file-35 北前船が運んだもの ~北前船とは
船絵馬」
天保13(1843)年、日吉丸と住吉丸の船絵馬。胎内市荒川神社に奉納されていたもの。北前船の船主または船頭が自分の船の絵を絵馬師に描かせ、海上安全の祈願や感謝の気持ちを込めて、神社などに奉納したものです。
(写真提供:桃崎浜文化収蔵庫)
「白山丸」
佐渡国小木民俗博物館に展示されている「白山丸」は、現存する板図をもとに、江戸時代に建造された船を原寸大で忠実に再建したもの。7月の白山丸祭りでは、青空に帆を広げた姿を見ることができます。
(写真提供:佐渡国小木民俗博物館)
北前船は、瀬戸内から松前の間の日本海側を航行する、積み荷を各地で売買する商船(買積み船)のことを指します。後にそう呼ばれるようになったもので、当時は「北国船(ほっこくせん)」とか「弁財船(べんざいせん)」などと呼ばれていました。北前船が活躍したのは江戸時代の半ばから明治の20年代ごろまで。流通が発達していなかった当時、ものの値段は地域によってまちまちでした。北前船はものを安いところで買い、高いところで売りさばき、その差益で成り立つ商売です。北前船が盛んに行き来する日本海沿岸の諸都市は、船が運ぶ利益とモノと情報で栄えました。
瀬戸内から松前まで、江戸時代に一気に航路が栄えたわけではありません。日本海での船の行き来は昔からありましたが、ほぼ自給自足に近い生活をしていた頃は、税を除けば国をまたいで運ぶものはわずかで、長距離輸送に耐えて大量にものを運べる船もありませんでした。戦国時代になると、越後から青苧(あおそ)を積んだ船が盛んに越前の敦賀へ航行するようになります。当時は京都が日本の中心地で、北陸、東北からは敦賀から琵琶湖を経由して京都へ向かうルートを使い、それを超えて西国や、瀬戸内経由で大坂などへ行くことはありませんでした。西では西国の船が航行し、敦賀や琵琶湖のほとりの大津が西と東の接点、東西から来る船の折り返し地点でした。
これが崩れるきっかけになったのは豊臣秀吉の時代です。大坂城築城など大規模な土木工事を行ったこの時代、木材や石材の近郊での確保が難しくなります。秋田など全国各地から木材を取り寄せる際、積み出し港から直接大坂で陸揚げされるようになりました。朝鮮半島へ派兵した文禄の役(1593年)では、越後の上杉家も含め全国の大名が、これまで東西の境界となっていた敦賀を越えて佐賀に集結しています。
江戸時代に入ると食糧が安定して生産できるようになり、各地で採れた作物を出荷するため、輸送への需要が高まります。諸藩は徴収した年貢を、できるだけ高い値段で売れる場所へ、しかもできる限り低いコストで運ぼうとしました。船での輸送は難破や漂流の危険が伴い、本州を一回りするわけですから日数もかかりましたが、陸路で運ぶよりは安く済みました。一方、幕府は江戸市中の米不足解消のため奥羽地方の幕領(ばくりょう)から、太平洋側を通って江戸まで米を移送するための航路開設を河村瑞賢(かわむらずいけん)に託します。その成功の後1672年には出羽の幕領から日本海側を通って江戸へ移送するルートを整備。これがいわゆる西回り航路です。このルート整備以降、発展をすることになりました。
年貢米の売買、商品経済の発展に加えて蝦夷地(現在の北海道)の開発が進みます。当時蝦夷地は、昆布やニシンなど特産品に恵まれる一方、主食の米が実らない土地であったため、北前船にとっては格好の拠点となります。江戸時代後半は米の凶作が続き、米の他国出しをストップする藩が続出しますが、その間北前船の繁栄を支えたのは蝦夷地でした。
「航海図」北前船の航路と主な寄港地。この航路を通じて、日本各地がつながっていました。
file-35 北前船が運んだもの ~新潟からの移出入
新潟県の主な港は、北から岩船、新潟、出雲崎、柏崎、今町(現在の上越市)。佐渡は小木。そのうち最も取り扱いが多かったのは新潟湊(にいがたみなと)です。信濃川、阿賀野川の舟運と直結していることにより、魚沼、長岡、越後平野全域と会津藩、米沢藩も新潟湊を利用していたからです。
安政6(1859)年、日米修好通商条約に基づき開港した5港の一つに指定された新潟湊。日本海側としては唯一の港でした。
「旧新潟税関庁舎」
昔の新潟湊の雰囲気を伝える旧新潟税関の建物。水辺は市民に憩いの場にもなっています。(写真提供:新潟観光コンベンション協会)
「湊稲荷神社」
古くから海運業者や漁業者、本町十四番町にあった新潟遊郭で働く女性達の信仰を集めた稲荷神社。女性たちは、愛しい人が船で出て行ってしまうことをおそれ、荒天を祈願したという話もあります。(写真提供:新潟観光コンベンション協会)
