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file-86 受け継がれる伝統芸能(後編)

  

糸魚川・能生に伝わる白山神社の舞楽

室町以前、500年以上続く曲と舞

  陵王の舞

祭りの盛り上がりが最高潮になる陵王の舞
日が暮れる前から舞い始め、日暮れ前に楽屋に下がろうとする陵王を、周囲の人たちが榊の枝を振って引き止めます。


能生白山神社総代 五十嵐紀夫さん

能生白山神社総代 五十嵐紀夫さん
能生白山神社の総代として春季大祭をはじめ、神社のあらゆる運営に携わられています。任期制であり、今年2期6年目。「総代として祭りに関わるようになって、通学路で稚児や子どもたちがニコニコ挨拶してくれるようになりましたね」


能生白山神社楽人会楽長 五十嵐保さん

能生白山神社楽人会楽長 五十嵐保さん
子どもの頃に稚児舞を経験し、25歳から楽人会に参加。以来40年にわたり白山神社の舞楽に関わり、現在は約20人のメンバーを率いるリーダーとして活躍。会社員時代は転勤しても毎年年休を取って稽古・準備に励み本番に出演したそう。

 糸魚川市には古くから伝わる伝統芸能が数多く存在し、そのなかでも「能生・白山神社の舞楽」「糸魚川・天津神社の舞楽」「根知山寺の延年」「青海の竹のからかい」の4つは、国の重要無形民俗文化財に指定されています。それぞれ曜日を問わず毎年決まった日に披露され、地元の人をはじめ多くの観光客が集います。

 まず最初に、大阪四天王寺の舞楽の流れを受け継ぎながらも地域的な要素も多く含む、能生・白山神社の舞楽を紐解いてみましょう。

 京都相国寺の僧万里集九(ばんりしゅうく)が能生に滞在したことを記した1488(長亨2)年の日記「梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)」に記載があるので、500年以上前から能生の舞楽は存在していたことになります。この舞楽は毎年4月24日に開催される春季大祭で、大人舞3曲・稚児舞8曲と最初に披露される獅子舞の全12曲が奉納されます。気候が合うと丁度山桜が見頃の季節。時期になると境内の池の上に舞台を、そしてその舞台と御旅所(おたびしょ)の間に花道を設営。午前零時の法螺貝(ほらがい)の響きに始まり、日が暮れるまで数々の舞楽や催しで訪れる約5,000人の観客を楽しませます。

 ルーツである大阪四天王寺の舞楽とは同じ名前の舞でも、衣裳や振り付けが違うなど独自性を確立。例えばフィナーレを飾る舞「陵王(りょうおう)」では、能生の衣裳は赤一色のシンプルなものに対して、大阪は柄もあり前垂れも付きます。楽器も能生では笛と太鼓のみで構成されていますが、大阪は笙(しょう)や篳篥(ひちりき)、鐘(かね)など種類が多いのが特徴です。また、さらにルーツをたどるとその歴史は大陸文化にまで繋がります。「ブータンに面も振り付けもよく似たものがある、と聞いたことがありますね」と能生白山神社の総代五十嵐紀夫さんが教えてくれました。

 数ある曲の中でも一番の盛り上がりを見せるのはクライマックスの「陵王」。大人の一人舞で、かつて演じたことのある五十嵐保さんにお話を伺ったところ「みんな『陵王』を目当てに来ますし、舞う側にとっても憧れの役。舞台から下がろうとすると、まだやめるなとみんなが榊(さかき)の枝を持ってはやし立てる。それで更に舞って、のべ1時間以上。終わる頃には日が暮れています」とのこと。楽しそうに語る姿に、当日の参加者の興奮や大変な盛り上がりが伝わってきます。


5人の稚児と楽人会

宵宮祭衣装の稚児

大人の肩に担がれる稚児
オレンジ色の衣裳は、祭りの前日(宵宮祭)だけ着るもの。大人の肩に乗り町を練り歩き、神社に向かいます。


稚児舞「輪歌(りんが)」

稚児舞「輪歌(りんが)」
手に持つ花束を神に捧げる舞と考えられます。中央の舞楽では「林歌」に相当しますが、衣裳も小道具も異なる地域色の濃い舞楽となっています。

 お話しいただいた五十嵐保さんは、白山神社の舞楽を行う楽人会の楽長(リーダー)。楽人会は20代~70代までの約20名で構成されており、祭りに欠かせない稚児のスカウトから稽古、大人舞、楽器の演奏などを行います。メンバーの中には幼少期に稚児舞を舞った人も多く、地域に残る伝統がしっかりと受け継がれています。

 稚児は主に小学校1年生から4年生の子ども5人が選ばれ、春休みと祭り直前の2回に分けて練習に励みます。合宿が行われることもあり、その際は朝本殿前で水をかぶりお祓いを受け、朝食をすませてから登校し、午後から稽古に励むというハードスケジュール。「これだけの稽古をつけるのは、多分ここだけではないでしょうか」(五十嵐楽長)。指導する楽人たちの多くは社会人。年休を使うなどして稚児に稽古をつけ準備を進めるなど、町を挙げての並々ならぬ取り組みの姿勢が、この舞楽の地域での存在の大きさを物語っています。

