file-34 木喰仏は地域の宝 ~手で触れられるという身近さ -太郎丸の木喰仏さん

~手で触れられるという身近さ-太郎丸の木喰仏さん<

高橋実さん

「高橋実さん」
高橋さんの書斎にて、沢山の木喰仏の資料を拝見しながら、お話をお聞きしました。

 江戸時代末期の遊行僧(ゆぎょうそう)・木喰上人(もくじきしょうにん) は、人々を苦しみから救うために、全国を巡り、千体以上とも言われる仏像を彫りました。その仏像は、木喰仏(もくじきぶつ)と称され、優しい微笑みから「微笑仏(みしょうぶつ)」とも呼ばれています。全国で現存する約620体のうち約260体が新潟県内で確認されています。

全国木喰研究会事務局長の高橋実(たかはし みのる)さんは長岡市小国町在住。木喰仏の宝庫、新潟から木喰仏研究の発信をしている高橋さんに、木喰仏と関わることになったきっかけ、その魅力について、ご自宅でお話をうかがってきました。

太郎丸の木喰さん

「真福寺の仁王門」

「真福寺の仁王門」
本堂に向かう石段を登ると現れる仁王門。この門の両脇に立つ阿吽の像が参拝者を迎えてくれます。

仁王尊立像吽形

「仁王尊立像吽形」
1体が560kg以上、高さは2.44m。
けやきの堅木製。

 高橋さんが住んでいる小国町の太郎丸という地区に、木喰仏のある寺として有名な真福寺(しんぷくじ)があります。子供のころから木喰仏と身近に接してきたことが、今の高橋さんの木喰仏との関わりの基本となっているようです。

 「やっぱり、『太郎丸の木喰さん』ですね。太郎丸の真福寺(しんぷくじ)には、一本の欅(けやき)から2体の像が作られたと伝えられている仁王尊(におうそん)の阿形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)の一対のほか、梨の立木に彫ったとされる梨木観音仏像と金毘羅像の計4体があります。木喰仏は、3メートルを超える巨像から、10センチにも満たない小像まで大きさはさまざまです。

 しかし、総じて平均50センチ程度ですから、真福寺の仁王尊は、数少ない2メートルを超える巨像で、それは迫力満点です。私が通っていた結城野小学校(すでに廃校)が真福寺に近く、仁王尊は、授業で写生したり、寺で団子撒きがあると行って見ていましたので、子どものころから身近な存在でしたし、親しみもありましたね。」

木喰仏はとなりのおじいちゃんみたいなもの

仁王尊立像阿形

「仁王尊立像阿形」
圧倒的な重量感と躍動的な表情が印象的な傑作。

 高橋さんにとって、やはり木喰仏の魅力と言えば、その親しみやすさ。仏像と言えば、一般的には手で簡単に触れることのできないものですが、木喰仏は違う、と高橋さん。

 「長岡市上前島にある金毘羅堂(こんぴらどう)のものは、顔が擦り減ったり、背銘(はいめい)が消えてしまったものがあるんです。子どもたちが、川で水遊びに使ったり、そりにして雪遊びをしたためだと言われていますね。このような言い伝えが、他のところでも多くあります。」

 木喰仏には、「囲炉裏端に座っているとなりのおじいちゃん」みたいな親しみやすさがあり、それが多くの人に愛される最大の理由ではないか、と高橋さんは考えます。

 高橋さんが事務局長を務める全国木喰仏研究会は、平成4(1992)年創立の新潟県木喰仏研究会がもとになっています。新潟県は木喰仏の宝庫だったため、研究や保存活動をする人が多かったためか、全国にさきがけ、木喰仏研究会が作られました。それが全国木喰仏研究会になったのは、平成14(2002)年。当時、全国的な研究会組織は他になく、県外の会員が多かったので、新潟県木喰仏研究会を全国木喰仏研究会にしたのだそうです。現在、年1回、発行している機関誌「微笑仏」は17号になりました。元長岡市中央図書館長であった、現顧問の大久保憲次(おおくぼ けんじ)さんが中心になって編集しています。子供のころから木喰仏に親しんできた高橋さんも、あとから入会してお手伝いすることになり、現在に至っているのだそうです。

