古くから至高の芸で知られる古町芸妓。その古町芸妓を代表する踊りに、相川音頭があります。昭和35年(1960)、芸妓衆による3人立ちの組踊りとして初めてお座敷で披露されると、瞬く間に評判となり、「古町芸妓の相川音頭」は全国に知られるようになりました。
振りを付けたのは市山流宗家6代目市山七十郎(いちやまなそろう)。日本舞踊へと進化を遂げた市山流の相川音頭について、7代目市山七十郎さんに伺いました。
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file-179 相川音頭の物語《前編》
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湯船の中で生まれた、古町花柳界を代表する演目「相川音頭」

市山流7代目宗家・市山七十郎さん。平成6年(1994)、「うしろ面」で文化庁芸術祭賞受賞。平成15年(2003)、市山流が新潟市無形文化財第1号に認定。平成30年(2018)、市山七十郎を襲名。令和5年(2023)、日本舞踊の国重要無形文化財指定により、新潟県初の国重要無形文化財保持者に認定。市山流7代目として歌舞伎の世界で指導も行っています。
―古町芸妓といえば相川音頭、そういわれるほど有名な演目です。振りは先代が付けられたそうですが、なぜ相川音頭を?
市山 母はもともと、相川音頭の源平軍談の第五段「義経の弓流し」のくだりがとても好きで、相川音頭をいつか日本舞踊にできないかと、ずっと考えていたようです。
とは言っても、母は佐渡で相川音頭を見たわけでないんです。古町花柳界のお座敷では、昔から佐渡おけさや十日町小唄などの新潟の民謡は唄われていますから、母は「義経の弓流し」もよく知っていました。ただ、お座敷の芸は日本舞踊なので、佐渡おけさや十日町小唄といっても民謡とは唄い方も振りも踊りも違いますよ。
―振付はどうやって考えられたのでしょう。
市山 相川音頭の振りについて詳しいことは私も聞かないし、母も言わなかったのですが、振り付けはお風呂の中でひらめいたと言っていました(笑)。
―お風呂の中で、ですか?
市山 母はとても長風呂な人で、湯船の中でいろいろ考えるんですね。それで、3人の組踊りで相川音頭の振りを考えて、芸妓さんたちに教えて、お座敷に出したのが昭和35年(1960)。最初に演じたのは、立役(たちやく・男役)で有名だったまり千代さんと幸子さん、女形の寿賀子さん。立役で知られる清子さんは、まだその時は参加していませんでしたね。相川音頭の稽古は相当に厳しかったです。
―市山流は芸に厳しいことで有名ですが、中でも相川音頭は特に厳しかったと。
市山 自分の好きな唄に、自分で振りを付けたわけですから、自分が思ったように動いてくれないと母は気に入らないわけです(笑)。特に相川音頭は源平の合戦ですから、1人が義経になってみたり、1人が平家になってみたりという振りで、立ち回りも3人の息がぴたりと合わなければいけない。それにお座敷ですから、お客様から見て3人がきれいに見えなければいけない。なによりその唄の「場面」を、ちゃんと見せなければいけません。
―相川音頭はどんな踊りでしょうか。
市山 相川音頭というと民謡かと思われますが、市山流の相川音頭は日本舞踊です。そして見ていただくと分かりますが、ちゃんとお芝居になっている。
義経が落とした弓が波にさらわれ流れていくのを、こんなふうに取って、という振りがあったり、源氏と平家が戦っている様子など、その場面をきちんと見せなきゃいけませんから、この踊りは3人の息もぴたりと合わないとできません。

義経が海に弓を取り落とした、「いかがしつらん弓取り落とし」の場面。
ー昭和35年(1960)に初めてお座敷で披露されてすぐに大変な評判になり、「古町芸妓の相川音頭」は全国に広まったと聞いています。
市山 見た人が広めてくださったと思います。佐渡の相川音頭はもともと男性が踊るものですが、花柳界には男性がいませんし、女性があの男装をすることで色気もある。多分、宝塚の男役に憧れるような感覚もあったでしょうね。
当時は県外からたくさん依頼をいただいて、中には「相川音頭だけ踊りにきてほしい」という依頼もあって。それで当時の古町のお姐(ねえ)さん方が全国を回りました。
ー「教えてほしい」という依頼も多くあったとか。
市山 相川音頭が評判になった頃、宝塚からも「やりたい」という話はありました。当時まだ古町には藤間流の方もおられて、市山流の振り付けで新潟おけさや十日町小唄を一緒に踊ることもあったからか、「相川音頭も教えてほしい」と母は言われたそうです。
でも、相川音頭は3人で息が合わないと絶対できないし、流派が違うと間(ま)の取り方も、振りも微妙に違うから、ちょっとそれは……と言っていました。

