file-157 「泳ぐ芸術品」錦鯉発祥の地・小千谷へ(前編)

  

「泳ぐ宝石」を育て上げた先人たちの情熱

 江戸時代の新潟県中越エリアで、突然変異によって誕生した錦鯉。約200年の間に美しさは磨かれ続け、世界中に愛好家の輪が広がっています。歴史や地域に息づく錦鯉文化を紐解き、その魅力の背景に迫ります。

突然変異の鯉が、世界に求められる錦鯉に

美しく希少な鑑賞魚

錦鯉

錦鯉の稚魚は春に孵化し、10月くらいまでに大体15~20cmくらいにまで成長し、環境や餌の量などに応じて大きくなっていきます。美しさの基準は、体型・色彩・斑紋の3つ。ボリュームがあり均衡の取れた体型や色の深みが吟味されます。

錦鯉

「錦鯉」は鑑賞用に改良した鯉の品種の総称で、かつては「模様鯉」「色鯉」などの呼ばれ方をしていましたが、大正三色が誕生した際に「これこそまさに錦鯉だ!」と言われたことが名前の由来。

「泳ぐ宝石」「泳ぐ芸術品」「国魚」とも呼ばれる錦鯉は、新潟県発祥の鑑賞魚です。「錦」という名にふさわしい色鮮やかな柄やその美しいバランスは、日本のみならず、世界の人々を魅了してやみません。
 そんな錦鯉、1回の産卵で約20万粒もの卵が産み落とされるのですが、孵化から稚魚になり、選別、出荷まで至るのは1%以下。希少にも感じられる数値に見えますが、自然界での生存率はさらに低いのが実情です。
 代表的な品種は、「御三家」と呼ばれる人気の3種類。白地に赤い模様がある「紅白」、紅白に比較的まとまった墨斑紋が点散する「大正三色」、そして紅白に筆で描いたようなタッチの黒斑紋がある「昭和三色」です。

 

縁起物として親しまれる鯉

錦鯉

一般的に鯉の寿命は長ければ50年ほど生きると言われているが、平均すると20年くらい。

 昔から鯉が竜門という滝を登って竜になる「登竜門」という伝説があるように、立身出世の象徴として人気があった鯉。端午の節句の鯉のぼりも「成長」や「丈夫さ」の願いが込められており、縁起物とされ、その性格の穏やかさから平和の象徴とも言われています。
 なかでも錦鯉の代表的な柄である赤と白のコントラストは、日本では伝統的に祝い事に用いられてきた組み合わせ。かつて新潟県出身の総理大臣・田中角栄は自邸で飼うだけではなく、海外の要人に記念品として贈呈したとも言われており、錦鯉はその美しさや文化的背景から、縁起の良い象徴として、国境を超えて親しまれてきました。

 

豪雪地帯で育まれた娯楽

マネージャー平沢勝佳さん

錦鯉が屋内プールに120匹、庭の池に230匹ほどが泳いでいる「錦鯉の里」を管理しているマネージャー平沢勝佳さん。施設は、小千谷市の市街地に位置しており、錦鯉を鑑賞しながらその歴史にも触れられるミュージアムです(※冬季は全ての錦鯉を屋内で飼育)。養鯉場では春から秋まで野池で鯉を飼育するため、一般の人が通年で錦鯉を見られる施設は珍しく、国内外から人が訪れるスポットになっています。

「錦鯉の里」屋内プール

「錦鯉の里」屋内プール。錦鯉は小千谷市の市の魚、新潟県の鑑賞魚として指定されています。

 錦鯉の歴史は遡ること江戸時代、19世紀の前半に新潟県の二十村郷(現在の小千谷市・長岡市の一部)で食用の黒鯉の中から突然変異により色のついた“変わり鯉”が現れたところから始まります。「現地は、冬に3m以上も雪が積もる山間の豪雪地帯です。冬でも凍らない湧水であれば鯉は育つので、貴重なタンパク源として食べるために育てられていたわけです。娯楽のない時代なので、身近な鯉はきっと観賞の対象でもあったのでしょう。そんな中、突然変異で赤や白の鯉が誕生して、それらの掛け合わせを集落の人と楽しみながら検証するようになったことは容易に想像できます」と、教えてくれたのは、小千谷市にある施設「錦鯉の里」のマネージャー平沢勝佳さん。
(注)一般的には「観賞」と表記しますが、錦鯉は美術的な価値があるという意味を含め、錦鯉にはあえて「鑑賞」の文字を使用しています。

 

錦鯉を広めた先人たちの情熱

「鯉魚模様見取図」

「大正博覧会」の際に作られた資料「錦鯉絵型帳」の中の「鯉魚模様見取図」

 突然変異によって出現した錦鯉は、その後いかにして広まり、現在の姿になったのでしょうか。
 出現以降、鑑賞用に改良が重ねられ、赤い斑点のような模様が出た錦鯉が、薬の行商人を介して北陸や長野方面に出回ったという資料が残されていますが、一躍全国区になったのは、1914(大正3)年に上野で開催された大正天皇御即位を記念した「大正博覧会」。この時に作られた資料「錦鯉絵型帳」は、当時の様子が絵画で現存する最古の資料となっています。ここに出品されたことを契機に、新潟の錦鯉は広く知られることになりました。当時は上越線がない時代、信越線経由で東京へ運んだと言われており、この地域の人たちの情熱が垣間見られるエピソードになっています。大正博覧会ののち、アメリカから贈られたベニマスの返礼品として初めて錦鯉が海外に贈られた機会を経て、昭和14(1939)年には、サンフランシスコで開催された金門万国博覧会に新潟の錦鯉生産者が300匹の錦鯉を出品。錦鯉はどんどんその名を広く知らしめていくことになります。
 ヨーロッパではガーデニングの一環で池を作る際に錦鯉を取り入れたり、近年ではアジア圏にも錦鯉の魅力が浸透し、「愛鱗会(あいりんかい)」という錦鯉の愛好家グループが世界中に誕生しています。

 

錦鯉に携わるプロが集い、躍動する

 専業で錦鯉に携わる事業者が所属する全国組織「全日本錦鯉振興会」に登録する約300社のうち、新潟県の事業者は約100社。1/3を新潟県の事業者が占めていることになります。専業に加え兼業の事業者も登録する「一般社団法人新潟錦鯉協議会」には約450社が名を連ね、錦鯉業界における新潟の存在の大きさを窺い知ることができます。九州、広島、愛知などでも錦鯉の養殖は盛んですが、新潟には生産だけではなく錦鯉の研究にも力を入れている養鯉業者が多いとも言われています。
 生産、研究といった技術的な努力、そしてこの小千谷や山古志地域の養鯉場に行くと、社長が英語で電話している姿を見る場面が多々あります。現状に満足せず、アグレッシブに海外と渡り合い広げる情熱。まさに新潟から東京まで鈍行列車で錦鯉を運んだ先人たちのように、伝統文化の継承者であり、常にパイオニアでもあるのです。
 後編では、そんな養鯉のリアルな現場に迫ります。

 

水槽でも飼育できる錦鯉

実は水槽でも飼育できる錦鯉。飼育される水槽のサイズにあった、錦鯉に成長するとのこと。

 

掲載日:2022/10/26

 


■ 取材協力
錦鯉の里・マネージャー/平沢勝佳さん

 

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後編 → file-157 「泳ぐ芸術品」錦鯉発祥の地・小千谷へ(後編)
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