<マメ知識>

「木食(喰)」とは?
五穀(米、麦、あわ、ひえ、きび)を断ち、煮炊きしないものを常食とする修行を木食戒といい、一定の期間この行を努めた者に授けられる称名。

file-34 木喰仏は地域の宝
~我がまちの宝に誇り-震災を乗り越え、地域の絆を育む十王堂の木喰仏

我がまちの宝に誇り-震災を乗り越え、地域の絆を育む十王堂の木喰仏

十王堂入り口

「十王堂入り口」
県道からの入り口に並ぶお地蔵さまと二十三夜塔。

葬頭河婆

「葬頭河婆」
不気味ながら愛嬌のある葬頭河婆。

 柏崎の市街地を走る国道8号線から郊外に向かってわずかに入ると、通りから少し奥まったところに十王堂はあります。十王堂は平成19(2007)年7月16日の中越沖地震で被災しました。現在の建物は同地に再建されたものですが、通りの入口から奥に向かって並んでいる14体のお地蔵さまは、昔から十王堂の敷地にあったもので、昔の名残をとどめています。

 この十王堂で、木喰の傑作といわれる閻魔大王坐像(えんまだいおうざぞう)を始めとした十王尊坐像(じゅうおうそんざぞう)、頻頭慮尊者坐像(びんづるそんじゃざぞう)、葬頭河婆半跏像(しょうつかばばはんかぞう)の12体が作られました。完成は文化2(1805)年の年明け、木喰上人が米寿(88歳)を迎えた時と伝えられています。

 以来、地域の人々が引き継ぎ、守り続けてきた木喰仏は、震災を乗り越え、今も地域の人々を見守っています。現在、12体のうち、十王尊のうちの3体と葬頭河婆の合計4体が柏崎市立博物館に出張しており、残りの8体が十王堂に鎮座しています。十王堂世話人の中村信吾(なかむら しんご)さん、瀬下勝美(せじも かつみ)さんに、十王堂の木喰仏についてお話をうかがいました。

木喰の傑作-傑出する「威力の表現」

 「十王堂の木喰仏は、木喰の代表作とみなされるものばかりです。閻魔大王と十王尊の怒っている迫力の中に笑ってるかのような微妙な表情が見られますし、お頻頭慮(びんづる)さんは、あふれるばかりの慈悲深い表情から傑作と言われています。同博物館の葬頭河婆(しょうつかばば)も気味の悪い形相ながら、見入っているうちに愛着が出てくるのが不思議ですよ。」

 十王堂には、木喰仏を世に紹介した大正時代の民藝活動家、柳宗悦(やなぎ むねよし)の手紙が額装され、掲げられています。大正13(1926)年に、柳宗悦が十王堂に調査に来た時にお世話をした当時の世話人にあてた礼状で、各像の名称、完成年月日が記され、「威力の表現において木喰上人の作中、傑出せるもの」と書いてあります。

 残念ながら、中越沖地震で閻魔大王も前歯が欠けるという被害を受けてしまいました。「歯は欠けてしまいましたが、閻魔大王の迫力は保たれています。大きな地震でしたし、みんな倒れてしまいましたが、よくこれだけの被害ですんだと思っています。」と中村さん、瀬下さん。

柳宗悦の手紙

「柳宗悦の手紙」
柳宗悦の長文は珍しいとされる貴重なもの。大切に額装され、木喰仏を見守る位置に掲げられています。

木喰仏によって育まれる地域の一体感

「閻魔大王」

「閻魔大王」
閻魔大王の欠けた歯。

おびんづるさん

「おびんづるさん」
つるつるのお頻頭慮(びんづる)さん。

 十王堂の木喰物は、みんな黒光りして、つやがよく、十王堂の木喰仏は大切にされてきたことがうかがえます。

 「十王堂は尼僧庵でしたので、煮炊きした煙が染み込んだり、地域の皆さんに触れられ、撫でられたりして、つやが出たんでしょう。地域の皆さんの手の届くところにあったんです。でもこのように黒光りして、つやがあるのは、代々の世話人さんの手厚い管理のもと地域のみなさんが、大事にしてきた証拠ですね。なかでも、お頻頭慮さんは、お参りする人の病気や怪我をしているところを撫でると治ると言われているので、つるつるですよ。特に、頭のてっぺんが。」

 現在、世話人として木喰物を守っている中村さんと瀬下さんは、地域のみなさんと木喰仏の関わりについてお話してくれました。

 「今日まで、地域の皆さんの連帯感や交流の場などが醸成されてきたのは、十王堂や木喰仏さんの存在が大きく関わってきたんだなあと感じています。木喰仏は、『人と人、心と心のふれあいを大切にしたい。』という精神を育んでくれるものと思います。」