 8曲ある稚児舞は主に1曲約20分。長いものだと40分にも及ぶ演目もあります。大人による獅子舞の後、舞台祓(はら)いとして2人で舞う「振舞(えんぶ)」を披露。続けて白いちりめんの装束(しょうぞく)と花の天冠(てんかん)を身にまとう「候礼(そうらい)」。1人で舞い、ひょうきんな動きをする「童羅利(どうらり)」は唯一稚児がお面をかぶる作品です。そして中国から伝来したと言われ、ゆっくりとした調子から始まり後半に軽快な調子で舞う「地久(ちきゅう)」は4人で。鉾(ほこ)と太刀を持った「泰平楽(たいへいらく)」は世の中の乱れを正す大変おめでたい舞。矢を放つ「弓法楽(きゅうほうらく)」や扇を持って静かに舞う「児抜頭(ちごばとう)」と続いて、紫のちりめんの装束と花束で優雅に舞う「輪歌(りんが)」でフィナーレの陵王へとリレーします。

 楽人会の大人たちはもちろん、かつて稚児舞を奉納した小学校高学年の児童たちも稽古をサポート。休憩時間には遊び相手にもなり、稚児たちの身近な先輩として活躍してくれるそうです。祭り前日からは稚児たちは神様のお使いとして「地に足をつけてはいけない」という決まりがあり、移動はすべて大人の肩に乗り、舞台で舞う以外は祭りが終わるまで続きます。

 「私が子どもの頃は子どもの数が多く、希望しても稚児になれなかったんですよ」と五十嵐総代が懐かしむように、かつてはなりたくてもなれなかった稚児も、少子化が進む現代ではスカウトするのも難しいとのこと。近年では、年齢や対象居住範囲を広げて探すようになったと言います。

 

脈々と受け継がれる伝統

見物客でにぎわう境内の風景

町内外から訪れる5000人にも及ぶ見物客
境内は桟敷から平地まで、多くの人で埋め尽くされる。特に昨年は天候に恵まれ、例年にない人出だったそう。桜が風雅な世界観を添えています。


「陵王」クライマックス

陵王が楽屋に飛び込むと、御神輿は拝殿へと担ぎ込まれます。神霊を降ろしてから再び担ぎ出され、あらん限りの力で上下に揺さぶられます。担ぎ手が法被などではなく、紋付袴であることも特徴の一つ。


宝物殿に飾られている陵王の面
宝物殿に飾られている陵王の面
左が寛正年間のもの、右が数年前まで使われていたもの。

 そして勇壮な大人舞も見応え充分。「能抜頭(のうばとう)」は父の仇(かたき)を取るために猛獣と戦う様子を、「納曽利(なそり)」では二匹の竜が楽しげに遊ぶ姿を表現します。そしてラストの「陵王」では、既に亡くなったはずの中国の王が劣勢の子どものために蘇り、日を招き返して遂に敵を滅ぼしたという伝説に由来した舞を披露し、会場を盛り上げます。

 毎年地域住民はもちろんのこと、地元から離れた人たちも祭りを見に帰ってきます。「盆や正月みたいに、祭りに合わせて同級会が開かれることも多いですね」と語る五十嵐総代。舞台の周りに用意される桟敷では、同級生のグループで一緒に見ることもあるそうです。

 また、祭りに集うのは能生出身の人たちだけではありません。出身者を中心にした鑑賞グループが東京にできたり、名古屋から「源氏物語に出てくる『日招きの舞』を見たい」と訪れた源氏物語の研究をしているグループも。陵王の演舞写真を一目見て、横浜から10年以上通っている人もいるそうで、2年前には楽人会の人たちが横浜・横須賀に研修旅行に行くなど、舞楽をきっかけに新たな交流も育まれています。

 祭り以外にも新潟県内はもとより、金沢、そして東京の国立劇場でも舞楽を披露した実績があるとのこと。地元に根付く伝統として、また全国に誇る文化として認知されてきています。

 当日以外で祭りの様子を知るにはぜひ、境内にある宝物殿へ。祭りの様子を知ることができる写真パネルや実際に使われていた面、さらに寛正年間(1460-1466)に作られた面などを見ることができます。他にも古くから伝わる仏像や船絵馬が展示されており、能生の文化・歴史をより深く知ることができます。

 多くの伝統芸能が抱える少子化による継承問題は、能生にとっても大きな問題です。しかし「やっぱり伝統ある舞楽ですから、私たちの代で途切れさせてはいけません。だからできる限りお手伝いをしなければという思いですね。今後も絶やすことなく残していきたいですね」と語る五十嵐楽長の表情には、大きな使命感と誇りが浮かんで見えました。



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