積み荷はほとんどが米でした。諸藩は徴収した年貢米の一部を売って現金化するのに、大坂などできるだけ高い値段で売れる土地で米を売りさばこうとします。米は白山、沼垂、関屋などに建てられた各藩の蔵に保管され、販売は藩が直接行うのではなく「蔵宿(くらやど)」と呼ばれる商人に委託されていました。米の輸送で新潟湊が栄えた元禄時代には、諸藩の蔵が新潟町内に69棟あり、港から出された年貢米が34万4000俵(元禄10年)でした。年貢米とは別に、農村から商人が集めた米が、諸藩の年貢米の総数よりも多い36万5000俵(同年)。合計すると1年間で80万俵の米が新潟から船で運ばれました。
当時新潟湊に入ってきた船は40か国から年間3500艘あまり。年間といっても冬場は海が荒れ、どの船も港に入って春を待ちますから、一日平均で150艘近くが入ってきていたことになります。
米の他に新潟から出て行ったものは、農村で作られる雑穀、大豆類。新潟湊は江戸時代を通して主に米を積み出してきましたが、佐渡の小木はなまこなどの海産物(中国への輸出品として長崎へ)のほか、稲作ができないため藁のない北海道向けの藁製品や竹などを出していました。
諸国の産物も新潟に入ってきました。西からは木綿や塩。木綿は当時西日本で盛んに栽培され、江戸時代に一気に広まったものです。そして塩は、今でも「赤穂(あこう)の塩」が有名ですが、これが北前船で全国に安く流通するようになり、各地にあった塩田が大きな打撃を受けたといわれています。越後国内では各地に塩田があり、塩は豊富に採れましたが、新潟湊に入った塩の多くは米沢や会津に運ばれました。また、三条の金物の原料には出雲からの鉄が使われています。東北、北海道からは紅や材木が入ってきました。
越後国内に陸揚げされた量を別とすると、日本海を航行した船が積んでいた荷物は、米、鰊(にしん)、昆布が主なものでした。松前藩の開発が進むと、盛んな鰊漁によって、主に西国に運ばれます。西国では木綿栽培などの肥料として鰊を使っていました。昆布も北海道の産物で、これは中国への輸出品として長崎に集まります。
幕末近くになって新潟で抜け荷(密貿易)事件が摘発されました。抜け荷の調査摘発に当たったのは、初代新潟奉行の川村修就(かわむらながたか)ですが、彼は非常に高価であるはずの珊瑚(さんご)や、朱塗りの原料が新潟では安い値段で流通していたと記録を残しています。密貿易を行っていたのは薩摩(さつま)藩。当時藩領だった琉球(現在の沖縄県)を経由して中国から珊瑚や朱、薬種を買い付け、新潟をはじめとする北陸地方各地で売りさばき、北海道の昆布や海産物を沖縄や中国に輸出していました。沖縄までの昆布の輸送を請け負っていたのは、富山の薬売りでした。富山県は現在昆布の消費量全国一、沖縄も昆布消費が盛んです。抜け荷事件は江戸時代の商品経済と新潟の豊かさ、北海道の昆布が北前船に果たした役割を物語っています。
file-35 北前船が運んだもの ~松前の「越後」
「宿根木の海岸」
かつて北前船が寄港していた海岸。岩場に見える白い杭が船をつないでいた「船つなぎ石」と呼ばれ、御影石でできています。
北前船の輸送で、越後各地から江差(えさし)港への移出は圧倒的に米。そして移入は棒鱈(ぼうだら)、身欠き鰊、塩鮭、数の子など海産加工品です。これらは県内各地で消費され、その多くは郷土料理の食材として愛されています。
北前船を通じて、北海道と越後にはさまざまな接点が生まれました。ニシン漁の網は「越後網」と呼ばれていました。柏崎から刺し網の漁網が持ち込まれ、18世紀になるとこの漁法が普及したためです。当時の蝦夷地の流通の拠点であった松前城下や江差には、「佐渡店(さどだな)」「越後店(えちごだな)」と呼ばれる店も立ちました。「佐渡店」で売られた商品は竹や縄、草履などの藁(わら)製品。北海道では米が採れないため藁がなく、日用品が不足していました。「越後店」は米や酒、金物や漁網。北前船で手広く売買するほかに、数か月間だけ店を開いて本国へ帰る出稼ぎ者もたくさんいたようです。特に佐渡では「松前稼ぎ」という言葉が残っているほど盛んに行われており、幕末には奉行所が島内の労働力低下を危惧して制限を加えるほどでした。
