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file-137 伊夜日子大神(いやひこおおかみ)伝説(前編)

  

ひとつの伝説で本が一冊できる
底が見えないほど深い、歴史ある弥彦


 弥彦エリアには40を超える伝説があり、そのほとんどが伊夜日子大神に関係するといわれています。伝説が実話かどうかは証明できませんが、時代が移ろうとも、世の中が変ろうとも人々が語り継いできた。そこには日本人らしさや不変の法則が隠れているようです。

紀元前657年から始まった数々の物語

後に伊夜日子大神となる天香山命(あめのかごやまのみこと)とは?

「どうにもならないことに出会うと、最後に頼りになるのは神しかいない。弥彦の人たちも同じ。ギリギリに追い詰められたとき大神を頼りにしてきた。それが信仰であり、伝説が根差した理由ではないか」と五十嵐さんは考える。

 最近の若い人たちは、すごい力を持つ人を「あの人、神」と形容しますが、西暦紀元前657年に長岡市寺泊に上陸した天香山命は、まさにそう。後に彌彦神社に祀られて、伊夜日子大神になるのです。天香山命は天照大御神のひ孫に当たり、日本を建国した神武天皇の勅命で越の国を平定しにやって来ました。当時の都であった大和から、米作り、漁業、酒造り、鍛冶など最新技術を持ち込んだので、元から住んでいた未開の人々はさぞ驚いたことでしょう。天香山命は住民から頼まれ、悪さをする海賊も成敗し、その武器を集めて野に積みます。それから、その地を「野積」というようになりました。「これらの恩恵から伝説が生まれていったのでしょう」と言うのは弥彦の丘美術館館長の五十嵐敬吾さん。地域の歴史や伝説を集約した『弥彦村史事典』の編纂に尽力された人物です。  

 

 天香山命は、越の国平定を果たすために拠点を探そうと野積から弥彦山を登り、現在の弥彦村大字弥彦にたどり着きます。杖代わりに持っていた椎の木を地面に刺したら一晩で大木になり、ここに決めたと伝わっています。「実は、弥彦は大変に地盤がよくて、昭和39年(1964)の新潟地震も、平成16年(2004)の中越地震も被害届が出ませんでした。社殿で奉仕されていた神官が揺れに気付かなかったほど。今の時代ならともかく、古代にあってどうして弥彦を選んだのか」と五十嵐さんは首をかしげます。

 

弥彦の丘美術館前からの眺望。真正面に弥彦山を望む五十嵐さんのおすすめスポット。

 現在の弥彦山山頂にはテレビや防災用などのアンテナが立っていますが、スカイツリーと同じわずか634メートルの高さなのに新潟県下のほとんどをカバーできるそう。およそ2800年も前にどうして弥彦のメリットがわかったのか。その謎も、ある意味伝説なのかもしれません。
 天香山命がこの世からお隠れになると、息子の天五田根命(あめのいたねのみこと)が廟社を築きます。崇神天皇(在位紀元前97~30年)の時代に天香山命の子孫である建諸隅命(たけもろすみのみこと)が社殿を造営。それが彌彦神社の始まりであり、2400年以上もの歴史を有する越後一宮の神社となったのです。

 

ほんの数十年前まで、伝説は暮らしの中で生きていた

 五十嵐さんに印象深い伝説を伺うと『伝説黒滝城跡』と『妙多羅天女と婆々杉』を選んでくれました。  

 

