
file-131 長岡・摂田屋の時空を超えるワンダーランド(前編)
商才も美意識も規格外、一代で富を築いた男
JR長岡駅から信越本線で1駅の宮内駅から歩いて約10分。摂田屋(せったや)は古くから日本酒や味噌、しょうゆの蔵元が集まる醸造の町として有名です。漆喰(しっくい)を塗り重ね、立体的な模様を描いた鏝絵(こてえ)の蔵を持つ「機那(きな)サフラン酒本舗」もその一つ。創業者は明治27年(1894)、摂田屋に居を構え、独創的な建物を次々と作りました。
型破りの宣伝で大ヒット

機那サフラン酒(昭和30年代の物)。発売当時は漢方薬配合の薬用酒。現在は、香辛料を組み合わせて同じ味わいを追求し、リキュールとして販売。

「仁太郎はもともと農家の生まれ。建物や庭はぜいたくでも、生活は質素で倹約家だったそうです」/吉澤さん

「機那サフラン酒はリキュールとして今も本舗で販売しているので、公開時期は販売責任者として通っています」/吉澤さん
有名な逸話が残っています。行商に出かけた仁太郎は、行った先で薬屋に商品を持ち込んだ後、近くの宿に投宿。と、夜間に突然の腹痛に苦しみだし、宿の人に「薬屋で機那サフラン酒を買ってきて」とお願い。クィっと飲むと、あら不思議、たちどころに回復――という自作自演の宣伝がきっかけとなり、機那サフラン酒の人気に火が付いたというのです。「それ以外にも、飛行機からビラをまいたり、屋根の上から本物の小判をまいたり、とにかく豪快」
さらに、機那サフラン酒というネーミングにもヒットの要因があるかもしれないと、吉澤さんは考えています。「機那は、マラリアの特効薬の原料になるキナという木の当て字。キナはサフラン同様、明治時代にはたいへん高価な薬種でした。漢方の薬酒に舶来のサフランとキナを組み合わせることで、新しさとありがたさを強調し、注目度を上げようとしたのでは。資料が残っていないので推測です」

手前の部分は店舗兼住居として明治27年(1894)に建築され、後に入母屋造(いりもやづくり)の重厚な屋根の建物を増築。

蔵なのに、窓が多く、すべてに鏝絵を施した見せるための蔵。扉を閉じたのは第二次世界大戦の長岡空襲の時だけ。
初代の夢を継ぐ人々

「鏝絵だけでなく、離れ座敷や主屋もプロの大工も驚くほど見どころがいっぱいです」/平沢さん
その夢の跡に再び人々の注目が集まったのは、皮肉にも多くの深刻な被害をもたらした中越地震でした。平成16年(2004)10月23日、北魚沼郡川口町(現・長岡市)を震源とするマグニチュード6.8の巨大地震は、機那サフラン酒本舗の建物や庭園にも大きなダメージを残しました。この時、幸いにも倒壊を免れた鏝絵の蔵を目にし、時代を経ても変わらない豪華さと迫力に「後世に残さなければ」という思いを抱いた人々がいました。その一人が平沢政明さんです。摂田屋の酒蔵に勤務し、それまでは本舗も含めた摂田屋の街並みを当たり前のものと考えていたそうです。
「鏝絵を初めて近くで見て感動し、何とかしなければという使命感のようなものが芽生えました。地元の蔵元が中心となって設立した『NPO法人醸造の町 摂田屋町おこしの会』が中心となって、まず、鏝絵の蔵の有形文化財登録を目指しました。登録後に交付された復興基金を活用して、平成20年(2008)に蔵を修復しました。でもそれはほんの一部。本舗のほとんどは手付かずの状態でした」

明治44年(1911)に正面脇に設置された巨大な木製看板。おびただしい彫刻が施された美しいデザイン。
周囲の人たちに理解や協力を求める地道な働きかけを続け、保存活動は広まっていきました。平成25年(2013)には、「機那サフラン酒本舗保存を願う市民の会」が発足、27年(2015)からは、降雪期以外の土日祝日の一般公開をかなえました。「初年度は、通算40日の公開日に1300人もの方が訪れました。半数が県外からです。『他で見たことがない、すごい』『感激した』という声に、改めて本舗の価値に気づかされ、また頑張って活動しようという気持ちになります。これまで知られていなかっただけで、私たちの町には一流品があったんです」
日本が文明開化し、大きく変わっていく中で、事業を興し、自らの美意識を建築物で具現化していった初代仁太郎。「そのメッセージを継承し、さらに活用していきたい」と平沢さんは語ります。
■ 取材協力
吉澤 義孝さん/新潟銘醸株式会社 取締役品質管理部長
平沢 政明さん/機那サフラン酒本舗保存を願う市民の会 事務局長、NPO法人醸造の町 摂田屋町おこしの会 初代事務局長
■ info
機那サフラン酒本舗
公開日/GW~11月の土日休日、イベントでの公開日
*鏝絵の蔵の外観はいつでも見学可