歴史を調べていると、意外なところで新潟のお菓子が歴史上の人物や逸話に関わっているのを見つけることができます。教科書や文献でしか知らなかった歴史上の人物が、新潟のお菓子を好んでいたと聞くとぐっと親近感もわいてきます。
 お菓子と日本人、そして新潟にまつわる逸話について、お話を伺いました。

お菓子から見えてくる歴史の面白さ

新潟県立歴史博物館
学芸課 専門研究員 渡部浩二さん

  渡部さんの専門は江戸時代。江戸時代のことを調べていたら、当時の日記や産物の番付など、あちこちにお菓子が出てくるのに気づいたそうです。「私たち現代人にとってお菓子は身近なものですが、江戸時代はどうだったんだろう?というところから調べるようになりました。調べていくうちに面白くなって、その前の時代から近代まで調べるようになりました。普段何気なく食べているお菓子から、歴史を振り返るのも楽しいですよ。」

  そんな渡部さんに、歴史に登場する新潟のお菓子をいくつか教えていただきました。

源義経にまつわる新潟の餅「弁慶の力餅」

 「江戸時代、北国街道の難所として知られた米山(よねやま)峠の亀割坂(かめわりざか)にあった茶屋の名物菓子に「弁慶の力餅」があります。これは十返舎一九(じっぺんしゃいっく)も越後を旅した際の本の中で紹介しています。」と渡部さん。

  源義経が兄・頼朝に追われて越後路に入った際、義経の妻がこの亀割坂で産気づき、出産。弁慶は金剛杖で水を湧き出させて産湯を取り、懐に持っていた餅を力餅として献上したという伝説があります。
 その伝説をもとに、「この餅を食べると安産のお守りになる」ということを記した巻物を、茶屋の人が店の前で読み上げ、上手に客を誘っていたそうです。

 「江戸時代後期になると、人々の間で旅が盛んとなり、越後や佐渡でも街道の茶店で名物菓子が生まれるようになりました。地元の伝説から商品を開発し、それを宣伝して全国で評判になる。現代ではよくある話ですが、それは江戸時代からあったんですね。」と渡部さん。

高杉晋作が亡くなる前に食べた新潟のお菓子「越乃雪」


 吉田松陰の弟子であり、幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した高杉晋作。労咳(ろうがい/現在の肺結核)を患い、27歳で亡くなっています。
 その亡くなる十日ほど前に、奇兵隊の三浦梧楼(ごろう)が見舞いに行った際、高杉晋作は盆栽の松に越乃雪を粉にしてふりかけ、「おれはもう今年は雪見ができないだろうから、こうして雪見の名残を楽しんでいるんだ」と言ったという話があります。

 江戸時代に越乃雪は、藩主や藩士の贈答品や見舞品として盛んに求められ、江戸や上方にまで広く知られていたといいます。高杉は長州藩士なので、今の山口県にまで越乃雪は知れ渡っていたということになります。

お店には明治天皇ご巡幸の際、お供の岩倉具視や大隈重信も、越乃雪を買い求めたという記録が残っています。御用箱や御用菓子関係の文書なども展示されています。

越乃雪本舗大和屋は安永7年(1778)の創業。10代目岸洋助さんと11代目の佳也(よしや)さんも、代々、越乃雪の製法を口伝で受け継いでいるといいます。

 その越乃雪のはじまりは、安永7年(1778)。病に倒れた長岡藩9代藩主・牧野忠精(ただきよ)公を心配した家臣が、大和屋の祖先・大和屋庄左衛門に相談し、庄左衛門が寒晒粉(かんざらしこ)に甘みを加えたお菓子を作って献上したところ、忠精公の食欲が進み、ほどなく病が治ったといいます。
 「お喜びになった忠精公より、『実に天下に比類なき銘菓なり。吾一人の賞味は勿体なし。之を当国の名産として売り拡むべし。』とこの菓子に越乃雪の名を賜り、その後、文化6年(1809)には藩の贈り物用菓子の御用達も命じられました。」と10代目岸洋助さんと11代目の佳也(よしや)さん。

