file-22 観光カリスマ春日俊雄さんに聞く「山の暮らしは交流観光が生き筋」
- 「じょんのび村」と「こども自然王国」そして「かやぶきの里」で都市交流を図り、春日さんは平成15年に新潟県では初めて観光カリスマに選ばれました。こう言っては失礼ですが、高柳町は新潟県内の人でも知らない場所だったのを全国区の知名度に押し上げた。そのきっかけはなんだったのでしょうか。
昭和61(1986)年に西武池袋店で開催された「101村店」という全国の自治体が集まった物産展です。当時はまだ珍しかったですね。そこへ新潟県から高柳だけが出たんです。門出(かどいで)の和紙工房が西武百貨店に手漉(てす)き和紙を納めていて、その縁で出ないかと声をかけてもらった。農協、森林組合、商工会で話し合った時には「出ても売るモノがないがないから今回は見送りだ」という結論になったんですよ。ところが商工会の当時青年部長だった平沢文康と門出の地域おこしグループ「水曜会」の小林康生の二人ががんばって、なんとか若手だけでも出ようよと。若手中心でそれを周囲が応援するかたちで出ることになったんです。
- でも売るモノ、つまり商品化された特産品が当時はなかったんですよね?
荻ノ島の茅葺き集落の中にある自宅で話す春日さん。柏崎との合併のための住民説明会、その後の合併協議が最もつらい仕事だったという。
そう。ちょうど春だったので山菜があったのはラッキーだった。それを毎日トラックで運びました。1週間だったかな。参加している他の市町村はとっくに特産品が開発されていて、役場の人がPRを兼ねて出てきているのに、高柳は毎日山菜を運んで町民が交代でやって来るからにぎやかになって、方言も飛び交うでしょ。それがまた良かったようで、売り上げがナンバー3の中に入った。そのことがすごく自信になったんです。田舎のものがこんなに喜んでもらえるんだって。首都圏に出ていた高柳出身の人もたくさん来てくれて、喜んでいた。まさかあんな山の中から新潟代表で出てくるなんて思ってもなかったんじゃないですか?つながりができたので翌年から西武池袋店の屋上を借りて「高柳デー」というのをやりました。
- どういったものですか?それは?
高柳出身者の、地元と都市との交流会ですね。町で採れた山菜や地酒を持参して、盆踊りもやった。みんな酔っぱらってね、エレベータの中やトイレの中で酔い潰れるんですよ。そうすると館内放送で「高柳の関係者の方。○階のトイレに来て下さい」と呼ばれる。3人がかりで担いでタクシーに乗せに行くんです。医務室のベッドも全部高柳出身者。うれしかったんだと思うんです。
- 西武池袋店は出入り禁止になりませんでしたか?
いいえ、とてもよくしてもらいました。3年続けました。それが母体になって町人会ができた。
- 高柳の方では101村店以降どんな変化がありましたか?
夢正月便という、1セット1万円で産品を詰めた宅配便をやりました。101村店で作ったお客さんの名簿があったのでDMを送って、それから全国紙の新聞社のデスク宛に企画を説明して、きっと喜ばれるから記事にしてくれと頼んだんです。モノを通じた先行交流という位置づけで、役場でやりました。注文は1307セットでした。
- そんなに注文が来たら、役場では対応できなかったのでは?
最終的には叱られました。新聞に載るたび、役場の電話が鳴り続けて午前中は仕事にならない。箱詰めにしても1307個ずつ全部入れていかなきゃならないですから。実はその時に役立ったのは101村店で若手が作ったネットワークなんです。農協、婦人会、森林組合など町の各団体のね、トップじゃなくて課長の下の実働部隊で横の繋がりを作り、8団体あるから「やつがしらの会」というのを作っていた。どこへ行っても農協と商工会というのは仲が悪いものですが、夢正月便にはそれぞれの産物を一緒に詰めることができたんです。農協だけとか商工会だけでは高柳の魅力は出せなかったですね。だから101村店に出たことが、どれだけ大きかったか。
file-22 観光カリスマ春日俊雄さんに聞く「山の暮らしは交流観光が生き筋」 ~原動力は「県内ワースト1」
- 聞いているだけでも大変な労力、そして前へ進むエネルギーを感じますが、その原動力は何だったんでしょうか。
昭和60(1985)年の国勢調査です。県内の市町村で高柳が人口減少率ワースト1だった。減っているのはみんな肌で感じているんですよ。町の中で新築の家が1年に1軒しか建たない年もある。日々ひしひしと感じて、だから昭和50年代から基盤整備や産業育成に力を入れて取り組んでもきた。でもワースト1と新聞に出るわけです。ショックでした。
- そこで都市交流に舵を切った?