編纂に10年掛かった『弥彦村村史事典』。弥彦の伝説はひとつで本が1冊できるほど奥深い。さらに深めようとすると、あと30-40年掛かるという。

 ―『伝説黒滝城跡』 戦国時代に重要な役割を果たした上杉家直属の黒滝城。越後の覇権争いが起こる度に攻防の場となった。遠く上越の春日山から山伝いにのろしが上がり、黒滝城に知らせが入ったという。それが時代を経て廃城になっても、夜になるとワッショ、ワッショと山麓を下る侍の声がする―
 伊夜日子大神は戦国時代の武将にとっても憧れの存在でした。信仰心の厚い謙信は「私利私欲ではなく正義のために戦をします」と、破れば天罰が当たる覚悟で大神に起請文(きしょうもん)を書いています。
 ―『妙多羅天女と婆々杉(みょうたらてんにょとばばすぎ)』 彌彦神社造営の際、仕えていた鍛冶屋と大工の棟梁が上棟式の日取りで争いになった。負けた鍛冶屋の祖母は恨みから鬼となり、佐渡や加賀、越中、信州まで飛んで悪行の限りをつくし「弥彦の鬼婆」と恐れられた。80年後の保元元年(1156)に高僧の説教から改心。妙多羅天女の称号をいただき、悪人をいさめ、善人と幼い子どもを守ると約束する。大杉をすみかとし、死んだ悪人やその衣類を木に下げて見せしめとした―

 

「婆々杉は今も立っていて、妙多羅天女の子孫も弥彦に住んでいます。私は小学校の先生でしたから、悪さをすると婆々杉に吊されるぞ、と子どもたちに使っていました。効果がありましたね。しかし、最近は伝説を知らない人が増えてきた」と五十嵐さんは危惧しています。科学の時代となって、伝説が暮らしから離れているのかもしれません。

 

時を超えて人の思いを共有する、それが伝説

巨大なかやぶき屋根の家屋に大家族時代の名残が見える。

高津さんは、人魚の肉を食べて不死を得た娘の子孫に当たる。似た伝説は全国にあるが、高津家の話は最も古い時代とされる。

大神が上陸した岩場。石碑も建っているが、地元の人の案内がなければ行くのは難しい。

岩場には大神が暮らしていた洞穴があり、座っていた台座も残っているという。

 さて、野積に話を移しましょう。現在は遠浅の海水浴場で有名ですが、昭和6年(1931)に大河津分水路が稼働する以前は波による浸食が激しく、海岸線はゴツゴツした岩場。いわしの漁場として住民のほとんどが漁業を営み、大家族で暮らしていました。その面影が残るお宿まつや。当主の高津勝さんの先祖は、伊夜日子大神の上陸前からこの地に住んでいました。「太幸(たこう)と源助、高津家の祖先の金五郎の3軒で集落を作っていました。伊夜日子大神と交流があった当家ならではの伝説もあります」と言います。

 

鼓童 練習

八百比丘尼を物語る掛柚絵巻。

鼓童 たたこう館

高津さんが収集した全国に散らばる八百比丘尼伝説の関連本。

鼓童 たたこう館

八百比丘尼による手植えの松と心洗いしたと伝わる行水の場。

―『八百比丘尼(はっぴゃくびくに)』 伊夜日子大神からお土産にもらった人魚のような肉を金五郎が戸棚にしまっておいた。それを娘が食べてしまい、もとから美しい娘はさらに美しくなり乞われて嫁に行く。しかし、何年経っても若いまま。気味悪がられて出戻って再婚を39回も繰り返す。人は不死を願うものだが、いざ得てしまうと幸福ではなく、苦悩となった。500歳で出家した娘は800歳で即身仏になる道を選ぶ―
 高津家には八百比丘尼による手植えの松が残っています。「この松が生きている限り私はどこかの地できっと生きている」と言い残しましたが、現在も松は青々としています。ミイラとなっても八百比丘尼は生き続けているのかもしれません。「伝説は伝説。真実かどうかではなく楽しんで想像してほしい。その中には不変があり、みんなで助け合って生きようではないかという人の思いがこもっています」と高津さんは言います。

 

 後編では、彌彦神社に仕える権禰宜の高橋さん、観光ボランティアの西澤さん、社家(しゃけ)の早福さんより、それぞれの立場での伝説とは何かを伺います。

 

掲載日:2020/7/6

 

■ 取材協力
五十嵐 敬吾さん/弥彦の丘美術館 館長
高津 勝さん/お宿まつや 当主、寺泊公民館野積分館長、寺泊芸術文化協会会長

■ 参考資料
弥彦村役場ホームページ>観光情報>弥彦の昔話
彌彦神社ホームページ>境内を巡る>摂社・末社
パンフレット「伝説八百比丘尼物語」/お宿まつや発行

後編 → 伊夜日子大神(いやひこおおかみ)伝説(後編)
調和を大切にし、生きる喜びも教えてくれた大神

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