file-158 縄文時代に日本全土に広まった糸魚川の翡翠 (後編)
謎に包まれているから人を魅了する
権力者のステータスシンボルだったと考えられる糸魚川の翡翠(ひすい)。近年の調査で黒曜石との交換に使われていた形跡も見つかりました。翡翠が流通した経路をたどり、当時の日本に思いを巡らせます。
朝鮮半島にまで広まった翡翠
「もともと糸魚川では石斧づくりが圧倒的に盛んで、その加工技術が翡翠の加工にも生かされたようです」と大学で考古学の講師も務めている木島さん。
糸魚川から運ばれ青森県三内丸山遺跡から出土した翡翠のレプリカ。青森県では糸魚川の翡翠が多くの遺跡で発見されている。/長者ケ原考古館 展示
「縄文時代の中頃・3000年から5000年前ごろには、北は北海道・礼文島、南は鹿児島県・種子島にまで広まっていたようです」と翡翠産地の地元、長者ケ原考古館の学芸員・木島勉さんに糸魚川翡翠の広まりについて説明いただきました。「当時は、鹿児島付近で起きた海底火山の大爆発の影響などもあって、縄文時代の中頃まで西日本側はあまり人が住んでおらず、人口は東から北日本に集中していたようです。晩期になるとだんだん西に人が住むようになってきて、縄文時代の終わりごろには朝鮮半島からも人が移ってきて住みはじめ、弥生時代になると圧倒的に物事の中心が西日本に移っていきました」
縄文時代の晩期・2500年ほど前になると糸魚川の翡翠はさらに、知床半島から沖縄本島まで広まったとみられています。「国家の意識も国の線引もありませんから、朝鮮半島とは自然な流れで行き来していました。そして、日本列島の全域に広まった翡翠の一部は朝鮮半島へ渡っていきました」と木島さん。「弥生の終わりから古墳時代になると、朝鮮半島に翡翠の勾玉が多く運ばれるようになり、日本列島よりも朝鮮半島の遺跡のほうでより多く発見されるようになるんです」
朝鮮半島に多く運ばれた目的は、鉄など金属との交換のためで、半島から金属を手に入れるために翡翠が大陸へと渡ったようです。「翡翠を運んでいたのは糸魚川ではなく、出雲や九州北部の人たちのようです。もし糸魚川の人が運んでいたら、もっと繁栄していたでしょうね」と冗談まじりに木島さんは話してくれました。
全国から求められた糸魚川の翡翠
長者ケ原遺跡では、原石、粗割、敲打(こうだ)、研磨の各工程の翡翠と加工に使用された石が見つかり、翡翠の玉の製作地だったことを裏付ける。/長者ケ原考古館 展示
「長者ケ原遺跡は、以前の調査で地表に落ちている土器や石器が100㎡で500点も見つかりました。これほど多くのものが見つかる遺跡は他にあまりありませんよ」/木島さん
「日本列島には翡翠の産地は何か所かありますが、縄文時代に翡翠を盛んに加工したのは糸魚川周辺だけでした。他の遺跡で加工の痕跡があったとしても小規模なものだけです。原石を割り込み整形に至るまでの製作工程の全てを追える遺跡があるのは糸魚川のみ。縄文時代の日本の遺跡で翡翠が出たといえば、糸魚川のものとみてほぼ間違いないと考えられます」と木島さん。
糸魚川で生産された翡翠は、周辺地域へ同心円状に、徐々に遠くの地方へ広まったように思えますが、実際は違うといいます。「青森県の三内丸山遺跡など、糸魚川から遠く離れたところに集中的に運ばれた地域があります。青森の遺跡では多いのに、間の秋田、山形や宮城県は、遺跡はあるのに翡翠の出土は少ない。つまり、何かしらの目的や要因があって運ばれていただろうと考えられます。翡翠の玉が出るところはその地域の拠点の集落にあたるところ。とはいえ、拠点の集落であれば、どこでも出るというわけではありません。翡翠の装飾品は限られた地域の限られた集落の限られた人のみが身につけられたステータスシンボルであり、きっと各地から求められたのでしょう。縄文から古墳時代の翡翠は、糸魚川産だとほぼ考えられるので、発見された遺跡の位置からその時代の人の動きや当時の経済状況を推測できるわけです。そのような資源は他になかなかありませんよ」。歴史を知る上でも翡翠は、重要な役割を果たしているのだと教えていただきました。
翡翠の運ばれ方についての謎
長者ケ原遺跡では3700㎡を調査したところ1000点ほどの黒曜石が出土したという。その多くが諏訪星ケ台産で、長野県との関わりの深かさを物語っている。/長者ケ原考古館 展示
縄文時代の丸木舟を再現する活動などを行う「日本海カヌープロジェクト」代表の山田修さん。2014年にシーカヤックで上越市から三内丸山遺跡まで2ヵ月半かけてたどり着き、海上の「翡翠の道」を検証した。
木島さんは更に詳しく教えてくれます。「長者ケ原遺跡では、同年代の他の遺跡の10倍も多く黒曜石が見つかりました。最近、産地同定(※)を行ったところ大半が長野県・諏訪星ケ台のものと分かりました。星ケ台のある霧ヶ峰周辺では、糸魚川の翡翠が多く出土します。おそらく翡翠と黒曜石の交換がされていたと思われます」
当時の権力者が求め、資源の交換物としても利用された翡翠は、どのような手段で広まったのでしょう。木島さんは「佐渡の遺跡でも発見がありますので舟は間違いありませんね。東北地方へもおそらく舟で運ばれたのでしょう。陸路での運搬も考えられますが、おそらく海と川を伝って広まったと考えられます」と教えてくれました。
しかし、これまで発見された縄文時代の舟は、操縦性の悪そうな丸木舟ばかりです。「双胴船かアウトリガーを付ければ可能だったかもしれませんが、帆船でないと沖に出て対馬海流にのるのは難しいように感じます」と話すのは、糸魚川から青森県三内丸山遺跡までシーカヤックで実験航海を行なった山田修さん。「木材は役目を終えても他に利用できるので、大きな船の痕跡は今後も発見されないかもしれません。けれど、未解明だからこそ想像が膨らんでワクワクします」と目を輝かせます。
古墳時代の6世紀になると糸魚川では翡翠の生産が途絶えてしまい、その後翡翠の産地であることすらなぜか忘れ去られてしまいます。糸魚川の翡翠については解明されていないことがまだ多くあり、そんなミステリアスな部分があるからこそ、今なお人々を魅了し続けているのかもしれません。
※産地同定・・・分析により産地を特定すること
糸魚川市・大角地(おがくち)遺跡で発見された世界最古の翡翠製の敲石(たたきいし)。硬い翡翠はハンマーのように石を割り石斧を作る道具としても使われた/長者ケ原考古館 展示
掲載日:2022/12/5
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