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歴史と雪国の生活文化
泳ぐ宝石 ニシキゴイ ~誕生と歴史~
錦鯉といえば、白色に紅色の斑紋のある「更紗」が有名。
色物、模様鯉、花鯉、色鯉…さまざまな名称で呼ばれてきた錦鯉。その起こりは「新潟県の変わり鯉」といわれるとおり、二十村郷(にじゅうむらごう)※注(1)といわれた新潟県中越地域にある山間地が発祥である。これらの地域では、その地形を生かして、古くから田んぼの用水を確保するために、大小さまざまな形のため池が作られ、元和年間(1615年~1623年)頃には、この棚田に作られたため池に、鯉を飼育するようになったとされている。厳しい自然条件の中、鯉に対する人々の情熱と努力の甲斐もあって、この山あいの地域は、世界的にも有名な錦鯉の産地として知られるようになった。
今日のような、さまざまな模様で彩られている錦鯉は、昔から存在していたわけではない。食用に飼育されていた黒っぽい色の真鯉(まごい)から、突然変異で現れた赤い色の緋鯉(ひごい)を進化させ、白鯉と交配させていき、紅白の錦鯉を生み出していったのである。天保年間(1830年~1843年)には、前頭部分が赤い「頭巾被り(ずきんかぶり)」や、白色の背部に紅色斑紋のある「更紗(さらさ)」など、美しい紋様の入った鯉が誕生した。当時の長岡牧野藩がこれを諸地方に出荷したと伝えられている。
明治7、8年ごろには、「更紗」をはじめとした優秀品を産出し、投機的に飼育されることが多くなったために、県から一時的に養殖を禁止されたこともあった。しかし、まもなく禁止令はとかれ、明治30年頃には、小栗山(現小千谷市)出身の広井一が大隈重信に錦鯉を寄贈したことで東京の名士に広まることとなり、明治39年にはドイツ鯉との交配により品種改良もさらに進んでいった。大正3年の大正博覧会では、東山村(現小千谷市)と竹沢村(現長岡市山古志)の連合養鯉(ようり)組合が出品して好評となり、皇太子殿下に錦鯉を献上したという記録が残っている。若き日の皇太子殿下が錦鯉に心を奪われ、お付の人が前進を促しても動こうとしないという、後に生物学者となる殿下の、若き日のほほえましいエピソードも残っている。昭和に入ると、さらに改良に改良を重ねて品種が増えていく。産地としての名も広まるようになり、当時の新聞には「日本一の山古志郷」だけでなく、「世界の錦鯉の山古志郷」と述べるものが出てくるほどで、その販路が世界に拡大していったことがうかがえる。戦時中は、再び養鯉業は禁止となったが、戦後の高度経済成長期にはいわゆる「錦鯉ブーム」が沸き起こった。昭和44年には、山古志村の錦鯉の生産額が農業生産を上回り、村の重要な基幹産業となった。昭和48年のオイルショック以降は下降線をたどることとなるが、今日においても、一層の優良品の改良と市場拡大を図り、国内外のファンから根強い支持を受けている。
※注(1)=現在の長岡市太田、山古志、川口北部、小千谷市東山からなる一帯は、かつて「二十村郷」と総称されていた。二十余りの村があったから、また、一度なくなった村を再び起こしたから二重村というなど、いくつか伝承があるが定かではない。
なぜ錦鯉誕生が二十村郷だったのか
山あいの棚田には大小のさまざまな形のため池があり、鯉が放たれている。
錦鯉発祥の地である二十村郷と呼ばれていた地域は、長岡の市街地から20-30kmほど距離のある農村地帯で、この地域のほとんどが起伏の多い山間部であり、集落は各地に点在していて、傾斜地に作られた棚田は、山の頂上まで続いている。
冬ともなれば、5メートル以上の積雪に見舞われる全国有数の豪雪地帯である。山間地ということもあり現金収入の方法はそう多くない。しかし、だからこそ棚田が点在するこの地域において、独自の文化が育まれてきたとも言える。代表的なのは、やはり牛の角突きと錦鯉であろう。地形の複雑な棚田での農作業には、足腰の丈夫な牛の労働力が必要であった。その牛が角突きの神事のルーツになったという。またその地形の悪さから、四季を通じて人間も激しい肉体労働を要求され、それゆえ人々はタンパク質の栄養源を欲した。海から遠いこの地において、鮮魚は手に入りにくく、高価で簡単には買うことができなかった。そうした条件から、棚田のあちこちに見かけられる灌漑(かんがい)用のため池に、食用の真鯉を飼いはじめたのが今日の錦鯉のルーツとなったとされている。
