file-62 発見!新潟の遺跡~古代史の中の新潟県 ~発掘! 城の山古墳
発掘! 城の山古墳 ~発掘チーム 水澤幸一さんのお話~
最北の前期古墳:城の山古墳、発掘の道すじ
水澤幸一さん
1967年滋賀県生まれ。立正大大学院を経て、91年に旧中条町役場(現胎内市)に入庁。歴史考古学を専門とし、「奥山荘」に関する論文で新潟大の博士号を取得。
城の山古墳の遠景。田んぼのなかに、こんもりとした小山のような姿を見せている。
城の山古墳から発掘された土器片の数々。「多くが粉々にされ土の中に混ぜ込まれていました。なんらかの儀式に使われた可能性も考えられます」(水澤さん)
城の山古墳は、胎内市大塚にある4世紀前半の古墳です。長径41メートル、短径35メートルの楕円形の円墳で、高さは約5メートルあります。地元では昔からこの古墳を「ひと籠(かご)山」と呼んでいたそうです。盗掘など荒らされた様子もほとんどなく、地域の皆さんが大切に守ってくれていたことがうかがえるものでした。規模としては県内で3番目に大きな古墳になりますが、作られた当時は県内最大の大きさだったと思われます。調査は平成9年から始められました。そして本格的な調査は平成17年の2次調査からとなります。このとき、墳丘の上から土器200片以上が出土し、木棺の存在も認められ、古墳であることが確認されました。4次調査では埋葬されている木棺の大きさが明らかになりました。幅1.4メートル~1.6メートル、長さ7メートル。長さはこの時代としては標準的ですが、幅は通常だとせいぜい1メートルです。1本の木をくり抜いて作るわけですが、全国的にもこんな太い幅の木棺はありません。そこで当初は、木棺を入れるための大きめの坑の上面(墓坑)ではないかとも考えられました。そこで掘り進めたところ、鉄錆びや木、漆、銅の姿がちらりと確認できたのです。ここでは一旦埋め戻しましたが、出土品の保存のために1年間準備をして、平成24年の4月から作業を再開しました。すると、鉄錆びの主は太刀、木は棺材、銅は銅鏃(どうぞく)、漆は弓矢のセットにかかわるものでした。玉(たま)類もその東側から出てきました。これらは被葬者の頭部~上半身に置かれるのが普通です。私たちは、まさに埋葬されていたその場所を掘っていたのです。これにはかなりビックリしましたね。本体をさらに掘り進めていくと、斧や鉇(やりがんな)など、当時の工具や「靫」(ゆぎ)という矢を入れる革製の箱も見つかりました。ここには武器(弓矢)、装飾品(玉)、工具がセットとして納められていたのです。これらの副葬品の組み合わせは畿内の前期古墳に典型的に見られるもので、大和の古墳文化が新潟まで届いていたことを裏付ける証拠になります。
出土品が語りかける古代の新潟
盤龍鏡には、中央の左から下にかけて龍の姿が鋳出されている。また、右側にも何らかの紋様がみえるが、絹や紐がかぶっているためはっきりしない。
被葬者の頭骨の跡が確認された。写真中央に歯らしきものがあり、これから取り出して詳しい分析が行われる。
城の山古墳で発見された銅鏡は「盤龍鏡」と呼ばれる物で、後漢か魏の時代に中国で作られたものです。古墳より100~200年以前のモノで、畿内からここ胎内へ持ち込まれたものと考えられます。「革製靫」は表面に漆が塗られており、刺繍によって飾られた表面の菱形紋様も良好に残っています。「革製靫」は出土例が少なく、これまで滋賀県以北では見つかっていませんでした。こうした品々は非常に貴重なもので、畿内においても簡単に作ることができるものでもありません。この地が大和からこれだけの「お宝」を贈られるくらい重視されていたということが想定できます。肝心の被葬者ですが、実は歯らしきものが見つかっています。今後、これを分析すれば、被葬者の性別や年齢などがわかるかもしれません。3月3日には胎内市産業文化会館ホールで第1回シンポジウムを開催しました。12月8日には、更なる謎解きを行う第2回シンポジウムも予定しています。今後とも城の山古墳の動きにご注目ください。
城の山古墳のある胎内市では、北海道の技法で作られた「続縄文」(私は「縄文」を、土器の縄目紋様を略して「縄紋」と呼んでいますが)の土器片も大量に見つかっています。そして今回、畿内と共通する副葬品が見つかりました。合わせて考えれば、この場所が西と北、それぞれの文化のぶつかる場所であったということが想定できます。また、福島県会津大塚山古墳からも今回と似たような副葬品が出ています。阿賀野川水系を通じて古墳文化が会津へもたらされたのでしょう。城の山古墳のそばには、清水潟(後の塩津潟、紫雲寺潟)があり、物流の拠点でした。当時、物流は内陸部の湖沼や河川伝いに行われました。江戸時代には北前船による日本海物流が盛んになりましたが、古墳時代、ここを拠点にすでに物流が展開されていたのです。今回の調査で、当時の日本の姿がまた少し明らかになりました。そういう意味で、城の山古墳は全国的に注目される貴重な古墳なのです。