 地域の宝として、これからも地域の人から大切にしてもらい、関心を持ってもらい、守っていけたら、との思いから、ここ関町(せきまち)町内会で、十王堂木喰仏保存会をつくってもらったそうです。その保存会の主催で、平成19(2007)年から、毎年1回、6月に「木喰祭」を開催。町内の方々に集まってもらい、お経をあげ、講師を招いて木喰仏にかかわる講話をしています。

 また、子供のころから関心を持ってもらえるようにと、年一回、小学校高学年から清掃活動をしてもらい、終わった後に、十王堂や木喰仏の由来を聞いてもらっているそうです。「翌日、子どもたちに『昨日は御苦労さん。』と声をかける時は、嬉しいですね。」と中村さん、瀬下さん。

 今年、発刊した町内会史誌「関町ひゃくねん物語」にも、十王堂と木喰仏に係わる歴史的な記録や地域の皆さんの想いを、「我がまちの宝に誇り」と題して掲載しています。木喰仏は今もしっかりと地域の中に生きているのです。

<マメ知識>

「葬頭河婆(しょうつかばば)」とは?
三途の川の渡しで、死者の衣類を剥ぎ、その衣を領樹の枝にかけて罪の軽重をはかる老婆。

「頻頭慮尊者(びんづるそんじゃ)」とは?
釈迦(しゃか)の弟子。日本では、信者が病気をしている部分などをなでると治るという「撫(な)で仏(ほとけ)」の風習とともに広がった。

file-34 木喰仏は地域の宝 ~ユニークなアイディアで保存活動 -西光寺のミニチュア木喰仏

ユニークなアイディアで保存活動-西光寺のミニチュア木喰仏

遠藤住職さん

「遠藤住職さん」
取材当日は、団体のツアー客も来訪。ツアー客に説明する遠藤さん。

 木喰上人は、柏崎十王堂の12体完成後、さらに柏崎、上越の各地を廻って精力的に仏像を製作しています。そのうちの1つ、柏崎市西山町の西光寺(さいこうじ)には、十二神将像があります。木喰の足跡を追うように、西光寺を訪ね、ご住職、遠藤正光(えんどう せいこう)さんにお話をお聞きしました。国道116号線から少し入ったところに、白鳥の飛来地で知られる長嶺大池があります。その池を望む自然に恵まれた高台に、西光寺はあります。

屋根裏から現れた十二神将像 -多彩な表情を見せる木喰仏

自刻像

「自刻像」
十二神将像の前列中央に位置する、木喰上人の自刻像と言われる作品。

「十二神将像」

「十二神将像」
全ての像の高さが、50㎝程度。普段はガラスケースに収められているが、見学時は、ケースを開けてもらうことも可能。

 西光寺の十二神将像は、昭和4(1929)年に、本堂の屋根の葺き替えを行っていた時に12体がまとまって天井裏から発見されたと言います。西光寺にまつられていた薬師如来の守護神として、木喰上人が十二神将像を作られたのが、文化2(1805)年。いつから屋根裏にしまわれていたのか、なぜ人目を避けて天井裏に置かれていたのかは定かではありません。この寺は、度重なる山崩れなどで幾度となく移転、建替え、補修が行われたことが分かっています。そのためのいずれかの工事の際、とりあえず保管されたまま、何かの理由で忘れられてしまったものではないかと推測されています。

 木喰上人の十二神将像は、西光寺の他に栃木県鹿沼市にもあり、それは安永9(1780)年、木喰上人63歳の時の作品と言われています。木喰の初期の作品であり、後期の作品である西光寺のものと比べると、同じ人が彫ったとは思えないほど作風に違いがあると遠藤さんは言います。

 「後期になるほど微笑仏の特徴がはっきりしてくるんです。ここの十二神将像は、後期の特徴がよく表れていて、圧倒的な量感とエネルギッシュな爆発力が感じられます。顔面は、眉太く、黒々と湾曲し、両目はどんぐり目で、顔全体が怒っているかと思えば微笑んでいる。木喰仏には老人の風格が宿っていると言われています。思慮深い老人の相と思っていると、にわかにいたずらっぽい童子に変身し、かと思うとその瞬間には女になって語りかけてくる。変幻自在な彫刻であり、仏です。また、木喰上人自身が群像の中に入っていることもよくあります。この12体の中にも、ひげを垂らしている像が1体ありますが、それが木喰上人(自刻像)だと言われています。

全国木喰仏研究会 -研究成果の発表と保存活動への取り組み

 遠藤さんは、全国木喰研究会の会長を務めます。研究会の年報「微笑仏」には、会員の皆さんから熱心な投稿が多く寄せられ、限られた紙面にどれを掲載するのか選択するのが大変なほどなのだそうです。

