file-145 信濃川と阿賀野川を結ぶ、川の街道・通船川(前編)

  

江戸時代に生まれた「働く川」

 水源を阿賀野川に持ち、新潟市東区を流れる8.5kmの通船川。その名の通り船が行き交い、江戸時代には新潟湊の繫栄を、近代以降は製紙・製材など地域の工業を支えました。さらに、昭和には流域を水害から守る防災の役割も持つようになった「働く川」だったのです。

「働く川」の治水と利水

通船川はもともと阿賀野川だった

越後平野全景図

正保越後国絵図(一部)。季節風によって打ち寄せられた砂が河水が海に出るのを阻んだ結果、信濃川と阿賀野川は河口で合流。日本海に注ぎ込む/新潟県立歴史博物館提供、新発田市立歴史図書館蔵

阿賀野川 引き

松ケ崎悪水吐目論見候節村々相記し候絵図。享保14年(1729)、阿賀野川が大きく蛇行する松ヶ崎に、余分な水を日本海に流すための水路を建設/新潟市提供

山岸さん

「通船川は成り立ちも歴史も特殊な川です。時代とともに役割が変わってきました」/山岸さん

通船川の絵図

古阿賀野川出洲図写。阿賀野川と海老ケ瀬間の運河がすぐに土砂で埋まったため、かつての阿賀野川本流を整備し通船川とした/新潟市提供

 江戸時代半ばまで、阿賀野川は信濃川と合流して、日本海に流れ込んでいました。二つの大河による豊富な水量によって、信濃川河口の新潟湊(現・新潟西港)は、水深が深く大型船も係留できる良港として、大いににぎわっていたのです。一方、阿賀野川流域で新田開発に取り組んでいた新発田藩は、洪水を防ぎ、水はけをよくするため、享保15年(1730)に洪水時の余分な水を日本海へ直接流すための水路を掘ろうとしました。
 「その水路ができると、水量が減って湊の水位が下がり、北前船が入れなくなる」と、新潟の商人は反対したそうです。通船川の歴史に詳しい山岸俊男さんに通船川の誕生と歴史について伺いました。
 「当時の土木工事では、流水量を制御する堰(せき)を造るにも材料は木と玉石だけですし、技術も現在とは違います。堅牢な堰とはいえませんでした」。翌年の春、雪解け水が押し寄せて堰は壊れ、日本海へ短距離で真っすぐに抜ける水路が阿賀野川の本流になってしまいました。商人の懸念通り新潟湊の水位は下がり、北前船は沖待ちをするようになりました。また、阿賀野川からの舟も新潟湊に入れなくなり、新発田藩は水路作りを画策。最終的には、安永2年(1773)に、かつての阿賀野川本流を舟が通れるように整備しました。これが通船川の始まりです。

 

蒸気船

小竹コレクション「葛塚南川岸通之景」。通船川を通り、葛塚(現・新潟市北区)へ向かう蒸気船。明治時代には「川の街道」と呼ばれ、多くの船が行き交った/柏崎市立図書館蔵

 そういう経緯で生まれた通船川ですから、江戸時代から舟運は盛んで、明治・大正には河川蒸気船が行き来して通行量はさらに増大。「川の街道」とも呼ばれて、多くの物資を運びました。舟運が中心の時代は沿岸に造船会社が数社ありましたが、大正3年(1914)には製紙工場が進出。昭和に入り、製材工場や各種工場が立ち並んで産業の集積地となると、原材料や製品の輸送路としての役割を担いました。昭和30年代には通船川沿いに2つの県営貯木場が造られ、南洋材の集積港であった新潟西港から多くの木材が筏に組まれ運ばれました。

 

