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file-144 「市章」三都物語~新発田・長岡・新潟~(前編)

  

お殿様を敬い、伝統を継ぐ


 新発田藩・溝口家は270年、長岡藩・牧野家は250年。新潟県において、一家による統治の長さでは群を抜く二つの地域では、時代が変わっても、藩主を敬い懐かしみ、家紋や城の形を市章のデザインに使ってきました。そこに込められた人々の思いを探ります。

藩のシンボルを市章にデザイン

「しるし」は日本の文化だ

金先生

「一族や一家の紋は、身分によっては持てませんでしたが、江戸時代に広がり、明治時代になると一般化して、昭和初期に最も多く使われました」/ 金先生

家印

家印の典型的な良い事例。長岡市摂田屋の星野本店。「複雑な模様の家紋と異なり、家印は太い線で山や丸を使ったシンプルな形が主流」/金先生

 家印(いえじるし)、屋号、家紋、校章、市町村章、都道府県章、シンボルマークなど、私たちの身の回りには様々なマークがあふれています。「こうした『しるし』は日本を代表するグラフィックデザイン文化の一つです。これほどのしるしを使いこなす国は他にはありません」と語るのは、長岡造形大学で紋章・しるし文化を研究している金夆洙(キム・ボンス)先生。多くのしるしの中でも、市章は家印の影響を受けていると考えています。
 家印とは、一家に一つ定められた印。一族で代々引き継がれる家紋、職業や所在地などを表す屋号とは、性格が異なります。また、平安時代から身分の高い人たちが使ってきた家紋に対し、家印は、商業が盛んになり、庶民のパワーや行動範囲が広がった江戸時代に、自分のトレードマークが必要になった庶民によって作られ、定着しました。例えば、下駄の裏に焼き印で家印を入れ、他の人のものと区別したのはその一例。「一目でわかるためには高い視認性が必要で、家印は太い線で描かれたシンプルな図案が主流です」
 明治時代の市制施行の時、昭和と平成の大合併で新しい行政区が生まれた時、市章の制定や改定が相次ぎました。「他と区別するために、自分たちなりの『しるし』が必要ではないかと考えたのでしょう。家印の発想と同じです」

 

藩主の家紋ひとすじ

新発田市章

昭和8年(1933)には町章、昭和22年(1947)には市章として選ばれた五階菱。「その度に、溝口家の当主に許可をいただいたそうです」/鶴巻さん

鶴巻さん

「溝口家は今も新発田の人には身近な存在。歴代藩主の御神霊を祭った豊田神社では、毎年、祭礼が執り行われています」/鶴巻さん

新発田城

慶長3年(1598)に初代藩主・溝口秀勝が築城を始め、三代宣直(のぶなお)の時代に完成した新発田城。五階菱を冠した家紋瓦が用いられている。/新発田市教育委員会提供

本丸

明治時代の初めに取り壊された新発田城本丸御殿。正面玄関の屋根の瓦にも、家紋である五階菱が冠されていた。/新発田市立歴史図書館蔵

 新発田市の市章は、5つの菱が重なった「五階菱(ごかいびし)」で、溝口家の家紋です。慶長3年(1598)に豊臣秀吉の命で溝口秀勝が入封して以来、明治維新まで溝口家がこの地を治めました。「270年間藩主が不変なのは、越後の中でもここだけです。それだけに五階菱は人々の中に定着し、町や市のシンボルとしてこの家紋を継ぐのは自然なことだったのだと思います」と、新発田市立歴史図書館 副参事の鶴巻康志さん。
 昭和8年(1933)には新発田町の町章として、昭和22年(1947)には新発田市の市章として、五階菱が選ばれました。それほどまでに親しまれた理由は「統治の長さだけではない」と、鶴巻さんは考えています。「新発田は水害を受けやすく、土地の改良が必要でした。溝口家も積極的に灌漑に取り組みましたが、順調には進みませんでした。藩主も武士も農民も共に苦労する中で連帯感が生まれたのではないかと思うのです」
 残念ながら昭和38年(1963)の火事で多くの公文書が焼失し、詳しい決定の経緯はわかりませんが、五階菱が市章だけでなく、市内の老舗菓子店の製品や企業の社章としても使われていることを考え合わせると、新発田の人々の溝口家への親しみや敬意が伺われます。

