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file-20 スキー王国にいがた ~高田に開花したスキーの産業と文化


高田に開花したスキーの産業と文化

 金谷山で陸軍に伝えられたスキー術は多くの市民に親しまれ、各地にはスキー製造所ができます。高田の人々は「スキー汁」をすすりながらスキーに興じるだけでなく、これを全国に広げてゆくことを使命としました。


 ― 高田スキー倶楽部の発足

 
レルヒ少佐の像
 

高田の町を見下ろす金谷山の丘には一本杖スキーをはいた姿のレルヒ少佐の像が建っている。

 
 
スキー具の広告
 

大正の頃のスキー具の広告。

 
 

 レルヒ少佐の最初の指導から、わずか1ヶ月後の明治44(1911)年2月、高田(上越市)で高田スキー倶楽部が発足します。その目的は全国にスキーを宣伝し、普及させること。軍民挙げた取り組みが始まりました。

 

 スキーが普及し始めると、必要なのはスキー具です。高田では木工を扱う大工・家具職人らがケヤキ材を使ってスキー板を作り、金具は隣の直江津(上越市)で製造されました。そしてさらに帽子や手袋などの防寒具、靴なども作られるようになります。これらはスキーの普及に伴って地域の一大産業に発展しました。

 

 金谷山近くでは身体を温める「スキー汁」が名物になり、全国からスキーを習うために人々が訪れます。その中には学習院大学や東京帝国大学、早稲田大学の学生たちもいました。高田スキー倶楽部は後に越信スキー倶楽部、日本スキー倶楽部と名を変え、越信スキー倶楽部の発会式には乃木希典将軍も招かれました。

 レルヒ少佐は明治45(1912)年1月に高田を去って旭川へ向かい、翌年の大正2(1913)年1月には長岡中将も京都の第16師団に転任しました。しかしレルヒ少佐のスキー講習を受けた人々は100人を越え、その弟子たちがさらに多くの人にスキーを教え、高田はすでに国内におけるスキーのメッカになっていました。

 大正13(1924)年に初心者向けのテキストとして出版された「最新スキーの智識」は、出版社は東京ですが、著者は金谷山近くに生まれた高橋進氏です。当時のスキーはリフトで上がって斜面を滑るようなものではなかったので、斜面の登り方、歩き方が解説されています。

 昭和3(1928)年、スイスのサンモリッツで開かれた第2回冬季オリンピックに日本は選手団を初めて派遣します。監督は長岡出身の広田戸七郎。選手には距離種目で高田出身の矢沢武雄(早大)、永田実(早大)の2人が含まれています。派遣された7名のうち、3名が新潟県出身者でした。

 戦後の昭和25(1950)年には、運輸省(当時)認定第1号のリフトが赤倉に建設されます。新潟県を訪れるスキー客は、東京に近く新幹線とゲレンデが直結している湯沢方面などを中心に伸び、平成4(1992)年に1,597万人(うち県外客1,267万人)を数えました。

 新潟県におけるスキー製造は、札幌オリンピック以降の昭和46(1971)年にピークを迎えます。生産台数は210万台、生産額は86億円に達しました。海外への輸出も盛んで、日本からの輸出の4割を県内企業が担っていました。しかし小規模事業者が多かったこと、素材の変化に対応できなかったことなどから、年々減少を続けました。

 日本のスキー人口は平成5(1993)年から減少傾向に入り、現在はスノーボード人口と合わせてもピーク時の3/4に達しません。しかしその一方で、従来のスキーの枠を広げ山の景色と自然を楽しむスキーのスタイルは着実に広がっています。レルヒ少佐が高田にもたらしたスキーは、形を変えながら今も日本に深く根付いています。

 金谷山では例年2月にレルヒ祭が開催され、一本杖スキーの体験やスキー汁を味わうことができます。今もレルヒ少佐との出会いを大切に、一本杖スキーの技術が伝承されています。  

 

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