年の半分は銀雪に埋もれるこの地域で、牛の角突きと鯉を飼うことは多くの人の楽しみでもあった。真鯉からの突然変異をきっかけにし、自然の良さと厳しさの下で闘ってきた人々の忍耐強い努力と愛情によって、美しい錦鯉は誕生したのである。すぐれた「系統親鯉(けいとうおやごい)」を伝統的に所有していることと、選別する技術を有していることで、今でも新潟県は日本一の産地の地位を維持し続けている。
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楽しみとしての錦鯉
鯉に見る日本人の精神文化、そして世界へ
大きく育った鯉を池から引き上げる鯉上げ。品評会間近の10月になると、各地でこのような風景が見られる。
日本人は古くから鯉を鑑賞用として楽しんでいたようである。最古の記録としては「日本書記(西暦720年完成)」に「鯉が恋の仲立ちをした」という景行天皇のエピソードが記されている。9世紀に入ると貴族の邸宅の庭園に池を作り、そこに鯉を放って鑑賞していたという。また時代が下るにつれ、重要なタンパク源として、庶民にも食用の鯉が飼われるようになった。
また、鯉は昔から日本人の生活習俗と密接なかかわりを持っている。鯉が滝を登る中国の故事から「出世魚」として親しまれていたり、「まな板の鯉」と例えられるように、まな板の上で包丁を入れられてもびくともしないことから、「武士魚」と呼ばれたりもしている。また男子の成長を願って「こいのぼり」を飾る風習は、現在でも日本全国で見かけられる風景である。「祝魚」としても親しまれ、山古志では祝い事の際に、緋鯉を用いていたという。それだけ日本人にとって、鯉は身近であり、昔から慣れ親しんできた魚なのである。
二十村郷と呼ばれた新潟県中越地域の山間部は、冬ともなれば豪雪に見舞われ、これといった産業もなく、経済的にも豊かとはいえず、交通も不便な土地であった。しかし人々は、真鯉からの突然変異種をうまく進化させ、美しい錦鯉を誕生させた。娯楽も少なく、経済的にも窮乏した厳しい環境の中だからこそ、彩り鮮やかな錦鯉にロマンを見出したのであろう。夜も寝ずに選定や交配に精を出し、販路を見出すべく夜行列車で県外に錦鯉を運んだ。今日ではその市場は海外へも拡大し、世界中から多くの人が、鯉を買いつけに押し寄せて来るほどである。錦鯉にかける人々のひたむきさと情熱が、今日の「泳ぐ宝石」の礎を築いていったのである。世界に誇れる鑑賞魚にまでその芸術性を高めたのは、いうまでもなく越後二十村郷の人々の努力の賜物である。
鯉の魅力―生産愛好家にとっての鯉
鯉に恋して数十年。齋藤さんにとって鯉はまさにコイビトなのだとか。
錦鯉を育ててきた愛好家にとって、鯉とはどんな魅力があるのだろうか。長岡市山古志に住む齋藤隆さんは、40年以上、趣味として鯉の飼育に励んできた。「育っていく過程で色合いや模様が変化していく。その変化が楽しい。どう変化するか想像しながら飼う。自分の想像通りに育つとすごくうれしいが、思い通りに育たない場合もある。だから楽しい。また翌年交配させて稚魚を生ませ、それをまた育てる。そうやってどんどん続けていく。でも同じのは二匹と出ない。だから飽きない」と錦鯉を育てていく楽しさについて話している。「商売で養鯉業を営んでいる人は、普通は浮餌(うきえ)はやらない。俺は、鯉を一年中見ていたいから、浮餌にして水面に浮かび上がってくる姿を楽しんでいる。趣味だからそれができる」と、趣味として飼育する場合と、商売として養鯉業を営むことの違いについても話してくれた。齋藤さんは、売れてお金になればうれしいが、売るために鯉に関わっているのではなく、とにかく育っていくのを見るのが楽しい、と語っている。
「一匹一匹がどの親から生まれた鯉なのかがわかる。かけあわせの楽しさを知るとおもしろくてやめられない」と語る小千谷市の広井さん。
