佐渡金山で生まれ、昭和の時代に佐渡島内へ広がった無名異焼。急須など日用雑器として島民の暮らしを支える一方、美術工芸としても発展し、佐渡を代表する焼きものとして全国に知られています。
令和6年(2024)10月、佐渡無名異焼が国の伝統的工芸品に指定されました。佐渡市では初、県内では15年ぶりの指定となります。
無名異焼の始まりは文政2年(1819)。金銀精錬のための羽口(はぐち)焼成を生業とする七代伊藤甚兵衛(いとうじんべえ)が金山から出る無名異という赤土を使い、楽焼を焼成したのが最初といわれます。この伊藤甚兵衛は、重要無形文化財保持者(人間国宝)・五代伊藤赤水(いとうせきすい)さんの祖先です。
伊藤赤水の名を次の代へ譲り、今年、新たに伊藤赤儘(いとうせきじん)となった赤儘さんにお話を伺いました。
―無名異焼の祖である伊藤甚兵衛は赤儘さんの先祖。無名異焼の歴史は伊藤家の歴史と重なるそうですが、少しその歴史を教えてください。
伊藤 うちの歴史の概略を言いますと、初代は江戸初期に石川県から渡ってきた伊藤伊兵衛(いとういへえ)という人で、槍を持ってきたところを見ると、前田藩の下級武士だったのじゃないかと思います。金山で金銀の精錬に使う鞴(ふいご)につける、羽口(はぐち)という焼きものを生業とし、羽口屋(はぐちや)と呼ばれていました。この羽口の他にも、灯皿や手あぶりなど、素焼きの日常品も手掛け、伊藤甚兵衛の名で代々通してきたんですが、明治になって名を伊藤赤水に変え、僕はその五代目、最初から数えると十三代、なんとか続いたんですね。
ご存知の通り、時代によって景気、不景気があったり、戦争があったり。戦時中は焼きものは売れませんから、それをなんとか皆さん、乗り越えてね。
その一方でいい時代もありまして、昭和の高度経済成長期には、相川にも観光客が沢山来てくれて、無名異焼がお土産としてよく売れました。売れ出すと、島内で自分も無名異焼をやろうという人が増えたんです。それが平成の時代になり、バブルが崩壊すると観光客がどんどん減り、色々な意味で忍びながら今に至っている。うちの歴史で言うとそうですし、無名異焼の歴史も、それとそう変わらないと言ってもいいと思います。
―七代目伊藤甚兵衛は、なぜ無名異の土を焼きものに使おうと思ったのでしょう。
伊藤 僕が考えるに、単純に薬効のある焼きものができると思ったんじゃないのかな。金山で出る無名異という赤い土は、昔は和漢薬のように薬として流通していて、相川から毎年幕府に献上するものの中にも入っていたようです。かなり高価だったと思いますが、七代目甚兵衛はその赤い土をなんとか手に入れ、土に添加して焼きものを作るようになった。それが江戸末期、今から220年ほど前です。ただ、無名異の土を使おうと考えたのはうちだけでなく、他にもあったようですよ。
―無名異焼で、最初はどんなものを作っていたのでしょうか。
伊藤 当初は生活雑器を焼いていたようですが、その後、観賞用の皿や壺が求められるようになり、他にも仙人や仏様や動物、当時はそういうもののニーズも非常に高かった。つまり「売れた」ということです。それが僕の父の代の昭和までかな。そんなふうに無名異焼と一言で言っても、時代によって作るものも変遷してきた。つまり生活のために、それぞれ時代のニーズに合わせて、求められるものを作ってきたんですね。
ただ、そのうち世の中の流れもあって、僕らも「今までのようなものを作っているだけでいいのか」と考えるようになりました。
―なぜ、そう考えるようになったのでしょうか。
伊藤 これは僕の個人的意見ですが、終戦後、「アート」というジャンルが日本でも認識されはじめ、「アーティスト」という言葉が出てきたことも大きいと思います。それで僕の場合は作家として、格好よく言えば芸術家として仕事をしていきたい、そう思って取り組むようになると、当然作るものも変わってきますよね。それでなんとか、今も芸術家の端くれとして活動している、ということです。
―無名異焼には昔から茶陶(ちゃとう)※など、芸術品として素晴らしいものが多くありました。急須などの日用品とは別に、美術工芸品が多く作られていたのはなぜでしょう。
伊藤 この相川という土地は、色々な意味で金山が核でしたよね。そして金山には、幕府の中枢から来た奉行をはじめとする人たちがいた。その人たちが、この土地に沢山の影響をもたらしたんです。
その1つが中央からの文化。お茶やいけばなに必要で、しかも土で作れる道具類を奉行所の人たちが求めたわけです。
茶道では、「一楽二萩三唐津(いちらくにはぎさんからつ)」といわれるように、一番価値があるのは楽焼(らくやき)です。その楽焼の茶碗や水差などを、奉行所の人たちが求め、当時の職人に作らせた。ただ楽焼は800度や900度と低い温度で焼くので、もろく欠けやすい。楽焼に対して本焼というものがあり、これは1200度から1250度の高温で焼き、叩くと金属音に近い音がする。当時は備前焼のように硬く丈夫なものが好まれる傾向があり、そのニーズに応えるため、先人たちが苦労に苦労を重ね、今のような無名異焼になったのです。