義経が海に落とした弓が流れていった、それを取ろうとする場面。「流れ夜弓とらんとすれば」のくだり。
―市山流は、昔から歌舞伎の世界で指導もされています。歌舞伎界や全国の花柳界でも「相川音頭」は有名で、18代中村勘三郎さんも「これを絶対やりたい」と言ったとか。
市山 昔は歌舞伎の地方巡業が年に一度はあって、新潟にお泊まりのときは、祖母や母がお座敷に皆さんを呼んで、相川音頭などを出していました。
亡くなられた18代勘三郎さん、当時はまだ勘九郎さんでしたが、新潟巡業に来た際に、お座敷で相川音頭を見て、その場で「これを絶対にやりたい、俳優祭(はいゆうさい)でやりたい」と言われたんですね。
俳優祭は年1回、日本俳優協会主催で開催される会で、歌舞伎俳優が男女や老若など、いつもと役割をひっくり返して演じたり、役者が模擬店で売り子になったりする、ファンのためのお楽しみ会。そこで相川音頭や岩室甚句、樽の盆踊りを出したいということで、母と芸妓さんたちと一緒に教えに行きました。当日は役者さんたちがみんな樽を叩いてね。勘九郎さんは「鼓を打ちたい」と言うので、相川音頭で鼓を打たれました。
―古町の芸妓さんたちの間でも、相川音頭は憧れの演目だそうですね。
市山 お姐さんたちが相川音頭を踊るのを見て、若い芸妓たちも、いつか踊りたいと思ったらしいですよ。でも、それにはきちんと立役が踊れるようにならないとね。
今、相川音頭を踊る芸妓たちは、必ずお座敷の前に3人揃ってお稽古に来ます。3人の息を揃えなければいけませんからね。

急な引き潮で沖に流される弓を平家に取られるものか、という場面「波に揺られてはるかに遠き/弓を敵(かたき)に渡さじものと」のくだり。
―今年の春は新橋演舞場の「東をどり」(※)で相川音頭を披露されたそうですね。
市山 今年の「東をどり」は100回記念だったので、2年前から「ぜひ相川音頭を出してほしい」とずっと言われていまして、新橋花柳界からの要望だったんです。当日は全国の花柳界が集まりましたが、後からの評判で「新潟が実に格好よかった」という声が多かったそうですよ(笑)。
(※)年に一度、新橋演舞場で行われる新橋花柳界の舞踊公演。大正14年(1925)に新橋演舞場のこけら落としとして始まり、令和7年(2025)に100回目を迎えました。
◎古町芸妓の「相川音頭」を見るには
まず、イベントなどで見る方法があります。
古町芸妓総出演で行われる「ふるまち新潟をどり」は、古町芸妓が磨き上げた芸を、一般の人たちに年に一度、披露する舞台。演目は毎年変わるため、相川音頭が入っていない年もあるので、事前に演目を確認してください。
また他の各種イベントでも、相川音頭が演目として出ることもあります。
料亭のお座敷で見たいという場合は、まず芸妓さんを呼べる料亭を選び、電話での予約時に「相川音頭を見たいのですが」と相談すると、料亭が芸妓さんの手配も行ってくれます。
芸妓さんを呼ぶと、料亭の飲食代の他に花代がかかります。相川音頭は3人の組踊りのため、踊り手3人と地方(じかた・唄、三味線)2人の計5人の芸妓さんをお願いすることになります。また相川音頭は特別な踊りのため、花代も通常とは異なります。
芸妓さんを呼べる料亭や、お座敷の予約の仕方などはHPで確認できます。
◎柳都振興 https://www.ryuto-shinko.co.jp
◎柳都にいがたふるまち情緒 https://furumachi-sangyou.jp
◎第37回ふるまち新潟をどり
https://www.ryutopia.or.jp/performance/event/37502/
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