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file-159 北前船の寄港地・寺泊と出雲崎今昔物語(前編)

  

船絵馬は知っている/寺泊


 新潟県の長い海岸線のほぼ中央にあり、江戸から明治時代に北前船の寄港地としてにぎわった寺泊。海は遠浅で、入江も川港もない町が、寄港地として選ばれ栄えた歴史を探ります。

ハンデを乗り越え、ライバル湊に勝った

寺泊が選ばれた理由

昔の湊

西からの強風を防ぐために石積みの突堤を築き、北前船などはその内側で滞在。荷物を運搬する小さな船が、海岸と行き来しながら荷物や人を運んだ/柳下さん所有資料

柳下さん

市民グループ「寺泊古文書に親しむ会」の顧問も務める柳下さん。地域の人たちに講演を行い、寺泊と北前船のつながりを伝えている。

 寺泊は、江戸時代の中頃から明治時代初めにかけて大阪と北海道を行き来した北前船の寄港地として栄えました。その一番の理由は、北前船が求める米が豊富に入手できたからです。米商人が買い付けた米が、信濃川や中之口川、西川を経て寺泊に集まり、江戸時代の文化・文政期には年間10万俵が出荷されたという記録も残っています。
「とはいえ、ここは良港ではありませんでした」というのは、元寺泊町(現長岡市)教育長で郷土史家の柳下明也さんです。接岸できる岸壁がないので、北前船は突堤の内側で出荷や入荷を待たなければなりませんでした。そのため荷物はいったん小さな船に乗せかえて岸壁との間を行き来きした後に、人馬で舟運拠点の中島村・地蔵堂町(現燕市分水地区)へ運ぶので手間や運賃がかかりました。買い取る場合も同様です。「それでも寺泊が選ばれたのは、滞在時間が短かったからです。荷揚げに携わる人々の結束や努力で作業をスピーディに行い、入港から出港までは平均で3、4日ほどでした。ライバルの新潟湊(みなと)では約10日かかるところ、寺泊では人海戦術によって滞在時間の短縮をかなえていたのです。スピードを重視する北前船にとって時間のロスは大問題ですし、さらに、沖待ちが長引けば、船乗りの滞在費が掛かって出費がかさむからです。新潟湊では遊興費もかかったかもしれませんしね」
 北前船が入港すると、海運・陸運を支える雇用が増え、人が集まる。サポート体制が厚くなれば、さらに入船数が増えるという相乗効果で寺泊は栄え、人口は江戸時代・元禄末期の2680人あまりから明治初めの6300人あまりと約2.3倍に増え、海と山に挟まれた小さな町は活気にあふれていました。

 

