file-126 春を呼ぶ、雪国にいがたの奇祭(前編)
身近にあるもので除災招福、五穀豊穣を願う
ともにルーツは江戸時代と伝わる二つの奇祭。町が二手に分かれ、綱引きのように竹を引き合う、糸魚川市青海地域の「竹のからかい」。稲わらで作る巨大わら人形を祀る、阿賀町大牧区の「ショウキ祭」。材料の確保に始まる、二つの祭りの舞台裏に迫ります。
隈取した若者が竹を引く
「新潟には、一般には知られていない奇祭がまだまだあります」/大楽さん
「奇祭」とは何でしょう。民俗学に詳しい、新潟県立歴史博物館の大楽(だいらく)和正さんに伺いました。「奇祭は学術的な用語ではなく、定義などもありません。辞書的には他ではあまり見られない変わったことをする祭りという意味になりますが、隈取姿で竹を引き合う『青海の竹のからかい』はまさに奇祭です」
「竹のからかい」は、小正月の1月15日に糸魚川市青海地域で行われています。根本から掘り起こした青竹を、若者たちが東西に分かれて引っ張り合い、新しい年の豊作や豊漁を占うという内容です。材料の竹は、1月10日頃に竹林で切り出すのですが、「その青海の竹林がなくなってしまった」と語るのは、青海竹のからかい保存会の小野成(あきら)さんです。かつては真竹を使っていましたが、昭和60年代に、120年に一度とも言われる竹の花が咲いて竹林ごと消滅。今は、近隣地区で孟宗竹(もうそうだけ)を入手して使っています。「それでも、引き合いにちょうどいい竹を探すのが年々大変になってきています」
東西から竹を差し出し、交差させて組んで、引き合いが始まる/竹のからかい
当日の昼過ぎ、そろいの法被(はっぴ)に鉢巻き、腰にはしめ縄を巻き、わらじを履いた若者たちが集まってきました。神に仕える者としての強さを表すため、顔には歌舞伎役者のような隈取が施されています。東西に分かれ、気勢を上げた後、竹を抱え込んで引き合います。竹が引かれた時だけでなく、折れたり割れたりしても負けになるので、扱いに注意しながらも掛け声勇ましく引き合います。約1,000人の観客も声援を送り、大いに盛り上がります。「実際のところ、はっきり勝負はつかないんです。東も西も自分たちが勝ったと意気揚々と引き上げるんですよ」。その後は観客も参加者も全員で浜辺に移動。事前に集めておいた正月飾りやしめ縄の山に、からかいで使った竹を加えて火をつけ、その火に身体をあぶり、厄払いをします。
2本の竹を重ねたまま抱え込んで全力で引き合う姿に、観客も熱狂する。
子どもだけの「からかい」。子どもが化粧をするお祭りは珍しい。
「もともとは若い衆の祭りなんですが、今はちょっと人数が足りなくて、昔の若い衆にも加わってもらっているんですよ」と小野さん。かつて竹のからかいは全国3カ所で行われていたと言われていますが、今、残っているのは青海だけ。さらに、昭和62年(1987)に国指定重要無形民俗文化財となり、「長く伝えていかなければという責任を感じています」と、小野さんたち保存会は、祭りで子どもだけが参加するからかいを始め、また、地元の小学校に働きかけて行事にからかいを取り入れてもらうなど、普及と伝承に努めています。
希少な稲わらで御神体を造る
参拝者が持参したわらには、体の気になる部分が記されていた。
中国風の衣装をまとって剣を帯び、長いひげ、にらみつけるような大きな目を持つショウキ様。日本では端午の節句にその人形が飾られ、魔除けや子どもの守り神と考えられてきました。新潟では阿賀野川流域の5つの集落に、ショウキ様と呼ばれる巨大なわら人形を作り、村はずれに祀るという祭りがあります。
「大きなわら人形を村境に立てる風習は、東日本に多く見られます。しかし、人々が自分の体の痛いところを『腰』や『膝』などと紙に書いて、わら人形のその箇所に結わえる、つまり、人間の災いを人形に移して、1年間安置するというのは、東蒲原郡内ならでは」と、大楽さん。そうした祭りを今も行う大牧区を訪ねました。
笠や蓑(みの)などに、農閑期に培ったわら細工の技術が凝らされる/ショウキ祭
JR津川駅から車で約10分、阿賀野川沿いの大牧区は21戸60名ほどの小さな集落です。「大人では40代が数人で、あとはみんながシニア。ショウキ祭は動ける人たちが総出でやっています」と、区長の斎藤誠さん。祭りは3月2日ですが、その準備は前年の秋から始まります。高さ2メートル、重さは200キロのショウキ様の材料となる稲わらを100束集めなければならないのです。「最近の稲刈りはコンバインで行うから、収穫と同時に稲わらが細かく裁断されてしまう。だから、長いままの稲わらを集めるのは至難の業。毎年、次の年の分が集まるがどうか、ひやひやです」
祭り当日、組みあがったショウキ様を前に、御神酒で乾杯/大牧会館
丸太を通し、200キロのショウキ様を安置場所の御堂へ運んでいく。
集めた稲わらは公民館に保管し、2月末からローラーで伸して柔らかくし、身体のパーツや草履(ぞうり)、胴に巻くことなどを手分けして作成。当日の3月2日、30人ほどで一気に組み立てます。祭り当日は朝早くから、参拝の人たちが訪れます。みんなの願いと様々な武器を配備して完成させた、勇ましいショウキ様を神輿(みこし)に載せてお堂に運びます。続いて、前年のショウキ様の木刀にしめ縄を縛り、お堂前の大木の枝に投げて引っ掛けます。この「カタナカケ」は、大牧ならではの特徴です。そして、役目を終えたショウキ様は、解体して、土に返します。
「ショウキ様の作り方も編む技も口伝え。早く次代に伝えなければ」/斎藤さん
5つの集落で行われていたショウキ祭は、平成17年(2005)に県の無形民俗文化財に指定されました。しかし、祭りの担い手不足や材料入手の難しさから、一つの集落では開催を止めています。「400年以上続いてきた祭りだから、我々の代でなくしたくありません。次にバトンタッチしなければ」と、新潟大学の学生たちの参加を受け入れるなど、斎藤さんたちは存続への取り組みを続けています。
後編では、厳粛かつ勇壮な「越後浦佐毘沙門堂裸押合大祭」と、どこかユーモラスな「ほだれ祭」、ご利益を求めて人々が集う二つの奇祭を紹介します。
掲載日:2019/2/22
■ 取材協力
大楽和正さん/新潟県立歴史博物館 主任研究員
小野成さん/青海竹のからかい保存会 副会長
斎藤誠さん/阿賀町大牧区長