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file-6 山古志・中山間地の景観再生~新潟県中越地震から3年、再び故郷で暮らすために~


山古志の景観は「暮らし」そのもの

 かつて「越(こし)の国」と呼ばれた新潟で、それと同じ音を持った古志(こし)郡山古志村。郡内の他の村が、隣接する小千谷市や長岡市などと合併していく中で、長らく一郡一村を保っていた。標高150?450m程度の山々を縫うように、谷筋ごとに小さな村々が点在し、これらの総称であった山古志が、「山古志村」となったのは昭和31年。当時の人口は9,019人だった。「虫亀」「池谷」「種苧原」などと呼ばれる集落名は、全てかつての村の名である。

 土地のほとんどが山か急斜面で、田畑、宅地と池の割合は村の面積の17%しかなく、ほとんどが山林と雑種地。米を作るかたわら縮、炭、山菜などを産業としてきた。山林の多くはムラの共有財産である入会地で、そこで木を伐採して炭を焼き、各家で使う薪を集め、下草は田の肥料として使った。このため山古志では樹木の生い茂った山は少ない。土砂崩れが頻繁に発生する地質で、崩れてなだらかになった土地に棚田を拡げていった。今のように山の上まで棚田があるのは、人口が増えた明治以降といわれている。

 この地域で最も古い生活の痕跡は、縄文時代中期から後期。仮設住宅のある陽光台付近で出土した、全国に知られる火焔式土器が作られたのと同じ時代だ。村の記述として残された最も古いものは江戸時代以降で、それ以前のこの地域がどんなであったかはほとんど分かっていない。

山古志の棚田

水鏡のような棚田が山古志の棚田の、他にはない美しさ。水を確保するための池であり、錦鯉を飼う池でもある。

 山古志の棚田の風景を特長づけるのは錦鯉の池である。春から秋まで水をたたえ、小さな鏡の連なりのように陽光を反射する。これが多くの人々を魅了してきた。この錦鯉は、江戸時代後期の大飢饉の際、食用に村で飼われていた鯉を一カ所に集めたところ、その中から突然変異で色のついた鯉が生まれたのが始まりだとされる。天明の飢饉では、山古志全体で341人が餓死。生きるための、村を挙げた懸命の工夫が錦鯉を生み出す契機になった。

 そして牛の角突き。江戸時代後期に成立した南総里見八犬伝にこの記述があるが、いつから始まったものかは分かっていない。急な山道が多い山古志では、荷運びや農耕には馬ではなく牛が活躍する。こうした牛はおとなしくするのに去勢するのが一般的だが、山古志ではなぜか去勢せずに飼っていた。山古志村史では角突きの発祥を次のように推測している。去勢しない雄同士が争いを起してけがをしてしまうことがあるため、一堂に集めて角突きをさせ、監視のもとで牛同士に序列をつけさせたのではないかと。牛は闘牛のために飼っているのではなく、ともに働く家族の一員でもあった。このため山古志の角突きは、けがをしたりする前に勝負を止めて勝敗をつけ、その勝負を賭け事の対象にしないのが今も伝統として残っている。



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