file-19 新潟芸妓と料亭文化 ~新潟美人の始まり

新潟美人の始まり

 ― 柳都の花

 「新潟美人」という言葉は昔から知られており、肌のきめが細かく色白な女性が多いからと言われます。しかし、もとは新潟芸妓(にいがたげいぎ)をそう呼んだのが始まりとされています。

 新潟芸妓の起こりは江戸時代。昭和9年発行の新潟市史によれば天保年間(1830〜1843年)に入って、唄や踊りの芸でお座敷に出る女性が職業として確立されたといわれます。信濃川と阿賀野川を利用し、遠くは会津(福島県)まで物資を輸送できる舟運網を持った新潟湊は北前船の最大の寄港地として栄え、商人や港で働く人たちでにぎわった町でした。例年3月18日に行われていた白山神社の祭礼では、芸妓衆が華美を競うように列をなして参詣するのが恒例となっており、長岡藩から何度戒めが出されてもやめることはなかったそうです。当時の新潟町は長岡藩領でしたが、1843年には天領となって幕末を迎えます。

 新潟町は、現在の新潟市中央区のほんの一部です。市の中心街の一つである「古町」と呼ばれる辺りです。天領だった当時は、NEXT21という複合ビルが建っている場所に奉行所がありました。信濃川の流量が今よりはるかに多く、町の中には網の目のように堀が巡り、古町通りの起点となっていた白山神社も信濃川と堀に囲まれていました。両側に柳の並木が植えられている堀が多く、別名「柳都(りゅうと)」と呼ばれるのはこのためです。

 この柳の下を歩く芸妓の姿が新潟の風物詩でした。西堀、東堀など堀のつく地名は、かつて堀のあった名残です。これらの堀は、大河津分水ができて信濃川の流量が減って水位が下がり悪臭の元になっていたこと、自動車輸送が主流になってきたことなどから戦後に埋め立てられました。
 
* 芸妓(げいぎ) とは
 
 

 ― おもてなしは文化

 最盛期は400人を超えたといわれる新潟芸妓の活躍の場は料亭でした。新潟市には江戸時代に創業し、現在も老舗料亭として格式を誇る二つの料亭があります。一つは元禄年間(1688~1703年)創業といわれる行形亭(いきなりや)。もう一つは幕末近い弘化3(1846)年創業の鍋茶屋(なべぢゃや)。いずれも建物は国の有形文化財に登録されています。行形亭は広大な庭園に飼っていた鶴と、庭で行われる夏の流し素麺が名物。明治に入って隣の刑務所に煉瓦の塀ができ、塀と行形亭に挟まれた通りが「地獄極楽小路」と呼ばれていました。一方鍋茶屋はすっぽん鍋が創業からの名物で、店の前を通る小路は「鍋茶屋通り」と呼ばれています。どちらも店が通りの名と結びつくほどの老舗で、多くの芸妓衆がこのお座敷で人々をもてなしてきました。

 芸妓は芸があってこそです。かつての新潟芸妓は、幼い頃に置屋に入り、見習いをしながら踊りや三味線、唄を学びました。新潟芸妓の踊りは「市山流」と呼ばれる日本舞踊の流派の踊りです。市山流は、日本舞踊の家元としては珍しく地方都市である新潟市に本拠を構えています。元は大坂で創始されたのですが、三代目市山七十郎(いちやましちじゅうろう)が幕末近くに新潟に本拠を移したといわれます。現在でも踊りのほか、唄や三味線も新潟市内に師匠がいて、芸妓衆に稽古をつけます。おもてなし文化は芸妓衆と芸の師匠、料亭があって初めて成り立つものなのです。

file-19 新潟芸妓と料亭文化 ~人々を魅了した新潟芸妓

人々を魅了した新潟芸妓

 ― 芸妓の中で育まれた言葉

 
新潟芸妓

 

鍋茶屋でお客様をお迎えする新潟芸妓。彼女たちはおもてなしと日々のお稽古を仕事とする柳都振興株式会社の社員でもある。

 

 

 小説家の丹羽文雄(にわふみお・1904-2005)の「妻をめとらば新潟女」というエッセイには、菊池寛、直木三十五、芥川龍之介ら文壇の重鎮が、新潟を訪れ料亭の女将に大いに世話になったという話を披露しています。競走馬を所有していた菊池寛(きくちかん・1888-1948)は、新潟競馬を訪れるたびに料亭で楽しんだそうです。丹羽文雄は同エッセイの中で芸妓言葉の心地よさに触れていますが、芸妓衆によれば「本当の地元言葉では遠方からのお客様には聞き取れないから、方言を織り交ぜながら誰にでも分かるようにゆっくり発音し、しかも柔和にしたのが芸妓衆独特の言葉」なのだそうです。昔から遠方からのお客様が多かったため、旅の情緒を感じてもらうためのおもてなしの一端です。お客様の呼び方も例えば、

  男性客…あにさま
  女性客…あねさま

 と呼び、そのお客さんの子供たちがお座敷を利用するようになると

  男性客…おとっつぁま
  女性客…おっかさま

 に変化して、子供の代があにさま、あねさまになります。さらに孫がお座敷を利用するようになると、祖父母、父母はそのままで孫を、

  男性客…ちんこあにさま
  女性客…ちんこあねさま

 と呼ぶのだそうです。

 新潟の酒蔵を舞台にした宮尾登美子の小説「蔵」には新潟方言が使われていますが、これは料亭で聞いた言葉を参考にしたそうです。

 ― 新潟芸妓から生まれた有名人

 

