file-146 弱き者のために。日本近代童話の父・小川未明(前編)
新しい童話の世界を開拓
新潟県上越市の船見公園にある、絵ろうそくを手にした人魚像は、小川未明の代表作『赤い蝋燭(ろうそく)と人魚』にちなんで作られたものです。未明の童話には、弱き者、小さな者に寄り添い、移り変わる時代の中で「正しさ」を求め続けた独自の世界観が満ちています。
作品の原風景は故郷・高田
未明が生まれ育った高田(現・上越市幸町)の街並み。当時は、旧士族の屋敷と商家が接する街だった/『高陽餘影』高田市史編纂委員会 1914年 上越市立高田図書館所蔵
「私の好きな童話作家、宮沢賢治と小川未明には、社会を良くしていこうという姿勢が共通しています」/小埜先生
小川未明は明治15年(1882)、高田(現・上越市)の旧藩士の家に生まれました。高田は、江戸時代初期に徳川家康の六男・松平忠輝が居城を築いた歴史ある城下町です。積雪377㎝という記録を持つ日本有数の豪雪地であり、雁木(がんぎ)と呼ばれる雪よけのアーケードが今も市街に残り、人々の暮らしを守っています。また、市内には上杉謙信の居城として知られる春日山城跡が残る春日山があり、その山頂からは日本海が一望できます。
「雪や冷たい風、海鳴りなどの高田の自然と、義を重んじる武士階級の価値観。そうした気候や風土、歴史や文化が未明の作品に繰り返し登場します」と語るのは上越教育大学の小埜裕二先生。未明に関する多くの著作を持つ、未明研究の第一人者です。「私は関西の出身なので、上越で暮らすようになって初めて、未明の作品の魅力でもある『暗さ』が雪国独特の自然や文化によって生まれてきたものだと実感しました。人間の意志を超えた大きな力を持つ自然、抗えない運命、人の命のはかなさが、未明の創作の源泉になっているのだと思います」
未明の著作1200編から子どもに向けた詩的な童話を厳選した「小川未明秀作童話50」。うち16編は全集未収/編・解説小埜先生
例えば、大正3年(1914)に発表された『眠い町』にも高田の変化が投影されているといわれています。この作品は、豊かだった町が資本主義の時代に変化し、廃れていくという内容です。明治末から大正にかけて陸軍の駐屯地になり、産業化が進んだ高田の行く末を未明はどう見ていたのか—そこには、近代化による環境破壊、物質的豊かさや偏重への警鐘が込められていると小埜先生は言います。「日本のアンデルセンとも呼ばれる未明ですが、高田での原体験が未明の作品を支えています。高田は未明にとって近代の過ちを正すときに戻る場所だったのでしょう」
亡くなった子へのオマージュ
糸魚川出身の相馬御風は、旧制中学・東京専門学校を通しての学友であり生涯の親友。取り交わした手紙も多く残っている。
明治43年(1910)に発行された、未明にとって最初の童話集『赤い船』は、ロマンチシズムが漂う作風となっている。
未明の出世作『赤い蝋燭と人魚』は、大正10年(1921)に東京朝日新聞に連載され、その後、童話集として出版された。
未明は旧制高田中学校(現・新潟県立高田高等学校)を経て東京専門学校(現・早稲田大学)に進学し、坪内逍遥、ラフカディオ・ハーンから教えを受けて、在学中に小説家としてデビュー。明治43年(1910)には最初の童話集『赤い船』を刊行しますが、当時の文学の潮流は自然主義であり、ロマンチックな作風の未明は文壇に認められず、生活は困窮していきました。中学以来の友人、相馬御風は未明の才能を信じ、「未明は真実の姿を書こうとしている作家だ」と擁護しましたが、状況は厳しく、子どもたちが栄養不良になるほど追い詰められていきました。
逆境の中、小説と童話を書き続けていた未明に大きな不幸が襲いかかりました。長男と長女を相次いで病気で亡くしたのです。愛児の死を経て、未明は作品の主題をさらに深めていきます。小埜先生によれば、未明は「子どもの目で、子どもの心で世界を見ることが、亡くなった子どもの心に寄り添うことに繋がると考えたのです」。それは、大人とは異なり、死でさえ美しいものに見える、ロマンチストの目です。その思いは、長女を失って間もなく書いた『金の輪』にも色濃く投影されています。その後、まるで子どもに手向けるかのように未明は童話を書き続け、『赤い蝋燭と人魚』『月夜と眼鏡』『野薔薇(のばら)』などの代表作を次々と発表しました。
