file-100 特集100回記念特別企画(後編)
故きを温ねて新潟を知る
特集掲載100回記念特別企画として、前編ではこれまで登場回数の多かった新潟の「食」文化を取り上げました。今回は後編として、「上杉謙信、直江兼続と城下町」をテーマに振り返りながら、新潟の文化をひも解き、新潟のステキを再発見してみましょう。
義に生きた希代の戦国武将
上杉謙信の晩年を描いたとされる「上杉謙信像」。
(米沢市上杉博物館蔵)
謙信が幼・少年期に学問を学び、軍団を率いて出陣をくり返していた頃に禅の教えを学んで悟りを開いたと言い伝えられる「林泉寺」。義の心は、ここで培われたとされる。謙信が寄進した山門に、自筆「第一義」の大額が掲げられており、見ることができる。
新潟県を代表する武将といえば、越後の龍、越後の虎、軍神などの異名を持つ上杉謙信(うえすぎけんしん)。これまでも「file-5 上杉謙信と戦国越後」、「file-88 古文書からみる上杉謙信」で特集し、今なお多くの人々を惹きつけてやまない人物像に迫ってきました。謙信は1530年に生まれ、家督を相続してから亡くなるまでの30年のほとんどを戦に費やしました。戦場では最強と怖れられ、負けらしい負けは一度もありませんでした。神仏に「生涯不犯」の誓いを立てて妻を娶らなかったことも有名で、当時の戦国武将の中では異例の存在です。また、武田信玄(たけだしんげん)が亡くなる前に「頼るならば謙信を頼れ」と遺言したとか、謙信は実は女性だったとか…いまでは確かめようもない、非常に謎も多い人物です。 謙信が景勝に送った「上杉旱虎(輝虎)書状」。景勝に対する謙信の親心が感じられる貴重な書だ。 米沢市原方衆の町並み。 上杉謙信の死後、家督争いの末上杉家を継いだのが養子の景勝(かげかつ)です。事実上その執政の立場となり、上杉家を舵取りしていたのが直江兼続(なおえかねつぐ)です。2009年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公として俳優の妻夫木聡さんが演じ、一躍有名になりました。新潟文化物語では「file-16 直江兼続の謎その1」、「file-17 直江兼続の謎その2」で主君上杉景勝と直江兼続について、いまもって分からない謎を取り上げています。 松平光長が建設した高田城の三階櫓を再現したもの。天守閣にかわる城の象徴。 昭和初年の観桜会ポスター。色鮮やかなポスターには桜やぼんぼり、堀に浮かぶ屋形船などが見られ、楽しげな雰囲気が伝わってきます。 前出の上杉謙信が本拠地としたのが春日山のある上越市高田。平安時代に国分寺が設置されて以来、越後の府中(政治の中心)として栄え、その頃は人口規模において京都に次ぐ大都市であったといわれています。上杉家が会津へ出た後は、徳川家康の六男、松平忠輝が上越市に入り、1614年に高田城を築城しました。「file-74 にいがたの城下町(前編)」では、高田地域に高田城と城下町が築かれてから400年を迎えた高田城の歴史をひも解いています。 秋から冬にかけてまちのいたるところで、家々の軒先に頭を下にして吊された塩引鮭の姿が見られる。腹の部分を2段に分けて切るのは「切腹」を嫌った旧村上藩の名残りと言われる。 村上城址より村上市街を望む。 新潟県内には、他にも村上市、五泉市(旧村松町)、長岡市、新発田市などの城下町があります。 新発田城址公園は新発田市を代表する桜の名所。お堀端に並ぶように咲く桜とお城のコントラストは情緒満点です。 新発田市菓「あやめ城三階櫓」 「あやめ城」として親しまれている新発田城のある新発田市。「file-78新潟の城下町(後編)」では新発田城復元に向けた市民の取組や今なお残る豊かな茶の湯文化について特集しています。江戸時代の新発田藩は比較的豊かで、幕府茶道方であり庭方でもあった縣宗知(あがたそうち)を新発田に度々招き、元禄年間(1688-1704)に清水谷(清水園)・五十公野(いじみの)・法華寺などの庭園を完成させています。現在でも新発田市は茶の湯が盛んで、それとともに和菓子も発展。数々の銘菓が誕生しています。 このように城下町には、それぞれの歴史と独自に発展した文化があります。各地を散策し、町の歴史と文化に触れてみてはいかがでしょう。 これまで「新潟文化物語」の特集では、今回取り上げたテーマ以外にも県内に伝わる伝統芸能や祭り、文学、アート、映画のロケ地や方言、音楽など新潟の様々な文化情報を発信してきました。そして、これからも新潟の文化の魅力を様々な切り口やテーマでお伝えします。今後の特集は佐渡金銀山や県内各地の銘菓、県内唯一の国宝「深鉢形土器」などの予定です。どうぞお楽しみに!
一体どんな人物だったのか、詳しくは「file-5 上杉謙信と戦国越後」、「直江兼続の残したもの
(新潟県立歴史博物館蔵)
120万石から30万石への減封で家臣を養いきれなくなったため、兼続は希望者を募り開墾地へ武士を入植させた。彼らは原方衆と呼ばれ、屋敷の後ろに広い農地を持った町並みに暮らした。生け垣は薬効のある「うこぎ」を植えることを奨励され、今もうこぎが青々としている。
会津120万石から1/4の石高へと貧窮した上杉家の台所を、兼続は支え、江戸藩邸と行き来しながら城下町を築き、産業振興に腕を振るいます。上杉家は米沢に根を下ろし、一度の改易(かいえき)もなく明治を迎えます。米沢で市民に最も尊敬されているのは「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり」の言葉で有名な上杉鷹山(うえすぎようざん)ですが、鷹山は兼続を手本としたのです。兼続が米沢に残した最大の遺産とは何だったのか、詳しくは「file-17 直江兼続の謎 その2」をのぞいてみてください。 地域色豊かな越後の城下町
(上越市立高田図書館蔵)
現在では桜の名所として全国から観光客が訪れる高田城跡の高田公園。「file-74 にいがたの城下町(前編)」では桜の名所となった経緯にも触れています。
また、上越地方は古くから海陸交通の要所に位置していることから、各地で市が開かれてきました。上越地方の市の文化は古く、県内で文献に残されている市としては最も古い市も、旧新井で開かれたと言われています。「file-37 定期市と雁木通りのまち巡り」では、古くから栄えた上越地域の「朝市文化」や豪雪地帯ならではの「雁木(がんぎ)」を中心とした街づくりの取組を取り上げています。
右側に三面川の流れが見える。
村上と言えば鮭が有名ですが、その背景には江戸時代に藩の財政を安定させるために生み出された「種川の制(たねがわのせい)」という鮭の自然保護増殖の技術があります。なんと、世界初の技術でした。「file-7 鮭の子、はらこ」では、村上の鮭文化をたっぷり紹介しています。その他、藩がお茶の栽培も推奨し、明治時代半ばには紅茶の製造も行われ、主にアメリカなどに輸出していました。現在でも栽培と製造販売までを行っている産地としては、村上市が茶どころの日本の北限となっています。「file-33 北限の茶どころと新潟のお茶」ではそんな村上茶の歴史と併せて、県内のお茶の文化について特集しています。
ごまあんを包んだしっとりとした生地には、三階櫓の姿が浮かび上がっています。