file-20 スキー王国にいがた ~スキー発祥の地の2人

スキー発祥の地の2人

 明治44年、雪国に1人の外国人将校が訪れました。「メテレ スキー!」(スキーをはけ)。これが、日本で始めてスキー技術が導入されたかけ声となりました。上越市の歩兵第58連隊の営庭で、日本のスキー文化が産声を上げたのです。スキー発祥の地となったことで、雪国新潟は「スキー王国」と呼ばれるまでになりました。

 ― スキーを教えに来たわけではなかったレルヒ少佐

講習風景

当時高田で行われたスキー講習時に撮影された写真。

長岡外史

風変わりに伸ばしたひげでも有名な長岡外史中将

 オーストリア=ハンガリー帝国の軍人 レルヒ少佐 。彼が日本にスキー技術を初めて伝えた人物です。しかしスキーが市民の間にまで定着するには、もう1人の人物が必要でした。当時上越市に駐留していた第13師団長の 長岡外史 中将です。2人の出会いが、後のスキー王国新潟の礎を築いたのです。

 レルヒ少佐が横浜港に降り立ったのは明治43(1910)年11月の末。派遣目的は日本軍の視察でした。軍隊創設から間もない明治28(1895)年の日清戦争、同38(1905)年の日露戦争と立て続けに勝利し、大陸に勢力を伸ばしていた日本の軍事力の、急成長の秘密を知るためです。しかし、彼はこの時2組のスキーを持ち込んでいました。彼は陸軍砲兵工廠に同じものを作るように指示します。高田歩兵第58連隊に配属され、明けて正月早々の1月5日、レルヒ少佐は高田に到着。一足遅れで砲兵工廠が作った10台のスキーも高田に到着しました。

 一方高田では前年の暮れに、陸軍省から第13師団司令部に2組のスキーが送られていました。当時スウェーデン公使だった杉村虎一氏が本国に送っていたものです。明治35(1902)年に起きた 八甲田雪中行軍遭難 以降、陸軍では冬の山岳地での行軍の装備について高い関心を持っていました。師団長の長岡中将は司令部に将校を呼び、レルヒ少佐到着前にこれでスキー術を覚えるように命令します。

 その場に呼ばれていた鶴見冝信大尉の回想(「昭和6年・スキー年鑑第5号」日本スキー連盟)から抜粋します。

 「そこにあるのがスキーだ」と言われた。予はこれを見ると長い狭い板べらだ。何をするものか更に見当がつかない。恐る恐るこれを師団長に聞くと「これは雪の上を滑って歩くものだ」と言われた。…「来春早々にレルヒという墺国の少佐が来てスキー術を教えるというから、日本には以前からスキーがあったのだと、あべこべにレルヒに教えてやるという位までに研究せよ」と例の虚勢振りを発揮しようとした。
…冷たい雪の上を汗みどろになって、一チー二をやったがなかなか滑るどころではない。…もはやレルヒ少佐の到着するのも間近となり絶体絶命、仕方ないから師団長に顔を見せぬようになるべく遠くの方にいて、その日暮らしの練習をやって、レルヒ少佐の到着を待つ事にした。

 ― メテレ スキー!

 1月の12日、鶴見大尉を含んだ14名の将校が選ばれ、営庭に集合します。レルヒ少佐は挨拶を済ませたあと「メテレスキー!」と号令をかけました。「スキーをはけ」と通訳の将校が後を追いましたが、従うことはできませんでした。誰もスキーのはき方を知らなかったのです。着脱法を教えたレルヒ少佐は、その場で「メテレスキー!」「オテレスキー!」(スキーをとれ)を10数回繰り返したそうです。

 レルヒ少佐が日本に導入したスキー術は、山岳向きのオーストリア式と呼ばれるもので、1本の長い杖を使います。これを考案したのは、アルペンスキーの開祖といわれるマティアス・ツダルスキー。レルヒ少佐はこのツダルスキーから直接指導を受けた、いわば弟子でした。