 「木喰仏の調査や研究成果を発表することは、会員や会員以外の方にも、木喰仏が貴重な財産であることの理解を深め、広げるためには大切なことです。」と遠藤さん。

 他にも、研究会では毎年、木喰仏鑑賞ツアーを実施しています。今年は、6月に南魚沼方面に出掛けます。鑑賞ツアーでは、一般には非公開で簡単には見学できない個人のお宅で保存している木喰仏も研究会としてお願いして見せていただいているそうです。

 また、これから特に力を入れて、取り組んでいかなければならないのが、木喰仏の保存活動だと遠藤さんは言います。

 「毎年、鑑賞ツアーを継続していて、危機感を抱いています。保存状態が悪くかなり傷んできているものがあります。特に、佐渡のものが著しいですね。数年前に見学した際、虫に食われているものがかなり見受けられました。佐渡のものは1回目の来訪時のものですから、年代が古いせいかも知れません。」

 そんな中、研究会の若い会員さんのアイデアでユニークな保存活動が始まりました。「最近の木喰ブームで、各所で見学者が増えてきているものですから、若い会員さんのアイデアで、木喰仏の木製ミニチュアを作りまして、販売を始めたんです。私のところでも売っているんです。木製で手彫りなんです。この売上げの収益の中から、修復費用を捻出しようというんですよ。結構反響はあるんですが、まだ、始めたばかりですので軌道にはのっていません。この貴重な文化財を大切に保存していきたいと思いますので、是非、多くの皆さんからご協力をいただきたいですね。」

 木喰仏を愛する人たちの強い思いが、新しい動きを生んでいるのです。

<マメ知識>

十二神将」とは?
薬師如来(やくしにょらい)を守る12の眷属(けんぞく)。眷属とは仏や菩薩(ぼさつ)に従う者のこと

file-34 木喰仏は地域の宝 ~新潟から全国へ-木喰仏ブームと新潟の木喰仏

新潟から全国へ-木喰仏ブームと新潟の木喰仏

 木喰上人は甲州(現在の山梨県)出身。しかし、新潟では県内各地に多くの木喰仏が分布しています。なぜ新潟県に木喰仏が沢山あるのでしょうか。全国木喰研究会事務局長の高橋さんにうかがいました。

小栗山三十三観音像

「小栗山三十三観音像」 観音堂のほの暗い中に木喰仏が並ぶ様は圧巻。

木喰上人と越後の地

 「ほとんどが中越地区と佐渡で確認されています。中越地区は、長岡市、柏崎市、小千谷市が多いですね。上前島の金毘羅堂の36体は、木喰仏四大群像と言われているものの1つで、他の3つも新潟県にあるのです。長岡市関原の寶生寺(ほうしょうじ)32体、小千谷市の小栗山木喰観音堂(こぐりやまもくじきかんのんどう)35体、柏崎市の安住寺(あんじゅうじ)34体がそうです。

 そして佐渡ですが、木喰上人は、新潟県には2回、来訪しましたが、1回目は佐渡に渡り、4年間も滞在しましたので沢山あるんですね。木喰上人は、北海道から九州まで全国を巡りましたが、同じところに4年間も滞在したのは例外中の例外で、よんどころない事情があったんでしょうが、その理由は分かっていません。

 そして、米寿88歳に近い頃、2回目の来訪がありました。この時、やはり佐渡を目指していたのですが、佐渡小木の港が当時、地震の被害で渡ることが出来ずに仕方なく、中越地方を巡ったとも言われています。また、山梨の故郷が小千谷の小栗山の風景に似ていたという説もありますが、推測でしかありません。千体を彫るという決意でしたので、1回目の来訪の際に、越後人の忍耐力の強さ、人情の深さ、信仰心の篤いことを知り、目的達成をする地は越後と決めて2回目の来訪をされたと考えるのが一般的でしょうか。」

 生涯を通じて千体の仏を彫るという木喰上人の決意は、仏像の背面に書かれた背銘にも記載されています。その決意と越後の地域性が関連しているのであるとすれば、と考えると新潟に多くの木喰仏があることも自然な流れなのかもしれません。

如意輪観音像

「如意輪観音像」 如意輪観音は静かに微笑んでいます。

全国で注目を集める木喰仏

 最初に木喰仏に注目したのは、大正時代の民藝活動家であった柳宗悦です。大正13(1924)年、山梨の小宮山(旧池田村村長)さんというお宅で、柳宗悦が木喰仏を目にとめ、調査し、大きな評価を与えたのが木喰物に注目が集まるきっかけだったそうです。「この木喰仏発見のきっかけも不思議なもので、山梨の四国堂の88体が散逸し、たまたま小宮山さんのお宅にあったんですよ。」と高橋さん。