ほろりと雪のような口溶けの越乃雪。徳島産の生の和三盆を使うなど材料だけでなく、道具にもこだわりがあります。きめ細かな越乃雪を切るのは与板の打刃物、湿気を調節する渋紙は小国和紙、篩(ふるい)は寺泊の曲げ物と「新潟のものを使って作る」という思いを代々受け継いでいるそうです。

 河井継之助や、「米百俵の精神」の小林虎三郎なども師である佐久間象山へ贈り物として越乃雪を使ったという資料なども残っているそうです。
◎越乃雪本舗大和屋 https://www.koshinoyuki-yamatoya.co.jp

徳川将軍に気に入られた糸魚川のお菓子「御(おん)ゆべし」

350年以上、一子相伝で今も作り続けられている「御ゆべし」。

 「糸魚川は江戸時代、加賀百万石の前田家の参勤交代の道中だったため、加賀の殿様がたまたまお土産として徳川将軍に献上したところ、とても好評で加賀藩が面目を施したと伝えられているんです」と渡部さん。

 その御ゆべしを作ったのが、今は仏具屋になっている京屋さんというお店。
 京屋さんは加賀藩の殿様にたいそう褒められ、「このゆべしに御(おん)の字を付けて御ゆべしと名乗るように」と言われたそうです。渡部さんによれば「当時、『御』が付くのは特別なこと。京屋さんは『ゆべしだけは絶やしてはならない』を家訓に、仏具屋となった今も一子相伝で350年以上、御ゆべしを作っておられます。」とのことです。

14代目の木嶋由紀さんと母の和子さん。大量のゆずの皮むきは母娘で行うそうです。「御ゆべしは、吸物の椀種やおむすびの具にしたり、チーズをのせて焼いて食べたり、小さく切って酒の肴にもできますよ。」

  京屋14代目の木嶋由紀さんと母の和子さんに聞くと、御ゆべしは、御所の料理人だった祖先が慶長19年(1614)の大坂冬の陣の戦禍を免れ、糸魚川にたどり着き、京のゆずみそを懐かしんで作ったものだそうです。

 「糸魚川は昔からゆずの産地。地元のゆずを冬に仕込み、それを地元のみそでこねて作ります。製法は一子相伝のため、他には出さず、代々受け継いでいます。」と由紀さん。現在は仏具屋のため、お店では販売せず、作った御ゆべしは物産館などで販売してもらっているそうです。
  お菓子と言うよりも、おかずに近いと渡部さんは言います。
「糸魚川ゆべし自体は、その昔、難所である親不知を通る旅人に、携帯保存食として重用されていたそうで、食べると江戸時代はこういうものを携帯食にしていたのかと実感できます。糸魚川ゆべしは、元治元年(1864)発行の「越後土産」の番付上位にもランクインしています。」
◎京屋 糸魚川市本町8−7 tel.025-552-0025

上杉景勝に仕えた武将が常に懐に入れていたお菓子「椿餅」

 阿賀野市・旧水原町名物の「椿餅」。上杉家に仕えた水原ゆかりの武将は、腰に椿餅を巻き、兵糧にしていたという逸話があります。

 「餅ですから、ガチガチに固くなったでしょうし、それを焼いて食べたのではないでしょうか」と教えてくれたのは、阿賀野市にある水吉菓子店13代目の水吉滋樹(しげき)さん。現在も椿餅を作り続けている2軒のうちの1軒で、江戸時代は弥彦屋という名で操業していたそうです。
 水吉さんによれば、「今はもう、そのお店はなくなりましたが、確か『大月屋』という名のお店が、椿餅を徳川家に献上したことがあるそうですよ。」とのこと。

 毎年、8月末に行われる水原まつりでは、今も甲冑姿のこどもが椿餅を1本ぶらさげて武者行列をするそうです。

明治3年(1870)創業の水吉菓子店。13代目の水吉滋樹さん。

◎水吉菓子店 阿賀野市中央町2-11-13  tel.0250-62-2265

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