ヒントになったのは門出です。手漉き和紙工房には、その和紙を使っている文化人が訪ねてくるし、西武百貨店など取引先も来る。外国から習いに来る人もいて、人と一緒に外からの情報、しかも質の良い情報が入ってくるんです。高柳の中では異質なところでした。交流ってのは地域の元気を出すのに必要なもんだって、それを見て町全体に取り入れようと思った。高柳に門出がなかったら交流観光の取り組みはずっと遅れていたでしょうね。
- そしてじょんのび村まで、どう進んでいったのですか?
温泉施設の工事を終えてこの4月にリニューアルオープンした「越後高柳じょんのび村」。温泉と宿泊施設、貸別荘、レストラン、農産物と加工品の直販所の複合施設で、こども自然王国と同じ敷地内にある。
講師の先生を呼んで座学を3年続けました。これは外から高柳がどう見えるかを分かってもらうのと、講師の先生方に高柳の応援団になってもらうという意味で重要でした。昭和63(1988)年からは、国の補助を受けて高柳のビジョンづくりを始めました。これにあたっては、当時島根大学名誉教授で福島県三島町の地域づくりに関わっていらした安達生恒さんを訪ね、前年から自分で作っていたたたき台を持参して「できればこれに沿った形で高柳のビジョンを作って下さい」とお願いしました。ところが「行政職員のあんた一人ががんばってどうにかなる状況ではない。町民の力を借りなきゃどうにもならない」と言われてしまった。「どうしたらいいんですか」と尋ねたら、「他人が計画したものに沿って動くのは誰だって嫌だろう。自分たちで計画を作れば、それを実現するために動く」と。即答できなくて戻って町長に相談したら「まあやってみれ」ということで始まりました。
- 普通は「住民参加」と言っても、筋書きはできていますよね。
そうですね。小さな町村だってビジョンづくりは行政の責任でやるのが普通です。しかしこの時は白紙で町民に委ねました。こちらでやったのは部会の枠組みと人選だけ。安達教授は「金は出しても口は出すな」と言い、それも了解されていました。人選に関してはそれまでの一連の動きで、この分野なら誰というのが見えていました。部会は「自然とのふれあい」「食文化」「生活文化」「都市交流」「純産品」の5つ。それぞれの分野でがんばっている町民に加えて役所の若手と、全地区から委員が出るように配慮してスタートしました。
- ビジョンづくり自体が地域づくりになっているわけですね。でもソフト事業は成果が出るのに時間がかかりませんか?
この補助金は3/4で非常に助かったんですが、実は単年度事業なんです。それが同じ補助金を受けていた福井県の名田庄村(現おおい町)へ視察に行ってヒントをもらったんです。それで補助金が継続するように計画を組んでみました。
- どうやったらそんなことができるんですか?
毎年、事業のステップアップを図りながら採択してもらう体系に組んだんです。
- 計画通りに進んだのですか?
いや、失敗したものもあります。これを始めた時には、私は総務課の企画調整係長で、企画調整課ができ地域振興課ができて、この事業と一緒に私も異動してきました。離れたのは平成6(1994)年です。
file-22 観光カリスマ春日俊雄さんに聞く「山の暮らしは交流観光が生き筋」 ~農村はテーマパークではない
- 地域振興課を離れた後、平成13(2001)年から総務課に異動されて柏崎市・西山町との合併協議を担当されていますね。そして平成17(2005)年5月に柏崎市となりましたが、高柳と柏崎では人のありようも行政のありようも随分違うので、戸惑いも多いのではないですか。
今は大変だけど10年20年先を考えたら合併は間違いではありません。高柳は旧町よりさらに小さな地域ごとの自治を高めていかないといけないんです。顔の見える人しかいないわけだから、その中でやっていかなきゃならない。
全国からファンが訪ねてくる荻ノ島環状かやぶき集落。景色もさることながら、茅葺きの家でいただく地元のお母さんたちの手料理が特に評判だという。食事や宿泊のお問い合わせは荻ノ島ふるさと村組合0257-41-3252まで。
じょんのび村の職員として高柳の住民となり、その後国産小麦と自家製酵母を使ったパン屋を高柳で開業した一家。遠方からもパンを買いに来るファンがいるという。こういった人たちが増えてくれることが、春日さんの願いだ。
- そうした取り組みをしつつ、この先の夢は?
