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file-28 川がつくった新潟 -その3 横田切れの悲劇と大論争


横田切れの悲劇と大論争

 
 
明治初期の大河津分水計画
 

明治初期の大河津分水計画
 (信濃川大河津資料館展示図録より引用)
 

 
 

 幕府によって幾度も退けられてきた悲願の大河津分水建設がようやく着手されたのは、戊辰戦争が終わって間もない明治3(1870)年でした。明治政府によって開削工事が進められましたが、コンクリートや大型機械を用いた近代的な技術はなく、人力での工事は困難を極めました。特に山地部は掘っても地滑りによって地盤が隆起するため「化け物丁場」と呼ばれ恐れられていました。
 
 一方、大河津分水建設は新潟港の整備と深く関係していました。当時の新潟港は、幕末に諸外国と約束した開港5 港の一つになっていましたが、享保15年(1730)に阿賀野川の松ヶ崎堀割工事(川がつくった新潟2 参照)が行われてからは、港に流れ込む流量が減り水深が浅くなり大きな船が入港できなくなっていました。このような背景の中、明治4(1871)年にはイギリス人技師ブラントンが、明治6(1873)年にはオランダ人技師リンドーが、相次いで大河津分水工事に反対する調査結果を明治政府に報告しています。その内容は、治水対策から見た場合の大河津分水の効果は認められるものの、①信濃川下流の流量が減少すると新潟港に砂が堆積して機能が損なわれることは避けられない②信濃川下流の水位低下により信濃川からの取水が不可能となり灌漑に支障を来す③以上のような点を踏まえ信濃川本流の河身改修と堤防修築工事の方が費用・効果両面で得策である-というものでした。
 
 明治政府はブラントンとリンドーの報告書を踏まえ、明治8(1875)年に大河津分水工事を廃止し、掘削がほぼ完了していた平地部は埋め戻されてしまいました。
 
 その後も、大河津分水建設を求める人々の請願活動は続きました。県議会では推進、反対を巡って幾度も論争が起こり、田沢実入(みのり)や鷲尾直政(いずれも越後平野の地主)らは新聞に意見を掲載したり、県内外の多くの人に建設の有用性を説いて働きかけを行いました。特に田沢は父与一郎の代から大河津分水建設推進に私財を投じ、内務省勤務を経て大河津分水工事にも参加。大河津分水に生涯を捧げ、現在大河津分水の堤防にある桜並木の植樹を始めた人として知られています。削がほぼ完了していた平地部は埋め戻されてしまいました。
 
 そのような中、明治29(1896)年7 月22 日、新潟県全域で河川が氾濫し越後平野のほぼ全域が浸水する大被害が発生しました。この水害は、現在の燕市横田にて信濃川堤防が約300メートルに渡って欠壊したことから後に「横田切れ」と呼ばれるようになりました。
 
 浸水はひどいところで3ヶ月にもおよび、農作物は全滅、不衛生な環境と食糧難から伝染病も発生、多くの人々が犠牲となりました。
 

横田切れの破堤箇所
(信濃川大河津資料館展示図録より引用)

横田切れの浸水範囲-緑色の範囲
(信濃川大河津資料館展示図録より引用)
横田切れによる浸水状況
(信濃川大河津資料館展示図録より引用)

死者
負傷者
家屋流失
家屋全半壊
床上浸水
床下浸水
43
35
180
4,120
43,684
16,936

※ 大河津分水双書資料編「横田切れ」から作成。
死者には後にまん延したコレラ、赤痢、チフスなどによる死亡者は含まれていない。


 この時の新潟県全体の被害総額は約1200 万円。当時の新潟県の年間予算とほぼ同額です。明治30(1897)、31(1898)年にも大規模な水害に見舞われ、新潟県は毎年年間予算の1/4 を治水関係工事に充て財政を逼迫します。この一連の水害が、国による大河津分水工事再開の契機となります。この水害の前年に日清戦争の講和条約が締結され、政府が国内に資本を投じられる状況になったことも大きな要因の一つと考えられています。


 

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