将校婦人

当時の高田では将校婦人たちの間にもスキーが広められた。

 「スキー専習将校」としてレルヒ少佐の弟子となった14名は、スキー術をマスターすると地元の警察官や郵便局員などへの指導にあたります。軍の枠を越えたこうした取り組みは、長岡中将の人柄によるところが大きかったといえます。長岡中将自身もスキーを覚えると、自ら将校婦人を集めてスキーを勧めたといわれます。レルヒ少佐のスキー訓練は金谷山のみならず付近一帯で行われていたので、その姿を目にした人々の関心も高く、瞬く間に広がりました

file-20 スキー王国にいがた ~高田に開花したスキーの産業と文化

高田に開花したスキーの産業と文化

 金谷山で陸軍に伝えられたスキー術は多くの市民に親しまれ、各地にはスキー製造所ができます。高田の人々は「スキー汁」をすすりながらスキーに興じるだけでなく、これを全国に広げてゆくことを使命としました。

 ― 高田スキー倶楽部の発足

 
レルヒ少佐の像

 

高田の町を見下ろす金谷山の丘には一本杖スキーをはいた姿のレルヒ少佐の像が建っている。

 
 

スキー具の広告

 

大正の頃のスキー具の広告。

 

 

 レルヒ少佐の最初の指導から、わずか1ヶ月後の明治44(1911)年2月、高田(上越市)で高田スキー倶楽部が発足します。その目的は全国にスキーを宣伝し、普及させること。軍民挙げた取り組みが始まりました。

 

 スキーが普及し始めると、必要なのはスキー具です。高田では木工を扱う大工・家具職人らがケヤキ材を使ってスキー板を作り、金具は隣の直江津(上越市)で製造されました。そしてさらに帽子や手袋などの防寒具、靴なども作られるようになります。これらはスキーの普及に伴って地域の一大産業に発展しました。

 

 金谷山近くでは身体を温める「 スキー汁 」が名物になり、全国からスキーを習うために人々が訪れます。その中には学習院大学や東京帝国大学、早稲田大学の学生たちもいました。高田スキー倶楽部は後に越信スキー倶楽部、日本スキー倶楽部と名を変え、越信スキー倶楽部の発会式には乃木希典将軍も招かれました。

 レルヒ少佐は明治45(1912)年1月に高田を去って旭川へ向かい、翌年の大正2(1913)年1月には長岡中将も京都の第16師団に転任しました。しかしレルヒ少佐のスキー講習を受けた人々は100人を越え、その弟子たちがさらに多くの人にスキーを教え、高田はすでに国内におけるスキーのメッカになっていました。

 大正13(1924)年に初心者向けのテキストとして出版された「最新スキーの智識」は、出版社は東京ですが、著者は金谷山近くに生まれた高橋進氏です。当時のスキーはリフトで上がって斜面を滑るようなものではなかったので、斜面の登り方、歩き方が解説されています。

 昭和3(1928)年、スイスのサンモリッツで開かれた第2回冬季オリンピックに日本は選手団を初めて派遣します。監督は長岡出身の広田戸七郎。選手には距離種目で高田出身の矢沢武雄(早大)、永田実(早大)の2人が含まれています。派遣された7名のうち、3名が新潟県出身者でした。

 戦後の昭和25(1950)年には、運輸省(当時)認定第1号のリフトが赤倉に建設されます。新潟県を訪れるスキー客は、東京に近く新幹線とゲレンデが直結している湯沢方面などを中心に伸び、平成4(1992)年に1,597万人(うち県外客1,267万人)を数えました。

 新潟県におけるスキー製造は、札幌オリンピック以降の昭和46(1971)年にピークを迎えます。生産台数は210万台、生産額は86億円に達しました。海外への輸出も盛んで、日本からの輸出の4割を県内企業が担っていました。しかし小規模事業者が多かったこと、素材の変化に対応できなかったことなどから、年々減少を続けました。