川のエレベーター機能が付いた

山の下閘門 引き

下方から流れる通船川に左から栗ノ木川が合流する地点に設けられた山の下閘門排水機場(中央の施設)/新潟県新潟地域振興局地域整備部提供

閘門 寄り

二門のゲートを開閉して水位を調整し、2mの水位差がある信濃川・通船川間のスムーズな通行を可能にした。

ポンプ

山の下排水機場には排水ポンプ4台が設置され、全台稼働では25mプールを約8秒で空にできる能力を持つ/新潟県新潟地域振興局地域整備部提供

 そして、通船川の役割が大きく変わるときが訪れます。昭和39年(1964)6月16日、マグニチュード7.5の新潟地震が発生し、通船川でも堤防が決壊。流域のゼロメートル地帯に河川の水が流れ込み、多くの家々が浸水、水没するなどの被害を引き起こしました。
 復旧工事では、堤防を鋼矢板護岸工に改修して、流域の抜本的な水害対策として河川の水位を人工的に低くする「低水路方式」を採用。阿賀野川側の津島屋と信濃川側の山の下に、開閉できる水門、閘門(こうもん)と水量をコントロールする排水機場を建設して、通船川の水位を海面より2m下げたのです。こうすることで、大雨の際でも、その水は通船川に自然排水されるので、地域を浸水から守れるようになりました。
 とはいえ、川沿いには製材所や貯木場があり、新潟西港から木材を運搬する必要があります。西港につながる信濃川と通船川には2mの水位差があるので、そのままでは船は通行できません。そこで、信濃川側の山の下閘門に、水位を上下させる「川のエレベーター」機能を持たせました。二門のゲートを開け閉めすることで水位をコントロールし、船がスムーズに通れるようにしたのです。原理はパナマ運河と同じです。閘門形式は、セクターゲートという珍しいもので、円形門扉が左右に開く方式で全国に3カ所のみの貴重な施設です。
 こうして、輸送路としての役割と防災拠点としての役割を併せ持ち、通船川はますます地域にとって重要な「働く川」になっていきました。

 

芭蕉もイギリス人作家も通った

長岡3代目

つうくりまちづくりの会には、住民や企業、学識経験者、行政などが参加し、川を中心としたまちづくりについて話し合う。

 急速に進んだ都市化や工業化によって水質が悪化していた通船川ですが、昭和42年(1967)の公害対策基本法の制定、平成9年(1997)の河川法改正を受け、美しい川を取り戻そうという活動が活発化していきます。その一つが、通船川と栗ノ木川下流の川づくりを話し合う「つうくり市民会議」。山岸さんは立ち上げ時に関わり、当時新潟大学工学部教授の大熊孝先生(現名誉教授)を議長に招き、「安全で美しい通船川」を目標に活動。現在はその活動を引き継いだ「通船川・栗ノ木川下流沿川まちづくりの会(通称つうくりまちづくりの会)の副会長を務めています。
 「全く手の入らないままの自然、見た目の快適さを求めるだけでは、洪水時に大きな災害を受ける恐れがあります。だから、護岸設備の改修や整備というハード面も大切です。地域の人たちや企業と行政が連携することで、安全や水質、景観も向上し、人と川との共生が進んできています」

 

 もう一つ、山岸さんが大切にしたいと考えているのは、通船川の豊かな歴史です。「この川は、輸送や防災の役割だけでなく、他の顔も持っているんですよ。江戸時代には松尾芭蕉が、明治時代にはイギリス人作家のイザベラ・バードがこの川を舟で旅しました。モノを運ぶだけではなく、文化や人の交流にも関わっているんです。こうした歴史や多様性も次代に伝えていきたいと思います」

 

夜景

通船川鴎橋付近の工場夜景。水運と豊富な水源により、製紙・製材・合板製造などの工場が進出。現在では工場夜景が人気を集めている。

 

 後編では、通船川の風景として長く親しまれた木材筏(いかだ)を紐解きます。

 

掲載日:2021/6/14

 


■ 取材協力
山岸俊男さん/通船川・栗ノ木川下流沿川まちづくりの会 副会長
新潟県新潟地域振興局地域整備部

 

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後編 → file-145 信濃川と阿賀野川を結ぶ、川の街道・通船川(後編)
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