また、小千谷市でも養鯉はさかんである。祖父の代から養鯉に携わり、子どものころから鯉が自然と身近にあったという広井年郎さん(工務店経営)は、自らを錦鯉の「生産愛好家」と称する。「地域の仲間10人ぐらいで、仲間内だけの品評会などもやっている。でもみんな売るのが目的ではなくて、眺めたり育てたりするのが楽しい。自分にとって、鯉を育てるのは、最大の趣味。思い通りにいかないこともあるが、挑戦に挑戦を重ねて、翌年どういう結果になるのかが楽しみ」と語っている。かつて二十村郷の人々が錦鯉にかけた情熱は、時代を経てもそのまま引き継がれていることがうかがえる。
小千谷市錦鯉の里には、国内はもとより、海外からも多くの人が「泳ぐ宝石」を鑑賞しに訪れる。
小千谷市にある錦鯉の里の館内ガイドをしている平沢さんはこう語る。「錦鯉とは神様が山あいの村にくれた宝物」中山間地に経済的な豊かさをもたらし、人々の精神的な拠りどころともなってきた錦鯉。育てる人に楽しみを与え、誰もがその華やかな容姿に目を奪われてしまう。まさにそれは泳ぐ「宝物」だと言えるだろう。
<参考ホームページ>
■取材協力
小千谷市商工観光課
小千谷市錦鯉の里
齋藤隆さん(長岡市在住)
広井年郎さん(小千谷市在住)
■参考文献
「華麗で野趣のある新潟錦鯉」『日本の郷土産業:第3 中部・北陸』:日本地域社会研究所編
「錦鯉産業の考察」『高志路』:広井 忠男
『錦鯉問答』:星野さとる他 監修
「山古志地域の色鯉と角突き(前)~山古志地域の歴史的風土を探る~」『長岡郷土史』:滝沢 繁
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県立図書館おすすめ関連書籍
「もっと詳しく知りたい!」、「じっくり読みたい!」という方、こちらの関連書籍はいかがでしょうか。以下で紹介しました書籍は、新潟県立図書館で読むことができます。貸し出しも可能です。ぜひ、県立図書館へ足をお運び下さい。
▷『日本文化の華:錦鯉』
(前川建夫著/新日本教育図書/2009年)請求記号:N /666 /Ma27
「新潟県錦鯉協議会」ホームページによると、錦鯉の発祥地は新潟県中越地域にあった二十村郷(現在の長岡市太田、山古志、川口北部、小千谷市東山からなる一帯)で、今からおよそ170年前にマゴイから突然変異により出現した個体を改良したものが始まりとされています。
錦鯉の品種は多く100種類を超えるともいわれています。本書はその歴史や鑑賞法、品評会、随想など幅広い内容を網羅した1冊です。著者が新潟県内の錦鯉養殖地を訪れた際の随筆や、国際交流として錦鯉が中国やアメリカ等に寄贈され、見る人をひきつけたエピソードなども紹介されています。
▷『錦鯉の飼い方:池でも水槽でも楽しめる!』
(アクアライフ編集部編/エムピ-ジェ-/2011年)請求記号:666 /E55
錦鯉を飼うにはどんな設備が必要なのでしょうか。本書では「錦鯉の飼い方 池編」「水槽編」というように、飼う場所別に管理の仕方や餌などについて詳しく記述されています。このほか、品種紹介や病気とその治療法、錦鯉の産地新潟を取材した様子がカラー写真と、わかりやすい文章で紹介されています。
「泳ぐ宝石」とも呼ばれる錦鯉を「心ゆくまで鑑賞したい。ぜひ飼ってみたい。」という方はご覧になってみてはいかがでしょうか。
▷『ふるさと山古志に生きる:村の財産を生かす宮本常一の提案』
(山古志村写真集制作委員会編/農山漁村文化協会/2007年)請求記号:N /382 /Y28
民俗学者宮本常一氏と旧山古志村との関係は、宮本氏が村の振興にかける佐藤久村長(当時)の情熱にうごかされたことから親交が深まったといいます。
本書の前半では、山古志の原風景や人々の暮らし、年中行事などについて紹介され、後半では「活気ある村をつくるために」として宮本氏の提案が掲載されています。
山古志が原産地である錦鯉については、本書p78「鯉と生活」で、養殖がどのように盛んになったのかが簡潔に説明されています。
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(025)284-6824(貸出延長・調査相談)
新潟県立図書館 http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/