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file-17 直江兼続の謎 その2 ~上杉家の関ヶ原~ 謎その2.石田三成との密約はあったのか



~上杉家の関ヶ原~ 謎その2.石田三成との密約はあったのか


 家康との全面戦争かとみられた会津征伐は、石田三成の挙兵によって幻に終わります。総指揮に立った直江兼続は、何を求めて立ったのでしょうか。
 

 ― 家康を挟み撃ちにして天下に覇を?

 

 若くして抜擢され豊臣秀吉に仕えた石田三成、上杉景勝と鉄の結束を生涯続けた直江兼続。同い年で立場も似ていた二人は、上杉景勝が初上洛した天正14(1586)年、26歳の時から交友を深めました。亡くなった豊臣秀吉との約束を破り専横する家康に対し、「東と西から兵を挙げて攻め滅ぼす」二人はそのような密約を交わしたと伝えられています。それが真実だとしたら、その時直江兼続は何を望んだのでしょうか。

 石田三成と直江兼続との密謀は、江戸時代の始めに成立した軍記物に描かれています。「続武者物語」(1680年)には、三成が兼続に宛てた手紙の内容が載っており、「東国太平記」(1680年)には佐和山城(現在の滋賀県)で深夜の密会の様子が描かれています。1967年に編纂された会津若松史でもそうした見方をしており、家康打倒のために会津の領国経営があったと記しています。

 しかし実際の戦いは、挟み撃ちとはなりませんでした。家康は大軍を率いて大坂から七月初旬に江戸城へ入城し、ゆっくりと歩みを進めました。上杉は会津の入り口である白河に防塁を築いて待ち構える作戦でした。三成は、五大老の一人である毛利輝元を大将に挙兵の準備にあたり、家康の軍勢がここに到着する以前の栃木県小山市付近を進軍しているところで挙兵に及びます。三成挙兵の知らせを受けて家康軍は引き返し、上杉軍はこれを追うことなく伊達・最上連合軍と山形方面で戦争を始めました。総大将は兼続でした。

 引き返す家康軍を上杉軍が追っていれば、その後の状況は違っていたかも知れない。なぜ追わなかったのか、そもそも追う意図はあったのか。そうした謎が、上杉家の行動にはつきまといます。

 現在では、石田三成と直江兼続の間に密謀はなかったとする見方も多いのですが、あったにしてもなかったにしても、明確な証拠となるものは出ていません。

 関ヶ原合戦前夜、上杉家中の城は会津若松城と未完の神指城、米沢城、鶴ヶ岡城。 大坂城から上杉討伐に向かって来た徳川勢に対し、上杉家は白川口に集結し臨戦態勢を敷きました。

 上杉家は石田光成(佐和山城)、中国の毛利輝元ら西軍と徳川家を挟み撃ちにする作戦だったと伝えられますが、実際には 最上義光(山形城)、伊達政宗(岩出山城)が徳川方についており、上杉家も敵に包囲され容易に兵を進められる状況ではありませんでした。



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