※茶陶:茶碗や水指など、お茶席で用いられる焼きものの総称
―明治11年(1878)に、伊藤赤水、初代三浦常山(みうらじょうざん)が前後して高温焼成に成功、その製法はそれぞれ窯の秘伝だったと聞きます。明治から昭和にかけて、無名異焼の作り手は、それぞれ独自の世界観を構築し、作品を作っていました。中でも赤儘さんは芸術家として世界で通用するものを作ってこられたわけですが、なぜ佐渡には、個性豊かな作家が育つのでしょうか。
伊藤 僕は自分のことしか分からないですが、作り手としてはやはり、何を自分の「武器」として、世に訴えることができるか。そう考えた時、僕は自分が生まれ育った佐渡という場所が持つ歴史的、あるいは文化的なもの、それは自分の武器になるだろうと思ったんです。
僕がやってきたのは、佐渡の中で四苦八苦して、佐渡にこだわってこだわって、僕には佐渡しかないんだ、というかね。変な言い方ですが、それを自分の武器として、やっていかなければいかんと思ってきました。
―五代赤水として、無名異焼の伝統的な技法を踏襲しながら、「窯変(ようへん)」「練上(ねりあげ)」「佐渡ヶ島」など革新的な表現を確立されました。次々と美しいものを生み出してこられていますが。
伊藤 いや、僕は自分が作るものが美しいとは思ったことはないんです。ただね、より個性的なものを作りたいとは思ってきた。誤解を恐れずに言えば、個性的なものに関しても、僕は美しいと思ったことはないです。
この「個性的なもの」というのは、自分自身を掘って掘って、とことん掘らないと出てこない。そしてより個性的なものを作るためには、一つはもちろんテクニック、力量がありますよね。テクニックがあった上でもう一つ、僕はこの相川という土地で生まれ育ち、そこには金山という付加価値があり、ここでしか調達できない原材料がある。とはいえ、単に無名異の土を使えばいいわけでなく、それを使うことで、より個性的にならなければいけない。けれど、そうして作ったものが美しいとか、あるいは自分が美しいもの作ろうとした結果とは思っていないんです。
言葉のあやかもしれんけど、僕は少なくとも、僕にしかできないものを目指している、と言うのが、自分の素直な気持ちです。
―相川の金山で生まれた無名異焼ですが、赤儘さんはあえて「相川の無名異焼」ではなく「佐渡の無名異焼」とよくおっしゃいます。
伊藤 分かりやすく言うと、無名異焼は江戸時代からずっと紐解いても、この相川という土地のアカ、つまり赤焼しかなかったんですよ。ところが昭和になり、終戦後に一大観光地になって、お土産として売れるようになると、島内でも無名異焼を焼く人が増え、その段階で無名異焼は相川だけのものではなくなったんですね。現代という切り口で考えるなら、それは佐渡全体のものとして、考えたほうがいいのではないかと思うんです。
―無名異焼が国の伝統的工芸品に指定された一方で、無名異焼の作り手はとても少なくなっていると聞きます。伝統工芸はどこも大変な状況に置かれているそうですが。
伊藤 何でもそうですが、ニーズがなければどんなに頑張っても続かない。僕ら伝統工芸は、いいものを作ろうと一生懸命やっていても、時代の流れで波に乗れない、暮らしが成り立たない。そういうことは起こりうるんです。
例えば、一番分かりやすいのが着物。伝統工芸には7部門※ありますが、その中の染織が着物です。僕の友人にもいますが、十日町市や小千谷市で着物産業が盛んな頃は、50人も従業員を雇っていたのに、今はもう家内工業だ、と。結局もう、着物を着る人がいない。コレクションとしては今も売れるかもしれないけれど、昔のように着物を毎日着ていた時代とでは、ニーズの量が全く違う。着物は今、本当に大変だと思います。
でも伝統工芸の中で、陶芸はまだなんとか少しニーズはある。だから今のうちに、無名異焼も頑張ってやれることはやっておかなければね、と言うのは簡単ですが、正直難しいことも事実で、今、僕らは新しいニーズを探さなければいけないところに追い詰められているわけです。
ただ、インターネットが普及した社会で、世の中の流れはどんどんグローバル化していますし、僕らのようなこんな小さい窯にも、海外の人が突然来て注文してくれたり、今まで皆無だったことが、ほんの少しずつですが増えてはきています。今回の伝統的工芸品指定を良い契機として、少しでもこの無名異焼が盛んになってほしいと願っています。
※伝統工芸7部門:国として保護育成する、歴史上もしくは芸術上特に価値の高い工芸技術。(陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、諸工芸)