-越後』(平凡社、2012年))P240より引用。※[ ]内は訳者等による補足説明)

 

赤銅色の船頭から藁葺きの屋根、帆柱にぶら下げられた乗客全員の笠に至るまで、舟はまさに「土着」のものだった。日がな一日、瞬時瞬時を楽しんだ。川を静かに下っていくのは賛沢な喜びだったし、空気はおいしかった。また、津川川[「阿賀野川」の誤記]が美しいとはまったく聞いていなかったので、うれしい驚きが湧き起こってきた。そのうえ、1マイル[1.6キロ]進むたびに待ち望んでいた母国からの手紙へと近づいていくのである。津川を出てすぐに、下ってゆく川の流れは幻想的な山々に行く手をさえぎられる感じになった。舟が通れるだけの幅で岩の門が開いたかと思うと、次には再び山にさえぎられるようになったのである。繁茂する木々の間から何も生えていない赤らんだ岩が、その尖塔のような姿を突如現した。まるで裸地なき[緑豊かな]キレーン[※スコットランド離島にある山]、廃嘘なきライン川であり、美しさの点ではいずれにも勝っていた。

(イザベラバード・著/金坂清則・訳注『完訳 日本奥地紀行1 横浜-日光-会津-越後』(平凡社、2012年)P241~242より引用。※[ ]内は訳者等による補足説明)

現在の阿賀野川の写真

現在の阿賀野川の写真
(写真提供:阿賀町観光ガイド薄友一様)

 7月3日に新潟市に到着したバードは1週間もの間、新潟市内に滞在し、当時の新潟についても記しています。

しかし新潟は五万人の人口を擁す美しく繁華な都市である。

(イザベラバード・著/金坂清則・訳注『完訳 日本奥地紀行2 新潟-山形-秋田-青森』(平凡社、2012年)P39より引用。)

 

旧市街はこれまで見てきた町の中では最も整然とし、最も清潔で、見た目にも最高に心地よい。[横浜の]外国人居留地のような雑踏もない。(中略)みごとなまでに清潔なので、この掃き清められた町通りを泥靴で歩くのは、日光でもそうだったが気がひけるほどである。エディンバラの当局にとってよい教訓になるだろう。藁や小枝の一本、紙切れ一枚でも落ちていればすぐに拾って片付けられるし、ごみは蓋付きの箱や桶に入っている場合は別として、一瞬とて路上にほうっておかれない。

(イザベラバード・著/金坂清則・訳注『完訳 日本奥地紀行2 新潟-山形-秋田-青森』(平凡社、2012年)P40より引用。※[ ]内は訳者等による補足説明)

 このようにバードは新潟について、故郷であるイギリスの都市の名前を引き合いに出し、最大級の賛辞を送っています。

遊覧船体験も!現在も四季折々の美しい景観が残る阿賀野川

 バードがライン川よりも美しいと絶賛した阿賀野川には、現在も美しい景観が残っており、実際に船に乗って周遊することができます。
 「道の駅阿賀の里」発着の「阿賀野川ライン遊覧船」は、1年を通して運行しており、ゴールデンウイーク時期には爽やかな新緑、秋は一面の紅葉、冬は水墨画のような雪景色が広がり、四季折々の阿賀野川の姿を見ることができます。

 現在運航しているコースは、「道の駅阿賀の里」発着の咲花温泉を周遊するコースとなっています。遊覧船の名前は「イザベラ・バード号」。阿賀野川を絶賛したバードにちなんでこの名前がつけられました。冷暖房が完備された、トイレ付きの快適な船内で、船頭によるガイドを聞きながらゆったりと阿賀野川を周遊します。阿賀野川沿いのJR磐越西線を通る「SLばんえつ物語」号のダイヤと運航のタイミングが合えば、SLが鉄橋を渡る瞬間を見ることもできます(「SLばんえつ物語」号は令和5年(2023)は9月末まで運行)。

 また、令和2年(2020)から阿賀町観光ガイドの方々によって、バードが阿賀町を訪れた7月1~3日に合わせて、町歩きや、ボートで阿賀野川を遊覧するイベントを行っています。ガイドの薄友一さんによると、バードの足跡を辿って、阿賀町を訪れたり、イベントに参加する観光客の方もいるとのことです。

町歩きイベントの様子

町歩きイベントの様子
(画像提供:阿賀町役場 まちづくり観光課)

 「津川は火事が多かったところで、明治13年(1880)と23年(1890)に大火がありました。そこで焼失してしまったのか、バードが残した書籍以外に、バードにまつわる記録は津川では見つかっていません。当時の新潟の貴重な様子を記録してくれたバードの功績を伝えるためにも、今後石碑を建てることなども検討しています。」(薄さん)

 バードの心を揺さぶった阿賀野川や新潟の姿は、140年以上の時を経た現在も残っており、彼女の足跡は地域の人たちによって受け継がれています。

 

掲載日:2023/10/30

 

【出典】
″訪日外客数(2023 年 5 月推計値)″. 2023年6月21日. 日本政府観光局(JNTO).
https://www.jnto.go.jp/statistics/data/20230621_monthly.pdf(2023年7月18日閲覧)

外国人観光客が戻ってきたー新潟妙高市のスキー客25%増⤴54万人に.
新潟日報.2023年6月3日.新潟日報デジタルプラス.
https://www.niigata-nippo.co.jp/articles/-/226224.(2023年7月18日閲覧)

・イザベラバード・著/金坂清則・訳注『完訳 日本奥地紀行1 横浜-日光-会津-越後』(平凡社、2012年)
・イザベラバード・著/金坂清則・訳注『完訳 日本奥地紀行2 新潟-山形-秋田-青森』(平凡社、2012年)

【取材協力】
・新潟県新潟地域振興局 企画振興部
・阿賀町役場 まちづくり観光課
・阿賀野川ライン遊覧船 林真一郎 様
・阿賀町観光ガイド 代表 薄友一 様

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