 日本のスキー人口は平成5(1993)年から減少傾向に入り、現在はスノーボード人口と合わせてもピーク時の3/4に達しません。しかしその一方で、従来のスキーの枠を広げ山の景色と自然を楽しむスキーのスタイルは着実に広がっています。レルヒ少佐が高田にもたらしたスキーは、形を変えながら今も日本に深く根付いています。

 金谷山では例年2月にレルヒ祭が開催され、一本杖スキーの体験やスキー汁を味わうことができます。今もレルヒ少佐との出会いを大切に、一本杖スキーの技術が伝承されています。
 

 

file-20 スキー王国にいがた ~スキー王国新潟は勝つのが使命

スキー王国新潟は勝つのが使命

 妙高高原のスキー一家に生まれ育ち、クロスカントリースキーヤーとして94年リレハンメルオリンピックから長野、ソルトレイク、トリノと4回の冬季オリンピックに出場した横山寿美子さん。現在は選手生活の傍ら若手の指導にもあたっている横山さんに、スキーの魅力と新潟への思いを伺いました。

 
長野国体スキーリレー成年女子

 

昨年の長野国体スキーリレー成年女子で優勝を決めた新潟勢。左端が横山さん。

 
 

横山さん

 

競技中の横山さん。

 
 

横山さん

 

スキーヤーが集まるユースホステルでもある自宅で語る横山さん。

 
 

横山さん

 

スキー一家の横山家は、アクロバットスキーヤーで池ノ平に引っ越したおじいさんから始まったという。家には横山家の歴戦のスキーなどと一緒におじいさんの写真が飾られている。
 

 

 —最初にスキーをはいたのはいつごろですか?

 2歳くらいだと思います。初めて大会に出たのが小学校2年生の時。父が地元で行われていた学年別の大会に勝手にエントリーをして、無理やり出場させられたのですが、その時2位になって賞品をもらえたんです。3月生まれでスポーツも勉強もどっちかといえば周囲から遅れ気味でしたから、うれしくて。
 

 —その時もらった賞品は覚えていますか?

 はっきり覚えています。赤と紺色のジャンパー!あの時のうれしさがクロスカントリースキーの始まりでしたね。それで小学校3年からスキー部に入って、中学も高校もスキー部。自然な流れでずっときました。
 

 —横山さんはクロスカントリーですが、アルペンとか他のスキー競技には関心はなかったんですか?

 うちはクロスカントリー一家で、父も母も、父の姉・妹も、皆クロスカントリースキーの選手で国体や全日本選手権などに出場していました。姉ももちろん選手で私の目標でしたから、他に関心はなかったです。続けて来られたのは練習が楽しかったというのが大きかったと思います。小学校の先生は初心者の方も多かったのですが、うちの両親を始め地元の父兄が一生懸命なんです。大人が協力し合って楽しく練習させよう、スキーを好きにしてやろうと、そんな環境を与えてもらいました。本当に楽しくスキーに親しんできました。
 

 —目標だったお姉さんの存在も大きかったですか?

 そうですね。姉には中学2年の全中(全国中学校スキー大会)で初めて勝って。今はオーストリアに嫁いでいますけど、選手を辞めてから4年ほど私のサポートをしてくれていました。大会で海外を遠征すると、スキーを20台くらい持ち歩くんです。全部手入れをしなくちゃいけないし、雪質や環境に合わせてどの板を選ぶかということにとても神経を使うんです。姉がそれを研究しサポートしてくれたことがとてもプラスになりました。
 

 —ワックスも天候や雪質によって使い分けるんでしょうか

 そうです。例えばクロスカントリースキーにはスケーティングとクラシカルと2つの走法があって、クラシカルの場合は滑りを良くするためのワックスと滑り止めのワックスの両方を1枚の板に塗るんです。下りは滑るように、そして登りではまっすぐに上れるようにするためです。
 

