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file-134 “ビールの父”中川清兵衛と“日本のワインぶどうの父”川上善兵衛(後編)

  

故郷のため、日本のために、“やるべきこと”


 中川清兵衛の生誕から20年後の慶応4年(1868)3月、川上善兵衛が産声を上げました。同年9月には265年続いた江戸時代が終わり、元号が明治に変わります。新時代とともに歩み、後に“日本のワインぶどうの父”と呼ばれる善兵衛。彼の人生を変えたのは勝海舟、鳥井信治郎、坂口謹一郎との出会いでした。

私利を捨て、国産ワインの発展に生涯を捧ぐ

小作人と勝海舟、両方の視点で見た日本

善兵衛像

岩の原葡萄園内の資料室にある善兵衛像。生活は質素でワインもおちょこで1杯を嗜む程度だった。

 善兵衛は戊辰戦争の真っ只中、現上越市北方で大地主の跡継ぎとして生まれました。祖父は芸術や学問に造詣が深く、中央の文化人とも交友がありました。父も優秀な人物でしたが善兵衛が7歳の時に夭逝。将来を案じた母は「甘やかさず育てたい」と祖母の実家森本家や祖父の実家竹田家に預けます。善兵衛は身元を隠しながら小作人に混ざって学校に通い、同時に厳しい跡継ぎ教育を受けました。成長するにつれて、小作人が貧しいのは、地主…、つまり実家が搾取しているからだと気付きます。自分と同じくらいの子どもが働き、さらに貧しければ、口減らしに売られていく。身につまされる思いとともに「故郷のために、自分に何ができるのか」を考えるようになりました。

 

 明治15年(1882)に14歳で故郷へ戻り、18歳の年に結婚します。そして明治21年(1888)9月に、祖父や父と交友があった勝海舟を訪ね、温めていたワイン造りの構想を伝えます。それからも親交は続きますが、当時の日本にあって桁違いの見識を持っていた勝海舟。江戸城無血開城に代表される人間の器の大きさや、愛国心の強さに憧れたことでしょう。善兵衛が故郷だけではなく、「日本のために、自分に何ができるのか」と視野を広げていくのは、勝の影響があったと言われています。

 

第一号石蔵々

国の登録文化財になっている第一号石蔵。写真右手は冷気を入れたトンネル跡。

木樽製造所

明治25年(1892)には園内に樽工を抱えていた。昭和12年(1937)にはウイスキー用木樽製造を始め、ワイン用・ウイスキー用ともに日本最古の木樽製造所であった。

 明治23年(1890)、善兵衛は自宅の名園を自ら先頭になって壊し、そこを「岩の原葡萄園」と名付けます。最初は在来種の葡萄を、後に外国産品種を栽植。3年後に初めてワインを造りますが、あまり美味しいワインは造れませんでした。さらに3年後、新設した石蔵で再チャレンジし、成功します。収量が高く、病気に強く、おいしいワインに適した、よりよい葡萄を求めて多くの品種を輸入しました。栽培技術を洋書から学ぶために英語やフランス語を習得、園内には気象観測装置まで置いて葡萄の様子を緻密に記録します。岩の原は、葡萄園というより、葡萄研究所のようになりました。また、来る人拒まず、働きたい人を200人も雇って、日当を支払っていました。
 善兵衛のワインは次第に評価が高まり、皇室も応援してくれるようになりました。その後、日露戦争の軍需景気にも乗って売上げを伸ばします。地域に産業を起こし、住民が豊かになることを願っていた善兵衛。すべてが順風満帆に見えました。

 

ふたりの救世主によって、さらに会社が発展

神田社長

「私自身もこのワーナリーで自分ができることをすべてやって、悔いのない会社人生を送りたい」/神田社長

「志はよいが財産を失わないように、と勝海舟から諭されたといいます。研究者としては素晴らしかったが、あまり経営者向きではありませんでした」と言うのは、岩の原葡萄園の神田和明社長です。善兵衛はあらゆる外国産葡萄を試して、結局「海外の品種ではダメだ」と気付きます。そこまでに30年かかりましたが、やり切ったからこそ、次にすべきことが見えました。そもそも上越市は日本有数の豪雪地帯で、夏も高温多湿になる。「この難しい気候に合った新種を交配しなければ」と、また私財を投じて研究を始めたのです。