北前船による繁栄と運航の厳しさを伝える船絵馬

白山媛 収蔵庫

白山媛神社の別棟の収蔵庫に保管されている52枚の船絵馬。江戸から明治時代にかけて奉納され、国の重要有形民俗文化財に指定されている。

関川さん

「寺には奉納された船絵馬が3枚残っており、本堂隣の妙見堂に保管されています。妙見堂は、江戸時代の終わりに建てられたと伝わっています」/関川さん

 当時の寺泊の繁栄を今に伝えてくれるのは、船絵馬です。北前船の船主や船頭が航行の安全を祈願して持船を絵師に描かせ、地元や寄港地の神社や寺に奉納するものです。風をはらんで帆走する堂々たる姿が画面いっぱいに描かれ、船名や帆印、奉納年も添えられているので、美しさを伝えるだけでなく、歴史の資料としての価値も持っています。
 100段ほど続く石段を上ってたどりつく白山媛(しらやまひめ)神社は、海運との結びつきが深い、加賀の白山比咩(しらやまひめ)神社を分霊して創建された寺泊の総鎮守。ここに、安永3年(1774)から明治22年(1889)に描かれた52枚の船絵馬が奉納されています。この115年間こそ北前船が活躍した時代であり、見比べていくと、時代に応じて船の造形や絵の構図が変わっていくことがわかります。これらの絵馬は昭和45年(1970)に国の重要有形民俗文化財に指定され、収蔵庫で保管されています。
 曹洞宗・円福寺にも3枚の船絵馬が奉納されていますが、その中の1枚が全国でも珍しい「遭難絵馬」です。暴風雨に遭いながら無事に帰ってこられたことを神仏に感謝して奉納されたもので、一般的な船絵馬とは構図も趣も大きく異なります。画面の半分を占める荒波に翻弄される金子金運丸。半分帆を降ろしているのは荒天時の対策、船首で手を合わせているのは、無事を祈っているのか、神仏の加護で救われたことを感謝している瞬間なのか―26代方丈(※)の関川光一さんによると、「幕末から明治にかけて奉納されたものだと言われています。北前船や漁業に関わる人は信心深く、神仏への感謝を示そうとしてこういう絵馬を奉納したのでしょう。当時の航行は危険と隣り合わせですから」。船絵馬は、時代を越えて北前船の繁栄と船の運行の厳しさを今に伝える手がかりのひとつです。
※方丈・・・曹洞宗にて寺の長を務める僧のこと

 

円福寺 遭難絵馬

円福寺に奉納された「遭難絵馬」。八人乗りの金子金運丸が嵐に遭いながら、神仏の加護により救われたと信じて奉納された。

 

大河津分水が風景を変えた

白山媛 絵馬

船絵馬に描かれる背景画には時代によって流行があり、日の出に島影の背景は、北前船が往来した後半期に主流を占めた構図とされる/白山媛神社所蔵

白山媛 絵馬

明治時代の半ばになると北前船にも蒸気汽船が登場し、奉納された船絵馬にも描かれている/白山媛神社所蔵

白山媛 船つなぎ石

白山媛神社の船絵馬収蔵庫の脇には、寺泊に入港した船を係留していた「船つなぎ石」も残されている。

 寺泊は海の町です。北前船などを相手に集荷の管理や商品調達など幅広い商業活動を行う船問屋、小型の船を所有して物資運送を行う廻船(かいせん)業者、さらに漁業に従事する人たちも多く暮らしていました。その中には、仕事に便利なように海近くに居を構える人も少なくありませんでした。「かつて冬の荒天時には波が家の中にまで押し寄せ、家を崩す『波崩れ』が起きました」と柳下さん。町中には波の被害を防ぐための石組みの塀が当時のまま残っている家がありますが、現在では海岸線からずいぶん離れています。「寺泊では、北前船が往来していた時代と現在で海岸線の位置が大きく変わっています。現在海沿いを走る国道の一本山側を走る旧道沿い付近にかつての海岸線がありました」。信濃川の氾濫を防ぐために大正11年(1922)に完成した巨大な人工水路、大河津分水(おおこうづぶんすい)により大量の土砂が運ばれ、海岸線が大きく変わったのです。600mほどの砂浜が出現し、海水浴場や公園として利用されるようになりました。「ですから、現在の寺泊港は当時の様子とは違っています。北前船が往来していた昔をしのぶには、想像力をたくましくしないといけませんね」
 このように大正から昭和にかけて北前船が寄港した寺泊の港の風景は変わりました。けれど、寺社に残された船絵馬が、今も、当時の繁栄と人々の願いを伝え続けています。
 後編では、もう一つの寄港地、出雲崎がいかにして北前船の寄港地となり、栄えたかをたどります。

 

掲載日:2022/12/26

 

■ 取材協力
元寺泊町教育長・寺泊郷土史家/柳下明也さん

円福寺26代方丈/関川光一さん
※円福寺の見学希望は事前に電話(円福寺TEL0258-75-2467)にて要予約。

白山媛神社
※船絵馬収蔵庫は、令和4年11月現在公開休止中です。公開再開についての問合せは、氏子総代 住吉屋0258-75-3228(担当:三上さん)まで。

 

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後編 → file-159 北前船の寄港地・寺泊と出雲崎今昔物語(後編)
金銀が北前船を呼んだ/出雲崎

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