file-101 「佐渡金銀山の町」相川の夏祭り(後編)

  

3つの顔を持つ佐渡おけさ

神事×ドイツの祭り。独自の伝統が残る

大山祇神社

佐渡金山の繁栄を祈願して、慶長10年(1605)、佐渡奉行・大久保長安が建立。7月の祭礼で「やわらぎ」神事が行われる。

 佐渡の夏祭りのオープニングを飾る「鉱山祭」。名前の通り、金銀山との強い結びつきが込められていますが、発祥は神事です。初代佐渡奉行・大久保長安が金銀山繁栄を祈って建てた「大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)」の祭礼が原点でした。江戸時代中頃、祭りは一度途絶えてしまいます。それを復活させたのは、明治18年(1885)に鉱山局長として赴任した大島高任(おおしまたかとう)です。
 硬い岩盤を神の力で「柔らかくする」ための、金銀山の町らしい神事「やわらぎ」と、赴任前に訪欧し、視察したドイツの鉱山祭にならい、山車を引いたパレード、綱引きや相撲、能楽などの娯楽、佐渡おけさの民謡流し、花火で楽しむ祭りを一体化。日本とドイツが融合した、ユニークな「鉱山祭」を作りあげたのです。

 

鉱山祭り 昭和初期

昭和10~20年にかけての金銀山繁栄のピークには、鉱山祭も豪華に。各地域が工夫を凝らして山車の大きさや高さを競った。

 この時から昭和時代半ばまで、鉱山祭は華やかに行われました。最盛期には金銀山で働く従業員は3,000人を超え、山車は高さや豪華さを競い、民謡流しでは芸者たちがあでやかに三味線を弾いて、華を添えました。

 しかし、昭和27年(1952)、戦争中に資源を掘りつくした金銀山は経営を縮小。「人口8,000人の町から2,000人が島外へ流出し、町の経済や将来に大きな不安をいだいたと聞いています」と、佐渡市教育委員会・佐渡学センターの滝川さんが相川の厳しい時代を説明。
 その後、製造業から観光業への転換を図り、文化財の整備、復元に着手します。その努力が結実し、平成6年(1994)に、佐渡奉行所跡を含む遺跡7か所が国の史跡指定を受け、平成22年(2010)には「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」としてユネスコの世界遺産の暫定リストに記載。今、世界遺産登録をめざしています。

 

鉱山祭り 現代

現在の鉱山祭。メインイベントは天領通り商店街で行われる、佐渡おけさの民謡流し。この祭りに合わせて帰省してくる人も多い。

 平成の今も、「鉱山祭」は佐渡の三大祭のひとつとして親しまれています。祭りの内容は高任の企画と変わりません。「大山祇神社」での神事に始まって、地域ごとに手作りした山車を先頭に練り歩き、夜は天領通りでの佐渡おけさの民謡流し、花火大会と、7月23日・24日の2日間、相川は祭り一色に染まります。
「佐渡おけさの踊りの練習は1ヵ月前から本格化し、地区の集会所等から歌や演奏が聞こえてきます」と、佐渡市教育委員会・佐渡学センターの滝川邦彦さん。祭りについて話すときはみんな笑顔になる、これも明治の頃と変わらないことかもしれません。

本当は長い佐渡おけさの歌詞

立浪会 踊り風景

民謡保存と普及を目的に活動する立浪会。メンバーは17名。小中学校や民謡団体への民謡指導の他、佐渡内外のイベントや民謡流し参加。

 鉱山祭で一番盛り上がる、佐渡おけさの民謡流し。鉱山祭以外でも、佐渡の祭りには欠かせない民謡です。けれど、佐渡おけさの生まれは、遠く離れた九州・熊本です。
 天草地方のハイヤ節が、北前船の船乗りによって佐渡の小木港に伝わり、相川の金銀山の労働者に広まったといわれています。そして、金銀山で歌われるうちに元歌にはなかった哀愁を帯び、聞く人の心に残るメロディーが出来上がったのです。相川で完成したから、相川おけさと呼ばれていました。

 大正時代に入り、相川の民謡保存団体・立浪会(たつなみかい)がレコード化する際、全国的には『佐渡』おけさのほうが地域をイメージしやすいだろうと名前を変更。思惑通りに歌は大ヒットし、佐渡おけさとして全国に広く知られるようになりました。

 

磯西さん

「踊りが好きで好きで」19歳から立浪会に所属し、凜とした風情の男踊りを伝える。今は次世代を担う後継者育成に力が入る。

 「でも、それは佐渡おけさの全部ではありません。有名なのは、三味線と歌だけでゆったりと聞かせる『正調』の部分。それだけでも十分に長いのですが。その後、テンポが速まって笛と太鼓、踊りが加わる『ぞめき(にぎやかに騒ぐという意味)』、さらにテンポアップした『選鉱場(せんこうば)おけさ』が続くんです」と、相川でもっとも歴史のある民謡保存会、立浪会会長・磯西英代さんが教えてくれました。「その3部を合わせてこそ、佐渡おけさなんですよ」

 

選鉱場

「選鉱場」では、鉱山から採掘された鉱石のほか、海岸に堆積した鉱石を集め、金銀を含む部分をより分ける作業が行われた。

 「選鉱場」とは、金銀山で鉱石をより分ける作業場。そこでは佐渡おけさが労働歌として歌われていました。歌詞にも「カンテラ下げて」「たかとう通い」など、金銀山に関わる言葉がちりばめられ、深い結び付きを感じさせます。「たかとう」とは、「鉱山祭」をプロデュースした大島高任の名を冠した竪坑を指します。

 

 「民謡は庶民の生活の中から生まれるもの。背景や歴史を知って、民謡が生まれた場所に立って聞くと、胸に迫るものが違います。実際に観光客に佐渡おけさを披露すると、『今まで知っていた踊りと違う』『地域で踊り方が違うとは知らなかった』とか、『歌詞の意味を知りたい』『もっと聞きたい』という声を多く聞きます。金銀山の麓で佐渡おけさを見て、聞いていただきたい。相川でしか感じられないものがきっとあると思います」と、柔和な笑顔を浮かべて、磯西さんは語りました。

 「守るだけでなく、チャレンジもしないと」と、磯西さん。佐渡市の18団体が奉行所に一堂に会して踊るイベントが10月2日に行われます。もちろん、磯西さんが所属する立浪会も参加します。狙いは、民謡の活性化、民謡を核とした金銀山文化の継承、そして、あらたな観光資源の創出。
 世界遺産登録をめざす金銀山の島・佐渡の風景の中で響く、佐渡おけさや相川音頭。ここでは、金銀山の歴史が今も息づいています。歴史は残ったものではなく、未来に向けて生き続けていくものなのです。


■ 取材協力
相川郷土博物館
野口敏樹さん/佐渡市世界遺産推進課 文化財室 室長
滝川邦彦さん/佐渡市教育委員会 社会教育課 佐渡学センター 文化学芸係 主任
磯西英代さん/立浪会会長

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