童話作家宣言後に書かれた作品『雪来る前の高原の話』。絵は、日本童画の父と呼ばれた川上四郎(長岡市出身)が担当。
未明は生涯に童話を1200編、小説を650編、詩や随筆などを1400編残した、類を見ない多作な作家ですが、特に大正8年(1919)から15年(1926)にかけては童話と小説を量産しています。
そして、大正15年(1926)、小説家としての活動を止め、「この先はすべてを童話に捧げる」と童話作家宣言をしたのです。新しい童話とは何かを模索し、子どもだけでなく、大人・女性向けに書き分け、都会・田舎・生活など舞台や内容も幅広い作品を描き、童話の可能性を開拓していきました。
使命は弱き者に希望を与えること
「未明の作品では、冷たい風や暖かな太陽、広大な海など、自然の描写も胸に迫ります」/石田馨子さん
児童文学作家・杉みき子さんが『野薔薇』をテーマに作詞した合唱曲を小学生が披露/小川未明フェスティバル2019
小埜先生は学外でも月に1度、小川未明研究会を開いています。石田馨子(かおるこ)さんは短大で未明を研究したことがきっかけとなり、3年前から参加しています。「研究といっても難しいことではなく、毎回作品を決めて先生のお話を伺い、みんなで話し合うという未明ファンが集まる会です。未明の育ての親で『赤い蝋燭と人魚』が書かれるきっかけを作ったお家のご子孫も参加されているんですよ」とほほ笑む。「この会に参加して、随筆を読んでから童話を読むと『社会的な弱者のために何かしたい』という未明の強い意志が作品の根底にあることに気づきました」
石田さんのお勧め作品は、明るい印象の『月夜と眼鏡』、終盤が静かで切ない『野薔薇』、激しさを秘めた『赤い蝋燭と人魚』。「戦後に書かれた『兄の声』は、童話なのですが、内容は私には衝撃的で、忘れられない作品。未明は本当に幅広い作品を書いているんです」
また小川未明研究会では活動の一環として、上越文化会館などが主催する「小川未明フェスティバル」をサポートしています。「毎年1作品をテーマに、朗読、読書感想文コンクール、合唱、創作フラメンコ、グッズ販売などを行う、文字だけでなく未明の魅力を伝えていくイベントです」
童話作家として創作に専念していたころの一家。未明夫婦と両親、次女、次男、三男、四男/昭和4年(1929)10月撮影
小説から童話へ。ロマンチックな作風から、弱き者たちの味方であろうとする社会主義思想へ。ジャンルを軽々と超え、多様な顔を見せる小川未明。「いつの時代にも、未明は闘う人でした。文学を通して人のために役に立ちたいと思い、枠にとらわれることなく行動してきたのです」と、小埜先生は言います。
昭和32年(1957)に発表された『ふく助人形の話』は、短編童話としては最晩年に書かれたもの。この作品でも、未明は欲望のままに金儲けに走る人を否定しています。それは、創作の道を歩き始めた時から変わらない姿勢です。「幼いころに祖母や母に教えられたのかもしれませんね」と、小埜先生。
弱い者、小さな者、正直な者に希望を与えることを使命として1200編を書いた小川未明は、昭和36年(1961)、79年の生涯を閉じました。その生涯や作品については、新潟市のにいがた文化の記憶館や上越市の小川未明文学館で紹介されています。
後編では、令和の時代に体感できる、未明の魅力発信の取り組みをたどります。
掲載日:2021/7/12
■ 取材協力
小埜裕二さん/上越教育大学 教授、小川未明文学館 専門指導員
石田馨子さん/小川未明研究会 会員
小川未明文学館
■ 参考資料
小埜裕二著『小川未明に親しむ』蒼丘書林.
小埜裕二編・解説『新選 小川未明 秀作童話50 ヒトリボッチノ少年』蒼丘書林.
小埜裕二編・解説『新選 小川未明 秀作童話40 灯のついた町』蒼丘書林.
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