 

あらせい 荒木さん
あらせい 荒木さん

葡萄農家のバイブルとなる『実験葡萄全書』

「一つの交配で結果を出すのに12〜13年かかります。善兵衛はそれを論文にして公表し、苗木も惜しげなく分け与えました。海外から500種以上も輸入しましたが、上越では育たないが他の地域なら大丈夫ではないかと、五一ワインさんなど県外のワイナリーや農家に葡萄を持って行きました。岩の原だけでなく、日本のワイン全体を考えていたことが“日本のワインぶどうの父”と言われる所以でしょう。現在、国内で栽培される葡萄の半数以上が、善兵衛が輸入または交配したものがルーツと言われています。食用のシャインマスカットもその一部です」と神田社長。

 

品種調査野帳

『品種調査野帳』。善兵衛が品種ごとにその特徴を精密に記録した書。

 根気よく研究を続けた善兵衛は1万311回も交配を続け、この中から、現在も国産赤ワインぶどうの中心である「マスカットベーリーA」など22の優良品種を発見しました。こうして国内でも葡萄研究の第一人者となりましたが、私財が尽き、経営が立ちゆかなくなります。そこに助け船を出したのがサントリー創始者の鳥井信治郎であり、ふたりを結んだのが、発酵と醸造の世界的権威で善兵衛の親戚関係にあった坂口謹一郎でした。赤玉ポートワインの売れ行きが好調だった鳥井は、原料を外国産ではなく国産ぶどうにすることで、日本に貢献したいと考えていました。「断じて舶来を要せず」の志で、ウイスキー造りに私財を投じていた鳥井は、善兵衛と交流を重ねるほどに共感し、同園の経営を助けます。おかげで善兵衛はますます研究に没頭することができました。
葡萄の写真

善兵衛が開発した22品種のうち5品種は今も同園で栽培。マスカットベーリーAは病気に強く、多くの実を付け食用にもなる。いまだに山形の農家さんから「善兵衛さんのおかげで凶作の年も飢えずに済んだ」と感謝されるという。

 

第二号石蔵

第二号石蔵。善兵衛は冷却設備のない時代に雪室を活用して低温発酵を実現、日本初の本格ワインを誕生させた。

第二号石蔵

木樽を転がして運んだ通路。

 そしてワイン増産のために、坂口の紹介で昭和10年(1935)に閉園していた山梨県登美農園(現サントリー登美の丘ワイナリー)を見学。荒廃が進んでいましたが、富士山を望む素晴らしい環境に、善兵衛と鳥井は手を取り合って涙ぐみます。先駆者であった二人にしか通じない何かがあったのでしょう。軽装だった善兵衛に、鳥井は自分が着ていたオーバーをかけてあげたそうです。

 

当時のワイン

まだ中身が入っているという善兵衛が醸した当時のワイン。

 その2年後、坂口がより安全に発酵し、品質を高めるためのワイン用酵母「OC No.2」の分離に成功します。善兵衛の「天然発酵しやすい葡萄とそうでないものがある」との経験をヒントに、日本の気候風土に合う酵母を探そうと考えたのです。岩の原でも候補に挙がった酵母を使ってワインを試作し、分析や利き酒は坂口たちの研究室で行うこと繰り返しました。「OC No.2」は、現在も優良ワイン酵母の標準として使われています。あらゆる酒造に貢献した坂口は“酒の博士”と呼ばれるようになりました。

 

私財を投げ打って故郷や地域に貢献

池墻さん

善兵衛に関する貴重な資料を収集し、文章にまとめてきた池墻さん。

「一つ思い込むとやり通す人、勝ち気な人というイメージがある。故郷を越えて、国全体がよくなることを考え、私財を投げ打ってでも貢献したいと思っていたのでしょう。勝海舟は、善兵衛が“おこも(こじき)”にならないようにと心配していました」と言うのは、元上越市立歴史博物館副館長の池墻(いけがき)忠和さんです。善兵衛の内面がうかがえる資料として、善兵衛の論文『交配に依る葡萄品種の育成』(1940)を紹介してもらいました。「ここに至るまでの20年間、わが家を重んじ、私を愛する者たちの切なる諫言は、まるで鼓膜を突き抜くように耳に響き、最も苦慮するところであった(現代訳)」。私財といっても先祖が築いたもので、本来なら裕福だったはずの家族。偉業の影にいる者の痛みは、善兵衛にとっても痛みであり続けました。この論文はその後、民間人初の日本農学賞を受賞しています。