 東京音頭を空前の大ヒットにした小唄勝太郎(こうたかつたろう・1904-1974)は、新潟町とは信濃川を挟んで向き合う沼垂町(新潟市)の料亭で育てられ、新潟町の師匠の元へ通い芸を磨きました。その歌声の美しさは評判で、のちに東京で芸者をしながら唄の修行をして、レコード会社と契約。数々のヒット曲を吹き込みました。当時同じように美声で知られた浅草〆香(あさくさしめか・1911-1997)も新潟芸妓です。

 また大正時代に松竹の大スターとして活躍した川田芳子(かわだよしこ・1895-1970)は、市山流宗家に生まれ東京へ出て新橋の芸者となった後に舞台で活躍。その美貌を買われて映画スターとなりました。彼女たちは、自分たちの名声はもちろんのこと、新潟芸妓の芸の高さと美しさを全国に知らしめました。

file-19 新潟芸妓と料亭文化 ~芸妓を絶やすな

芸妓を絶やすな

 
中野進氏

 

「新潟を訪れた人が見るべきもの、訪れる価値のあるものは料亭文化じゃないでしょうか。これがなくなったら新潟は何の変哲もないただの地方都市になってしまう」と話す中野進氏。

 

 

 かつては全国各地にいた芸妓ですが、踊りと唄、三味線の諸芸が揃った料亭文化は全国的に衰退しています。そのような中、新潟には今もしっかり続いています。しかし新潟芸妓も、かつて大きな危機を迎えました。戦後になると幼い頃から置屋で修業するスタイルでは芸妓のなり手がなくなり、芸妓衆の高齢化が進みます。このままでは新潟の料亭文化が絶えてしまうと危惧した産業界が中心となって、1987年に(株)柳都振興を設立。会社員として芸妓を育成するシステムで継続を図りました。

 

 柳都振興(株)立ち上げに尽力した中野進社長(現(株)シルバーホテル取締役相談役、当時新潟商工会議所副会頭・新潟交通(株)社長)に、その思いを伺いました
 

 

 ― 芸妓のいない料亭は役者のいないオペラハウス

 若い頃はね、「いつか偉くなって芸妓を呼べるようになりたいもんだ」と思ってがんばったんですよ。上司の鞄持ちで料亭について行くと別室で待たされるんです。それぞれの企業の課長クラスが交流する場でもあったし、料亭文化の一端に触れる大事な場所でもあったんです。新潟の企業人は料亭の小部屋で育ったものでした。

 新潟は港町で、人とモノと情報が行き交う場所。いろいろな人の間を取り持つのが料亭文化なんですよ。料亭という場、料理、酒、もちろん一番大事なのがお客様との間を取り持つ芸妓です。先だって新潟市でG8労働大臣会合がありましたが、各国のリーダーを感動させたのは、米王国の象徴である北方文化博物館(特集バックナンバーfile-4参照)と、料亭での芸妓衆のおもてなしでした。私は茶の湯と並んで料亭文化は日本の文化の粋だと思っています。

 柳都振興を立ち上げた21年前は、一番若い芸妓が36—37歳になっていたんです。彼女たちは10代で芸妓になるから、すでに20年くらいは芸妓のなり手が出てこなかったということです。これを放置しては何年か後には芸妓が絶えて、料亭もだめになる。これは交流によって街が成り立ってきた新潟にとっては、芸妓、料亭に限らず産業界全体の問題でもあります。それで考えたのが置屋の株式会社化。当時私は新潟交通の経営に関与していましたから、いわば観光も生業の一つで会社との繋がりもなくはなかった。それで皆に声をかけ、資本金の7,000万円は産業界からの出資ですぐに集まりましたね。

 後に他の県でもその方式を参考にして地域の料亭文化を守ろうとしたのですが、失敗に終わったところもあるようです。よそが失敗して新潟がうまくいったのは、三位一体の協力の賜物だと思います。料亭に世話になってきた財界と、料亭の主たちと、それまで自分の才覚と腕だけでがんばってきた現役の芸妓、姐さんたち。この3者が料亭文化を未来につないでいこうと協力できたところが、うまくいった最大の要因です。特に姐さんたちは、大きな心で柳都振興の新入社員(若い芸妓)を育ててくれました。お座敷というのは、若い子がいればそれでいいというものではないんですね。姐さんたちが場の雰囲気を作るんです。彼女たちが若手をもり立てて励ましてやらなければ柳都振興は育たなかった。

 会社は今21年目。かつては全国にたくさんあった料亭文化が消え去る中で、新潟は幸い踊り、唄、三味線、太鼓の諸芸も師匠がいて芸妓衆は新潟にいながら芸を磨くことができます。お酌をするだけでは文化とはいえませんからね。新潟の料亭文化は芸妓の芸がしっかりしているんです。「新潟はどんな街?」と訊かれた時に、芸妓のおもてなしが楽しめる街と、これから先も答えていきたいですね。

 料亭文化に触れるには 

 新潟市では芸妓は料亭を通して呼ぶ習わしです。料亭に予約を入れる際に芸妓を頼んで下さい。花代の目安は1人2時間で2万円程度です。時間の長短は可能です。また、例年冬と夏に新潟市で開催される「にいがた食の陣」では期間中、料亭の味と芸妓の舞が気軽に楽しめるコースが設定されています。

  新潟三業協同組合

 新潟を訪れる人に、湊町にいがたならではのおもてなしを楽しんでもらおうという取組は、新潟商工会議所、新潟市などを中心に始まっています。不定期で新潟芸妓が参加するイベントなどもあるので参考にして下さい。

   新潟観光コンベンション協会

写真協力:新潟商工会議所
協力:みなとぴあ(新潟市歴史博物館)

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