新潟県有数の温泉地として知られる赤倉温泉。ここは大正時代、避暑地として財界人や文化人、皇族の別荘もあった高級別荘地でした。またスキーリゾートの先駆けとして、日本で初めてスキー場にナイター照明が設置されたところでもあります。多くの人を魅了した、大正時代の避暑地、赤倉温泉を紹介します。
財界人や文化人に愛され、避暑地として人気を集めた赤倉温泉
「赤倉温泉の開湯は江戸時代で、200年以上の歴史があります。明治の頃までは山の中のひなびた湯治場でしたが、避暑地として注目を集めるようになったのが大正時代。それには、「妙高倶楽部」の存在が大きかったと思います。」と話してくれたのは、赤倉温泉の歴史を研究している涌井誉八郎(わくいよはちろう)さん。
妙高倶楽部とは、大正3年(1914)、東京の弁護士、小出五郎(こいでごろう)と、新潟県出身で大正天皇の侍医頭を務めた入澤達吉(いりさわたつきち)らが中心となり、組織された会員制のリゾート組織です。これにより、赤倉温泉は「温泉付き別荘地」として全国に知られるようになりました。発起人には、日本画家の松林桂月(まつばやしけいげつ)、実業家の田中徳兵衞(たなかとくべえ)など、財界人や文化人など、八十余名が名を連ねていたそうです。
妙高倶楽部は単なる会員制倶楽部ではなく、温泉と旅館の長所を取り入れた理想的な避暑地を造ろうと、別荘の建築だけでなく、乗馬場、テニスコート、ビリヤード、洋弓場、釣り堀など、様々な施設を整備していきました。その設立趣意書には、「近時各地の著名の温泉にして俗化せざるもの蓋し稀なり。我が赤倉温泉に至りては然らず、之れ特に此地に入浴し一大自然美に親しまんとする紳士淑女の(中略)若し夫れ東西の有志一の倶楽部を組織し赤倉第一の別荘地一万数千坪を卜(ぼく)し、これを購いて一大庭園をなし典雅なる大小幾多の貸別荘及び浴場を設け」と記載され、赤倉温泉の自然を大切にしながら、リゾート地赤倉の開発を目指していました。
大正時代の赤倉温泉には、皇族をはじめ、多くの財界人や文化人などが別荘を構え、その数は三十余に及んだといわれています。
「大正8年(1919)に細川護立(ほそかわもりたつ)侯爵がこの赤倉で別荘を建てられ、その細川侯爵の別荘には秩父宮(ちちぶのみや)殿下、高松宮(たかまつのみや)殿下が滞在されてスキーを楽しまれたそうですし、大正12年(1923)の関東大震災時には久邇宮良子(くにのみやながこ)女王殿下と御姉妹が避難のため、やはり細川侯爵の別荘に滞在されたそうです。良子女王殿下もこの赤倉をお気に召されたのではないでしょうか。大正14年(1925)に、久邇宮家の別荘も建てられています。」
まだ洋装も自動車も珍しかった時代、自家用車で赤倉を訪れて洋装で散歩を楽しむ人々の姿や、庶民はあまり口にできなかった肉や魚、缶詰などを持参するなど、地元の人々にとって、別荘に滞在する人々の暮らしは憧れだったと妙高高原町史に記されています。
「赤倉温泉は財界人や皇族も多く訪れましたが、有名になったのは、作家や画家の存在も大きいと思います。ここ赤倉を題材にした作品が多く世に出たことで、全国に知られていったのではないでしょうか。」と涌井さん。
岡倉天心(おかくらてんしん)は明治39年(1906)に初めて赤倉温泉を訪れて、この地の自然を気に入り、「世界一の景勝の地」と激賞し、翌年に別荘を建てています。「高田の料亭を移築して、「赤倉山荘」と名付け、夏になると必ず避暑に訪れたそうです。岡倉天心の弟子である横山大観(よこやまたいかん)らも、岡倉天心を訪ねて赤倉温泉を訪れています。」
文人や画家によって、広められた赤倉温泉の魅力
江戸期の開湯から明治まで、赤倉温泉もひなびた温泉地でした。通りの両脇に旅籠(はたご)のような宿屋が並び、道の中央に共同湯が3か所あり、宿に泊まった客は共同湯を利用していたといいます。その昔、宿屋には風呂がないのが一般的でしたが、そんな時代に宿の中に風呂がある旅館として、明治19年(1886)に創業したのが赤倉温泉の香嶽楼(こうがくろう)でした。
「うちの宿は創業当時は木造で、屋根は茅葺(かやぶき)でしたが、宿に風呂を設けたのは当時としては画期的だったと思います。その建築に携わったのが鹿島岩蔵(かしまいわぞう)さんなのです。」と話すのは香嶽楼5代目当主の村山正博(むらやままさひろ)さん。
「鹿島さんは、鹿島組(現・鹿島建設)の棟梁(とうりょう)で、軽井沢開発を手がけた人物です。当時、すでに軽井沢は避暑地として賑わっていましたが、鹿島さんは信越線の工事で滞在した赤倉温泉の静かな環境と温泉に惹かれたのかもしれません。将来的に、東京からの富裕層も泊まれる宿を建てたい、と考えられたのではないでしょうか。」と村山さん。
明治25年(1892)には、香嶽楼に北白川宮(きたしらかわのみや)、徳川家16代当主の徳川家達(とくがわいえさと)公爵が滞在し、また、作家の尾崎紅葉(おざきこうよう)、有島武郎(ありしまたけお)、徳冨蘆花(とくとみろか)、歌人の与謝野晶子(よさのあきこ)、与謝野鉄幹(よさのてっかん)など、当時を代表する文人たちも、宿内に温泉があるこの宿を訪れたといいます。
尾崎紅葉は紀行文「煙霞療養(えんかりょうよう)」で赤倉の眺めを天下一と記し、徳冨蘆花は赤倉の情景を30首の歌にして詠んでいます。
「現在では、この周辺は鬱蒼と木々が茂っていますが、昔は草原だったそうです。360度草原の景色が眺められる温泉地というのが、全国でも珍しかったんでしょうね。」と話してくれました。
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昔も今も変わらない赤倉温泉の魅力
「赤倉温泉は高田藩の命運をかけた事業によって開湯した、全国で唯一の藩営温泉だったといわれています。山の中のひなびた湯治場だった赤倉温泉が、洗練された雰囲気に変わっていったのは、妙高倶楽部の試みと、滞在する人たちがいたからだと祖父はよく言っていました。」と遠間和広(とおまかずひろ)さん。
大正5年(1916)には、全国避暑地投票で3万票を獲得して1位に選ばれたという赤倉温泉。
「古くからある温泉街というと、全国的に歓楽的な施設があるのですが、赤倉温泉にはそういった施設がないのが特徴なんです。というのは、昔から皇族や財界人が過ごされていたため、あえて歓楽的な施設を作らなかったんですね。それは、現在に至るまで守られています。静かな高原で、温泉と自然を楽しめる。そこが、今も昔も赤倉温泉の大きな魅力だと思います。」
参考文献/
遠間和広・監修『温泉ソムリエが教える妙高高原温泉郷の魅力と温泉健康法』
妙高高原町史編集委員会・編『妙高高原町史』(妙高高原町、1986)
小島正巳・著『赤倉温泉開湯190周年記念・赤倉温泉と温泉組合のあゆみ』(赤倉温泉組合、2008)
赤倉温泉200年殿様の湯涌々と.新潟日報、2016年1月14日