 

フォード

馬鹿棒の記事、雪の中の善兵衛絵はがき(「葡萄王」川上善兵衛訪問記)
『葡萄王を訪(と)ふ』の記事を書いたのは岡倉天心の長男一雄であった。岩の原葡萄園には、上越市にスキーをもたらしたレルヒ少佐も訪問している。

 次に明治44年(1911)の高田新聞の記事『葡萄王を訪(と)ふ(三)』。ここで善兵衛は葡萄畑の支柱を“川上の馬鹿棒”と呼ばれたと記者に話しています。「善兵衛さんが立派な庭を壊して葡萄を植え始めた時、親戚はもとより、先代から仕えた人たちは必死に止めたそうです。それでも葡萄業を推し進める姿を見て周囲の人々はついに失笑し、支柱を“川上の馬鹿棒”と囁くようになりました。それを過去の笑い話として記者に語ったのです。皇太子殿下や皇族も来園し、日露戦争における葡萄酒の売れ行きが好調などから、善兵衛さんと岩の原葡萄園の名前は全国区になっていました。それが余裕となり、昔を懐かしんで話したのでしょう」と心を寄せています。

 

菊水

明治天皇が岩の原葡萄園のワイン商標を「菊水」と命名された。

 池墻さんに「もし善兵衛に会うことができたら?」と伺うと、「勝海舟との関係や地元の農民の生活をどうしてそこまで考えられたのか。使命感があったのでしょうが、葡萄の品種改良一筋で生きた。どうしてそんなことをされたのか、と聞いてみたいですね」と言います。
 善兵衛は昭和19年(1944)、肺炎のため自宅で亡くなります。晩年になっても葡萄の研究を続け、それを精力的に記録していました。神田社長は「ワイン造りが暗中模索だった時代、ここまで突き詰めた人はいない。創業者が交配して作った葡萄を使っていることがレガシーとなっている。現在でも地元の誇りであり、地元の皆さんも岩の原への見方が違う。従業員のモチベーションも高く、期待に応えたいというプライドがある。岩の原を盛り上げることが私たちの使命であり、それが地元や新潟県のためにもなる。『常に地域貢献とともに』がなければ善兵衛さんも喜ばない」と言います。

 

今井さん

岩の原葡萄園広報担当の今井さん。「創業者が“日本のワインぶどうの父”であり、そこで働く意義深さを感じる。よい葡萄作り、よいワイン造りの繰り返しであり、次の時代へとつないでいくことが我々の使命。大事なところを残しつつ進化していきたい」

 平成26年(2014)、岩の原葡萄園では設備を改築。同時に小型タンクを入れて、葡萄の畑ごとに一つのタンクで醸すようにしました。これで漠然と得ていた畑の特徴が、はっきりわかるようになりました。また、善兵衛が発見した葡萄がどう育ち、どう味の変化が出てくるのか、同園は研究を深めながら継承したいと考えています。

 

深雪花

人気のブランド『深雪花』。赤はG20大阪サミットで各国の要人に振る舞われた。

 日本の黎明期を駆け抜けた中川清兵衛と川上善兵衛。ビールやワインへのイメージが変わったのではないでしょうか。日本酒が有名な新潟県ですが、ビールとワインも、新潟が県内外に誇れるものだと思います。

 

掲載日:2020/1/30

 

■ 取材協力
神田 和明さん/株式会社岩の原葡萄園 代表取締役社長
今井 圭介さん/株式会社岩の原葡萄園 広報・ブランド担当
池墻 忠和さん/元上越市立歴史博物館副館長

■ 参考資料
サントリー登美の丘ワイナリー
『坂口謹一郎酒学集成4』/坂口謹一郎
論文『交配に依る葡萄品種の育成』/川上善兵衛
『「葡萄王」川上善兵衛訪問記』/池墻忠和
『レルヒ少佐』/池墻忠和
『「馬鹿棒」と呼ばれた我が故郷の大偉人』/池墻忠和
『川上善兵衛』/上越市立歴史博物館

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