越後の人々が松前と手広く商売を行っていたのは、米や酒を販売できたということもありますが、松前藩一の豪商といわれた関川家が越後出身だったことも影響しています。関川家は初代与左衛門(よざえもん)が関川(妙高市)出身、中興(ちゅうこう)の祖とされる八代平四郎が橋場村(柏崎市)出身。この関川家の取引相手が、日本海側の各地の中では越後が突出し、特に出身地に近い今町(上越市)が群を抜いていました。同家の記録では、1772年から1869年までの97年間で取り扱った廻船(かいせん)数が2065艘。国別では越後の船が最も多い542艘を占めていました。越後の廻船は米を積んで江差へ行き、帰りには鰊を積んで越後ではなく敦賀へ運びました。
幕末における開拓の第一人者として、函館に記念碑の建つ松川弁之助(1802-1876)は井栗村(三条市)の庄屋に生まれました。ロシア船が出没して海防軍備を整えるため幕領となった蝦夷地で、幕府の許しを得て函館に渡り、五稜郭(ごりょうかく)築城に関わった後、樺太(からふと)での漁場開拓に取り組みます。1858年に始めた樺太開発では越後から12隻の船団を組み、多くの越後人を乗せて旅立ちました。越冬に失敗し多くの死者を出し、弁之助は1862年、失意の末故郷に戻りましたが、この間樺太との物産を唯一許された新潟港は函館との間で独占的な地位を得ることになります。また弁之助が本国へ引き揚げた後も、共に樺太へ渡ったうちの数人は現地に残り、漁場開拓を続けました。1872年に創業し、後に北海道で最高級の百貨店といわれた丸井今井の創業者である今井藤七(1802-1876)、北洋の漁場開拓を行ったニチロ創業者の堤清六(1880-1931)もともに三条市の出身。明治から戦前までの間、北海道へ渡った開拓者のうち、新潟県からの移住者は青森、秋田に次いで都道府県別では第3位です。北前船は、北海道と新潟を固く結んでいました。明治の末には、新潟から北海道へ渡った人々が札幌に弥彦(やひこ)神社を建て、今も大切に守られています。
《 北前船関連の資料を所蔵する博物館など 》
・ 新潟県立歴史博物館
・ 佐渡国小木民俗博物館
・ 桃崎浜文化収蔵庫(胎内市生涯学習課)
・ 佐渡小木海運資料館
・ 新潟市歴史博物館 みなとぴあ
・ 旧新潟税関庁舎
file-35 北前船が運んだもの 県立図書館おすすめ関連書籍
県立図書館おすすめ関連書籍
「もっと詳しく知りたい!」、「じっくり読みたい!」という方、こちらの関連書籍はいかがでしょうか。以下で紹介しました書籍は、新潟県立図書館で読むことができます。貸し出しも可能です。ぜひ、県立図書館へ足をお運び下さい。
▷『北前船 日本海こんぶロード』
(読売新聞北陸支社/編 能登印刷出版部 1997 J683-Y81)
本書は、北前船に関する研究資料や関係者の証言を集めたのみならず、実際に現地まで足を運びまとめあげた労作です。「現在」に続く「歴史」を感じる一冊。
▷『西廻り航路の湊町をゆく』
(西山芳夫/著 文献出版 2000 683-N87)
紀行のようなほのぼのとした印象のタイトル。しかし、その内容は予想をはるかに超えた本格的な北前船の研究書。史料の詳細な検討から、北前船の実相に迫ります。
▷『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』
(中公新書 小松重男/著 中央公論社 1989 N289.1-Ka95)
なんといっても副題がカッコイイ。「御庭番・川村修就」!「はじめに」によると、いわゆる「隠密」とは別物の役職なのだそうですが、現代風に言うと「特捜検事」「将軍直属の監察機関」ときけば、やっぱりワクワクしちゃいます。
▷『港の物語をそぞろ歩く』
(竹村秋生/著 近代文藝社 2009 N291-Ta63)
還暦をすぎ時間に余裕のできた著者が、全国各地の港を旅した記録。「土地の歴史とか風土とか、形づくられた文化に接すること」が旅の醍醐味と語る著者の文章は、好奇心でいっぱい。新潟県は、佐渡の小木から宿根木を旅しています。
▷『船絵馬入門』
(船の科学叢書4 石井謙治,安達裕之/著 船の科学館 2004 387-I75)
「板子一枚下は地獄」といわれた時代。船乗りたちは航海の安全を神に祈りました。本書は単なる船絵馬の図録ではありません。船舶画として、さらには造船技術史の資料としての二つの方向から船絵馬に迫った画期的な一冊です。
▷『北前船の事件 はやぶさ新八御用旅』
(平岩弓枝/著 講談社 2006 913.6-H64)
初夏の出雲崎沖、一艘の弁才船が消えた…事故か事件の予兆か?ご存知、「はやぶさ新八御用旅」シリーズの第4作。「神隠し」に「かどわかし」、「廻船問屋」「抜け荷」「御庭番」…やっぱり時代劇はこうでなくっちゃ!
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