高柳の人の力を示したいですね。あったかくてね、粘り強いんです。70代くらいの人は自然と相対して生きてきたから、私らとは違う能力を持っているんです。確かに私らみんなでがんばったし、応援もしてもらった。茅葺きの家に暮らすことが恥ずかしい事じゃないと思えるようになったし、子供たちが高柳の出身だと言えるようにもなった。だけど、この風景をつくったのは何百年続いた先祖の力なんです。農村はテーマパークではない。私らは先祖とその時間の経過をちゃんと見せているかって問い直しが必要です。合併で感じたことですが、これからはただの交流ではなく、農村の理解者を増やす交流をして、お互いが元気になれるような質的転換を図ることが求められています。
- 交流によって疲弊してはいられませんね。
1集落に1軒でもいいから、ここで暮らして子育てをし、糧(かて)もここで得る人が現れてほしい。お手本はあるんです。門出和紙は、彼らの生き方の価値を紙にして売っているんですね。ライフスタイルとして新しいんです。そういう人が増えてほしい。じょんのびを作った頃は、100年後には日本の人口は半分になるかも知れないといわれた。日本は真ん中に山があって、沢筋にムラがあって、平野に街があるでしょ。100年後には灯りの全くない沢筋ができるんじゃないかと、そういうところを想像しましたよ。時代が変わっても沢筋で暮らしていくことができるんだって示すこと。そのことが先祖の思いにも繋がるし、人としてのあり方にも意味が見いだせるんじゃないかなぁと、思うんです。
関連リンク
▷ 越後高柳じょんのび村
http://www.jon-nobi.com/
▷ こども自然王国
http://www.garuru-kururu.jp/
▷ 高柳地区のホームページ
http://www.jonnobi-takayanagi.jp/
▷ 観光カリスマ百選
http://www.mlit.go.jp/kankocho/shisaku/jinzai/charisma_list.html
写真協力:柏崎市観光交流課
file-22 観光カリスマ春日俊雄さんに聞く「山の暮らしは交流観光が生き筋」 県立図書館おすすめ関連書籍
県立図書館おすすめ『地域の歴史・活性化』関連書籍
こちらでご紹介した作品は、新潟県立図書館で読むことができます。貸し出しも可能です。
また、特集記事内でご紹介している本も所蔵していますので、ぜひ県立図書館へ足をお運びください。
ご不明の点がありましたら、こちらへお問い合わせください。
(025)284-6001(代表)
(025)284-6824(貸出延長・調査相談)
新潟県立図書館 http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/
▷『じょんのび村今昔』
(大塚恒吉/著 郁朋社 2004 貸郷291.4-O88)
高柳に生まれた著者による故郷への愛情あふれる一冊。高柳の歴史や文化、自然が満載です。
▷『ブナ林の里歳時記 石黒の昔の暮らし』
(石黒の昔の暮らし編集会/編・刊行 2004 貸郷N382-I73)
旧高柳町石黒の習俗・風習を次世代に伝えるために編まれた一冊。「民俗誌」に留まらず、山里に生きる人々の息づかいが感じられる、まさに「歳時記」なのです。
▷『越後の棚田 原風景に佇むとき 山本一写真集』
(山本一/著 東方出版 2005 748‐Y31)
柔らかでしなやかな棚田の曲線は、そこに暮らす人々の生きる姿そのまま。美しい日本の原風景にこころ癒されます。
▷『糸魚川の自然を歩く 地元密着型のガイドブック』』
(小野健/編著 ウェイツ 2007 291.4-O67)
「地元密着型」というタイトル通り、旅行ガイドとは一味違うガイドブックです。大地の息吹を感じながら、フォッサマグナを旅するのもまた一興。
▷『町屋と人形さまの町おこし 地域活性化成功の秘訣』
(吉川美貴/著 学芸出版社 2004 601‐Ki22)
新潟県北部に位置する村上市の地域活性化ドキュメント。村上市で伝統的な鮭の製造加工販売を営む会社の跡取りである吉川真嗣氏が巻き起こしたムーブメントの一部始終を、妻である著者が細やかな筆致で著します。
▷『海を抱いたビー玉 甦ったボンネットバスと少年たちの物語』
(森沢明夫/著 山海堂 2007 913.6-Mo63)
瀬戸内の小島に始まる、《魂》を持ったボンネットバスの旅の物語。旅の終着地は新潟県湯沢町。湯沢の町にネコバスが走る!?実話に基づいた小説です。