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file-31 石川雲蝶が歩いた道 ~足跡と越後の町



足跡と越後の町
 
 
長岡市栃尾の貴渡(たかのり)神社の彫刻
 

長岡市栃尾の貴渡(たかのり)神社の彫刻。栃尾で機織りの神様と称される植村角左衛門貴渡を奉った神社で、養蚕の様子が唐風に描かれています。  

 
 

 石川雲蝶(1814-1883)は、江戸雑司ケ谷の飾り金具職人の家に生まれ、若い頃から腕の良い彫物師として知られていました。伝えられているところでは、三条市の本成寺修築の際、檀家総代だった金物商内山又蔵に請われて越後入り。三条は当時から金物の産地で信濃川舟運を通じた流通都市でもあり、財力のある町でした。雲蝶は当時32歳。同じく腕の良い職人として知られた熊谷の小林源太郎とともに越後入りをして、三国峠で力士像を彫って腕比べをしたという逸話が残っています。小林源太郎とは、その後多くの現場をともにしました。
 
 後に三条の町人酒井家に婿入りし、雲蝶は三条の人になるのですが、その頃から魚沼の永林寺の本堂再建に招かれ、およそ13年間を魚沼で過ごします。魚沼でも特に大規模だった仕事は永林寺と西福寺。住まいのある三条と、魚沼各地に点在する現場を行ったり来たりの生活だったと伝えられています。
 
 魚沼への道は、三条から見附、栃尾(長岡市)を通り、石峠を越えて小出(魚沼市)へ入ったとされ、片道2日の道のりでした。この周辺には、雲蝶の作品が点在しています。
 
 見附は信濃川水系刈谷田川の舟運で栄え、六斎市が開かれていた在郷町。栃尾は越後有数の馬市が開催される町、同時に長岡藩の薪炭供給基地としてにぎわう町でした。小出は幕府が開発してこの頃閉山となった上田銀山への物流拠点となっていました。魚沼地域一帯は越後上布と縮の産地であり、各地で問屋が富を蓄え、一部を寺に寄進しています。雲蝶の作品が残されているのは、これら豪雪の中山間地。今では過疎化が進む地域ですが、当時は人とモノが行き交う町でした。そうした場所を雲蝶は歩き、作品を残したのです。
 
 魚沼を中心とした精力的な制作は、雲蝶が50歳ごろまで続きますが、その後しばらくは三条で小さな作品を作る日々が続きます。この頃、戊辰戦争が起こっていました。雲蝶が歩いた栃尾は、城を巡って攻防戦が繰り広げられた長岡のすぐ隣。長岡藩士の妻子の多くが避難し隠れた栃尾では、両軍が入り乱れることもあったでしょう。しかも戦争の起こる数年前から栃尾では打ち壊しなども相次いでいました。雲蝶は、そんな時代にも作品を作り続けました。
 
 明治に入ると石動(いするぎ)神社(三条市吉野屋)、町で石彫や仏壇を制作し、明治14(1881)年、68歳で永林寺を再訪します。この時制作したのが唐獅子牡丹と天の邪鬼の香炉台だと、永林寺では伝えられています。雲蝶が亡くなったのはその2年後のことでした。
 

 穴地十二社の欄間彫刻は渡辺綱の鬼退治。鎧の形の部分に墨が引かれたままになっています。
 
 作品所在地と詳しい情報はこちら  

 

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