 —競技が始まる前の準備が大変なんですね。

 自分でやる場合もありますけど、そうなると競技に向けたコンディションづくりに響きますよね。国際試合では「ワックスマン」と呼ばれる、ワックスの選定と塗るための専門家がチームに同行します。何十台もスキー板を並べて、ワックスを試しては剥がすということをやるんです。しかし国内のレースではそこまでの環境を求める事はありません。それに小学校や中学校・高校の大会では、毎回ではないですが、必要な時には各学校のスキー部の先生や父兄の方々が、子供たちのためにスキーの手入れをしてくれることもあります。「子供のために」と「選手のために」という意味では皆一生懸命なんですよ。
 

 —そうやってずっと続けてこられたクロスカントリーの魅力って、何でしょう。

 よく聞かれますが、だいご味は吹雪の翌日の雪原の美しさですね。普段の練習は近くの池の平白樺クロスカントリースキーコースを使っているんですが、クロスカントリースキーはどこへでも行ける。まあ、大量に降ると腰までもぐってしまって無理ですけど、20センチくらいの新雪なら林の中に入るのも気持ちいいですよ。私が中学生の頃から、父がスキーランニングセミナーというのを始めたのですけど、参加している人たちは自然の楽しみ方をとてもよく知っている。ただ「滑る」というのではなく、自然を楽しむスキーの良さを、私も伝えていきたいと思います。
 

—競技者としては?

 競り合うこと。負けたくないと思うことかな。私が中学生の頃は妙高高原町と妙高村が合併する前で、町立と村立の2つの「妙高中学校」があったんですね。お互い「あっちに負けるか!」というのが本人たちにも親にもあって、だから強くなれた。新井高校時代も全国大会で成績を残せる先輩ばかりで、ずっと周囲にライバルがいました。層が厚いというのは、強くなるためにも楽しく練習をするためにもとても大事なことだと思います。最近はスキー人口が減ってきて、新潟県内でも北海道でもスキー部でリレー(女子は3人、男子は4人)が組めないとか、新潟県内の中学・高校のジャンプ選手が10人くらいしかいなくなったという話を聞きます。また、『スキー』と言う分野では新潟県勢は成績だけ見れば相変わらず強いですけど、個人の能力という点では心配な部分もあります。スキー人口を増やすためにも、個々の能力を上げるためにも、何かしなければという気持ちになります。
 

 —つまりどういうことでしょう?

 クロスカントリースキーの場合ですが、スキーの技術自体は悪くないのでしょうけど、例えば下りのカーブでターンの技術を使うべきところで簡単に制動をかけて減速してしまう。状況への対応力が弱いというのでしょうか。小さいうちは競技そのものではなく、遊びながらスキーと親しむことも大事なんです。その中で状況に応じた判断力や、様々な筋力が養われる。そして本人たちが「楽しい」と思えるよう、大人が環境を整えてあげることも大事です。
 

 —練習は観に行ったりするんですか?

 そうですね。母校のスキー部の練習に行ったり、県合宿に参加してアドバイスをすることが近年増えました。また国体の場合は県内の高校生から大学生・社会人まで集まってきているから私も楽しい。指導できる機会があれば私の知っていることはすべて伝えたいと思っています。新潟は強くなければなりませんから。
 

 —スキー発祥の地という誇りですか?

 上越がスキー発祥の地だなんて、今の高校生は知らないんじゃないかな?私は「スキー発祥の地」というのではなく、新潟は「スキー王国」だから絶対負けちゃいけないんだって、思っていました。国体ではその強さを知らしめて「新潟には勝てないなぁ」と他県勢に思わせたいと。だから自分の競技が終わっても、応援に声を枯らしていましたね。私はずっと、周囲に恵まれてこれまでやってきたという思いがあるので、その恩返しはしていきたいです。

file-20 スキー王国にいがた ~リンク集

リンク集

 トキめき新潟国体
 
 日本スキー発祥記念館
  上越市の金谷山にある記念館は、日本におけるスキーの歴史やレルヒ少佐の
 人柄をしのぶことができます。

 Sumikoのクロスカントリースキー日記
  横山寿美子さんのブログです。

協力・写真提供:上越市

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