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古代史の中のにいがた
~北方の要所 県埋蔵文化財調査事業団 春日さんのお話~
城の山古墳~渟足柵 ~そして国域確定1,300年
春日真実さん
1966年新潟県佐渡市生まれ。富山大学人文科学研究科を経て、92年に財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団。県内各地の埋蔵物の発掘調査・整理に携わる。
長岡市「奈良崎遺跡」出土の「捩文鏡」(ねじもんきょう・4世紀頃)。中国製の鏡を見本に、日本で作られた小型の鏡。
(新潟県埋蔵文化財センター企画展示品)
3世紀後半から始まる古墳時代は、各地に古墳が作られました。越後でも古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)に城の山古墳のほか、山谷古墳(新潟市西蒲区)、古津八幡山古墳(新潟市秋葉区)、菖蒲塚古墳(新潟市西蒲区)などの古墳が新潟平野に作られました。また菖蒲塚古墳の近くにある南赤坂遺跡(新潟市西蒲区)からは続縄文土器がまとまって出土しています。古墳時代前期の越後は、古墳分布の北限であり、続縄文土器の南限でもありました。古墳時代中・後期(5~6世紀)になると、高田平野の内陸部や前期古墳が作られなかった魚沼で古墳が作られます。古墳時代前期は海路が重視されたのに対し、古墳時代中・後期は陸路が重視されたために古墳が、内陸へと移っていったと考えています。
古墳時代の北陸地方は「コシ」と呼ばれ(7世紀後半以降は高志・古志・越などと表記)、新潟県域はその北限に近く位置していました。645年の「大化改新」の後「コシ」は「越国」(こしのくに)となり、647年には「渟足柵」(ぬたりのき)が設置され、翌648年にはさらに北に「磐舟柵」(いわふねのき)が設置されたことが日本書紀に記されています。渟足柵・磐舟柵は、中央政府の蝦夷(えみし 古代、東北地方から北海道にかけての地域住民に対する呼称)対策のための拠点の役割を果たしました。
690年頃に越国は越前国・越中国・越後国・佐渡国に分割されます。当時の越後国は阿賀野川以北から庄内平野の一部までを範囲としていました。702年に越中国から四郡(頸城・魚沼・古志・蒲原)を分割し越後国に加え、712年に出羽郡が分立して「出羽国」となり現在の新潟県域ができあがりました(佐渡は743年に越後国に併合されたが752年に分立、以後江戸時代の終わりまで佐渡国として越後国と並立)。
それぞれの国には「国衙」(こくが)という役所が置かれ、都から派遣された「国司」(こくし)が国を統治しました。越後では当初渟足柵が国衙の役割を果たしていましたが、出羽が分立した712年頃には頸城郡に移動したとする説が有力です。
謎がいっぱい! 新潟のいにしえのロマン
上越市から出土した土師器(はじき)など。飛鳥時代には高田平野を中心に多くの集落が成立していた。(新潟県埋蔵文化財センター企画展示品)
上越市「延命寺遺跡」から出土した舟形・櫂(かい)形。奈良時代には国や郡の役所を中心に、都にならった祭祀が行われ、これら多彩な木製祭祀具が用いられた。(新潟県埋蔵文化財センター企画展示品)
渟足柵は記録から知られる日本最古の城柵ですが、その位置はまだ解明されていません。新潟市山の下・河渡・王瀬(現松島)周辺が有力な候補地の一つです。王瀬には「王瀬の長者伝説」があります。大規模な遺跡がある場所には長者伝説が残されていることが時々ありますが、現在のところ周辺から土器や、建物跡などの遺構は発見されていません。地盤沈下や飛砂による堆積、河川による浸食なども渟足柵を発見しづらくしている要因です。「磐舟柵」は、村上市にかつて存在した旧岩船潟の北側の浦田山丘陵が有力な候補地ですがこちらも証拠は見つかっていません。
磐舟柵・渟足柵以外の、古代の役所の位置も、明らかになっていないものが大半です。平安時代の記録から、当時の越後の国衙が頸城郡にあったことがわかります。古代の国分寺は上越市の本長者原にある本長者原廃寺と考えられ、国衙はその北西にある今池地区周辺に存在したとする説が有力ですが、決定的な証拠は見つかっていません。また、地方と都とを結ぶ道路には約16km毎に「駅(家)」(うまや)が設けられ、越後には10か所の駅がありましたが、所在地が確定していないものが大半です。
いかがでしたか。このように、まだまだ解明されていない古代史が新潟にはたくさんあります。しかし、城の山古墳のような新たな発見が今後も出てくるかも知れません。ロマンに満ちた古代の新潟。続いては、県内でもそんな古代の歴史に触れられるオススメスポットとイベントをご紹介します。