 

時代を反映する長岡の3つの市章

長岡3代目

不死鳥のように立ち上がる長岡を表した三代目市章。市旗を前提としてデザインされたともいわれている。

金垣さん

「長岡市のシンボルの一つ、長生橋は最初の頃、『ながいきばし』と呼ばれていました。長岡市民は『長』の字に良いイメージを持っています」/金垣さん

長岡1代目

兜の形を象徴した外輪の中に、篆書(てんしょ)による「長」を配した、初代のデザイン。/出典:『1966 市勢要覧 市制六十周年記念号』

 フェニックス×長岡の「長」の字がデザインされた長岡市の現在の市章は、実は、三代目。「長岡市の市章は、どうやら、歴史が変わるときに変えてきたようです」と言うのは、長岡郷土史研究会の金垣孝二さんです。その変遷について伺いました。
 初代の市章が制定されたのは、市制が施行された明治39年(1906)です。元和4年(1618)に長岡藩主となった牧野忠成が完成させた長岡城は、兜(かぶと)に似た※縄張りから兜城と呼ばれていました。その呼び名にちなんで兜を象った外輪×「長」を合わせてデザインされていますが、昭和20年(1945)の長岡空襲でほとんどの公文書が失われたため、経緯はわかりません。旧藩主への恩を忘れないためとも、初代市長への就任を牧野家第十五代当主の忠篤に要請したことに関係しているともいわれています。

 

長岡2代目

二代目の市章では、「長」は初代と同じ篆書によるものだが、モチーフが雪をイメージしたデザインに変わっている。/出典:『昭和23年 長岡市勢要覧』

市庁舎

不死鳥をデザインした三代目の市章は、昭和52年(1977)10月の四代目・市本庁舎(現さいわいプラザ)竣工に合わせて制定された。/長岡市提供

花火フェニックス

中越大震災からの復興を祈って、平成17年(2005)から打ち上げられている復興祈願花火「フェニックス」。これがきっかけとなり、市章への注目度もアップ。/長岡市提供

 昭和22年(1947)に登場した二代目には、雪の結晶×「長」のデザインが用いられました。「こちらも記録が残されていないので、制定の意図はわかりません。戦後の復興の時代に、旧藩主を思わせる兜のデザインがそぐわないと考えられたのかもしれません。ところが、昭和41年(1966)に、初代の市章が再び使われるようになります。その理由は、38豪雪など雪に悩まされて雪のイメージを嫌ったか、または、牧野家らしさがなくなることへの抵抗、歴史へのこだわりではないかと考えています」
 そして、昭和52年(1977)、新しい市本庁舎完成を機に、今も使用されている三代目が誕生。「長岡市を不撓不屈の不死鳥の姿に託して表現した」と、市政だよりに記されています。「不撓不屈の精神とは、戊辰戦争、長岡空襲の壊滅的な被害から復興を成し遂げた長岡の人たちの『負けじ魂』です」。その後、中越大震災では「フェニックス(不死鳥)」が復興のキーワードになり、この市章は再度、注目を集めました。「兜、雪、不死鳥とイメージは変わっても、マークのコンセプトは残しています。「長」を合わせるところに、基本を変えない長岡人らしさを感じますね」と金垣さんは、市章の変遷に長岡らしさを読みとっています。

 

 後編では、湊町の自負が込められた新潟市の市章を紐解きます。

 

 ※縄張り・・・城の基本設計。曲輪(くるわ)や堀、門、虎口(こぐち)の配置をいう。

 

掲載日:2021/4/5

 

■ 取材協力
金夆洙さん/長岡造形大学 視覚デザイン学科 准教授
鶴巻康志さん/新発田市立歴史図書館 副参事
金垣孝二さん/長岡郷土史研究会 会員

 

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