
file-134 “ビールの父”中川清兵衛と“日本のワインぶどうの父”川上善兵衛(後編)
故郷のため、日本のために、“やるべきこと”
中川清兵衛の生誕から20年後の慶応4年(1868)3月、川上善兵衛が産声を上げました。同年9月には265年続いた江戸時代が終わり、元号が明治に変わります。新時代とともに歩み、後に“日本のワインぶどうの父”と呼ばれる善兵衛。彼の人生を変えたのは勝海舟、鳥井信治郎、坂口謹一郎との出会いでした。
小作人と勝海舟、両方の視点で見た日本

岩の原葡萄園内の資料室にある善兵衛像。生活は質素でワインもおちょこで1杯を嗜む程度だった。

国の登録文化財になっている第一号石蔵。写真右手は冷気を入れたトンネル跡。

明治25年(1892)には園内に樽工を抱えていた。昭和12年(1937)にはウイスキー用木樽製造を始め、ワイン用・ウイスキー用ともに日本最古の木樽製造所であった。
善兵衛のワインは次第に評価が高まり、皇室も応援してくれるようになりました。その後、日露戦争の軍需景気にも乗って売上げを伸ばします。地域に産業を起こし、住民が豊かになることを願っていた善兵衛。すべてが順風満帆に見えました。
ふたりの救世主によって、さらに会社が発展

「私自身もこのワーナリーで自分ができることをすべてやって、悔いのない会社人生を送りたい」/神田社長


葡萄農家のバイブルとなる『実験葡萄全書』

『品種調査野帳』。善兵衛が品種ごとにその特徴を精密に記録した書。

善兵衛が開発した22品種のうち5品種は今も同園で栽培。マスカットベーリーAは病気に強く、多くの実を付け食用にもなる。いまだに山形の農家さんから「善兵衛さんのおかげで凶作の年も飢えずに済んだ」と感謝されるという。

第二号石蔵。善兵衛は冷却設備のない時代に雪室を活用して低温発酵を実現、日本初の本格ワインを誕生させた。

木樽を転がして運んだ通路。

まだ中身が入っているという善兵衛が醸した当時のワイン。
私財を投げ打って故郷や地域に貢献

善兵衛に関する貴重な資料を収集し、文章にまとめてきた池墻さん。

馬鹿棒の記事、雪の中の善兵衛絵はがき(「葡萄王」川上善兵衛訪問記)
『葡萄王を訪(と)ふ』の記事を書いたのは岡倉天心の長男一雄であった。岩の原葡萄園には、上越市にスキーをもたらしたレルヒ少佐も訪問している。

明治天皇が岩の原葡萄園のワイン商標を「菊水」と命名された。
善兵衛は昭和19年(1944)、肺炎のため自宅で亡くなります。晩年になっても葡萄の研究を続け、それを精力的に記録していました。神田社長は「ワイン造りが暗中模索だった時代、ここまで突き詰めた人はいない。創業者が交配して作った葡萄を使っていることがレガシーとなっている。現在でも地元の誇りであり、地元の皆さんも岩の原への見方が違う。従業員のモチベーションも高く、期待に応えたいというプライドがある。岩の原を盛り上げることが私たちの使命であり、それが地元や新潟県のためにもなる。『常に地域貢献とともに』がなければ善兵衛さんも喜ばない」と言います。

岩の原葡萄園広報担当の今井さん。「創業者が“日本のワインぶどうの父”であり、そこで働く意義深さを感じる。よい葡萄作り、よいワイン造りの繰り返しであり、次の時代へとつないでいくことが我々の使命。大事なところを残しつつ進化していきたい」

人気のブランド『深雪花』。赤はG20大阪サミットで各国の要人に振る舞われた。
■ 取材協力
神田 和明さん/株式会社岩の原葡萄園 代表取締役社長
今井 圭介さん/株式会社岩の原葡萄園 広報・ブランド担当
池墻 忠和さん/元上越市立歴史博物館副館長
■ 参考資料
サントリー登美の丘ワイナリー
『坂口謹一郎酒学集成4』/坂口謹一郎
論文『交配に依る葡萄品種の育成』/川上善兵衛
『「葡萄王」川上善兵衛訪問記』/池墻忠和
『レルヒ少佐』/池墻忠和
『「馬鹿棒」と呼ばれた我が故郷の大偉人』/池墻忠和
『川上善兵衛』/上越市立歴史博物館