行ってみよう! いにしえの新潟の息吹に触れられる場所
本編登場の先生、オススメのスポット
▷新潟市文化財センター(まいぶんポート)
常時約1,400点を公開する本格的な展示スペースをもつ。
旧石器時代から江戸時代までの埋蔵文化財を時代ごとに分類展示。
水澤さん
「新潟市内の考古資料が一堂に見られる場所です」
春日さん
「木器の展示が見ごたえあります」
◆住所/新潟市西区木場2748番1
◆電話番号/025-378-0480
◆開館時間/9時~17時(体験メニューの受付は16時まで)
◆休館日/月曜日(祝日または振替休日の場合はその翌日)、年末年始(12月28日から1月3日)
◆入館料/無料
▷新潟市弥生の丘展示館
古津八幡山遺跡から出土した旧石器時代から平安時代の土器や石器など500点以上を展示。弥生時代のムラの様子も模型で再現。
水澤さん
「新潟で一番大きな古墳(古津八幡山遺跡)のふもとにあります」
春日さん
「展示室の八幡山遺跡の模型を見た後で現地に行くと、楽しさが増しますよ」
◆住所/新潟市秋葉区蒲ケ沢264番地(新津美術館脇)
◆電話番号/0250-21- 4133
◆開館時間/10時~17時
◆休館日/月曜日(祝日または振替休日の場合はその翌日)、年末年始(12月28日から1月3日)
◆入館料/無料
●関連イベントの紹介
▷ 「第2回城の山古墳シンポジウム」
日本海沿岸最北の前期古墳である城の山古墳の第2回目の謎解きがありました。
期日/平成25年12月8日(日)※終了しました
会場/胎内市産業文化会館
住所/胎内市新和町2-5
電話/0254-43-6400
参考文献・HP
▷ 新潟日報
▷ 毎日新聞
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県立図書館おすすめ関連書籍
「もっと詳しく知りたい!」、「じっくり読みたい!」という方、こちらの関連書籍はいかがでしょうか。以下で紹介しました書籍は、新潟県立図書館で読むことができます。貸し出しも可能です。ぜひ、県立図書館へ足をお運び下さい。
▷『考古学の教室:ゼロからわかるQ&A65』
(菊池徹夫著/平凡社/2007年)請求記号: 202.5/Ki24
2012年、県内では胎内市の城の山古墳で新たな発見がありました。
この本は、考古学者の著者が学生や市民講座の受講者から寄せられた「なぜ、そこに遺跡があるって分かるの?」「誰でも発掘はできるの?」「考古学者のふだんの生活は?」といった素朴な疑問に、率直な言葉で回答した内容となっています。
「そもそも遺跡とは何か?」「考古学とは何を研究するのか?」といった入門的なことを知りたい方におすすめです。
▷『はじめて学ぶ考古学』
(佐々木憲一ほか著/有斐閣/2011年)請求記号: 202.5/Sa75
「考古学」と聞くと、テレビニュースなどで見かける「発掘作業」を連想する方は多いと思います。本書の第Ⅰ部では、考古学の研究者が発掘からどのようなステップを経て結論を出すのか、第Ⅱ部では「考古学からみた日本列島の人類史」について書かれています。巻末にはさらに学びたい方に向けた「読書案内」も掲載されていますので、これから考古学を学びたい方はご覧になってみてはいかがでしょうか。
▷『道具と人類史』
(戸沢充則著/新泉社/2012年)請求記号: 210.2/To98
著者は、明治大学考古学博物館長、同大学長などを歴任する一方、「市民の考古学」をモットーに各地で市民参加の発掘調査などを実践してきました。2000年に発覚した「旧石器遺跡のねつ造」事件問題では、日本考古学協会が設置した「前・中期旧石器問題調査研究特別員会」の委員長としてこの事件の検証調査にあたりました。
本書の第Ⅰ部は、著者が民間企業の機関誌に連載していたエッセイをまとめたものです。文章とともに掲載された石器をながめていると、これらが使われていた時代に思いをはせることが楽しくなる一冊です。
▷『知っておきたい新潟県の歴史』
(新潟県の歴史編集委員会編/新潟日報事業社/2010年)請求記号: N200/N725N
本書は新潟県の原始・古代から近現代までを101の項目で取り上げ、簡潔な文章で解説しています。原始・古代については「概観」と19の項目で構成され、いずれの項目も見開き2ページでまとめてあり、関連写真やイラストも掲載されています。県内にはたくさんの遺跡がありますが、本書では馬高遺跡の火焔土器や笹山遺跡、翡翠製品の生産拠点となった糸魚川の長者ヶ原遺跡などが紹介されています。
ご不明の点がありましたら、こちらへお問い合わせください。
(025)284-6001(代表)
(025)284-6824(貸出延長・調査相談)
新潟県立図書館 http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/