 現在、各地で木喰仏が再評価されていますが、新潟の木喰仏に注目が集まるようになったのは、平成20(2008)年に東京国立博物館で開催された「対決 巨匠たちの日本美術展」に十王堂の木喰仏が展示されてからだそうです。当時は中越沖地震後。木喰仏を東京に送りだした十王堂では、建物も再建されておらず、仏像は片づけてありました。出展にあたり、柏崎市立博物館に持ち込み、学芸員さんに助けてもらい、丁寧に梱包して送り出したのだそうです。そのかいあってか、以来、新潟の木喰仏への注目度が高まり、見学者が増え、取材の申し込みも多くなったとのこと。

 最近では、木喰仏に関して積極的なPRが行われています。新潟県観光協会では、ホームページ「にいがた観光ナビ」やシーズンマガジン「うまさぎっしり新潟観光通信」の特集記事で紹介したり、専用パンフを制作したりして、力を入れています。

 「新潟の木喰仏の価値が認められ、全国から注目してもらって嬉しい。」と、地元で木喰仏に関わる皆さん。自分たちが大切に守ってきた地域の宝の持つ良さを沢山の人に知ってもらい、認めてもらうことが、地域の人びとの大きな原動力になっているのではないでしょうか。


 

 今回、取材・写真で紹介した木喰仏は、ほんの一部です。県内には、まだ多くの木喰仏が地域で大切に保存されています。新潟県観光協会で作成している「木喰パンフ」を片手に、まちを歩きながら、あなたのお気に入りの木喰仏を探すといった新しい楽しみ方はいかがでしょうか。

《 関連リンク 》

全国木喰研究会
新潟県観光協会
新潟県ホーム>観光・イベント>【柏崎】微笑みの木喰仏に出会う

file-34 木喰仏は地域の宝 県立図書館おすすめ関連書籍

県立図書館おすすめ関連書籍

「もっと詳しく知りたい!」、「じっくり読みたい!」という方、こちらの関連書籍はいかがでしょうか。以下で紹介しました書籍は、新潟県立図書館で読むことができます。貸し出しも可能です。ぜひ、県立図書館へ足をお運び下さい。

▷『円空と木喰』

(NHK美の壷制作班/編 日本放送出版協会 2007 N718-Mo21)
 江戸時代末期、ともに諸国をめぐり、庶民のために数多くの神仏を刻みつづけた円空と木喰。2人の遊行僧の人物像や作品の魅力にふれ、鑑賞のツボを紹介した、木喰仏入門のための1冊です。

▷『木喰 庶民信仰の微笑仏』

(大久保憲次,小島悌次/監修 神戸新聞社/編 東方出版 2008 718-Mo21)
 その独特の微笑が人々を魅了してやまない木喰仏の図版141点をオールカラーで収録。年代順に掲載されているので齢を重ねるごとの作風の変化も見てとれます。巻末の論考、資料も充実しており、その微笑に触れて心癒されたり、木喰についてより深く知るためにおすすめの1冊です。

▷『木喰仏巡礼』

(木喰会/編 有峰書店新社 2000 718-Mo21)
 木喰が日本廻国の旅に出たのは56歳のとき。旅空のもと93歳でその生涯を終えるまで、北海道から九州まで各地をめぐり、千体を超える神仏像を彫りつづけました。
 本書では、木喰廻国の超人的な足跡をたどり、各地に遺された仏像を紹介しています。

▷『木喰仏の魅力 信濃・越後・佐渡 写真探訪』

 (大久保憲次ほか/執筆 郷土出版社 1998 718-O54)
 木喰が越後を訪れたのは85歳のとき。その後およそ2年の間に、各地に何と241体もの像を遺しました。本書では、信濃、越後、佐渡にある木喰仏を紹介しています。土地の人々に愛され、穏やかに微笑む木喰仏。本を読み終えた後、今度は実際に逢いに行ってみたくなります。

▷『木食さんの佐渡』

(萩原光之/著 本間孝/写真 アサヒメディア 2008 N718-Mo21)
 佐渡は、木喰にとって4年の歳月を過ごしたゆかりの深い土地です。島内に遺された仏像、書画などの足跡を佐渡北平沢木喰会会長である著者がめぐります。


ご不明の点がありましたら、こちらへお問い合わせください。
(025)284-6001(代表)
(025)284-6824(貸出延長・調査相談)
新潟県立図書館 http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/

 

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