file-141 郵便の父・前島密と切手の世界(前編)
人のために良かれと願う心を常に持て
「日本の郵便制度を作った人物」として教科書で紹介されている前島密(まえじま ひそか)。日本の近代化に大きく貢献した上越市出身の偉人は、「切手」や「はがき」を命名し、消印や特定郵便局制度を発案したことでも知られています。偉業を成し得た原動力には、「進取・開明の精神でみんなのためになることをやる」という強い信念がありました。
越後人の気質と「母の教え」
現在の上越市下池部に生まれた前島密。幼少期を過ごした故郷の春の風景。/「日本の桜フォトコンテスト2015」でグランプリに輝いた寺尾昭人さん(上越市)の作品
駅逓権正(えきていごんのかみ)に任命された、明治3年(1870)に新式郵便制度を発案。その後、さまざまな分野において大きな功績を残した。
天保6年(1835)1月7日に越後国頚城郡下池部(しもいけべ)村(現在の上越市下池部)で生まれた前島密は、幼名を「上野房五郎」と言いました。幼くして父を亡くした彼にとって、最初の先生は母の貞(てい)。裁縫などの仕事で生計を立てていた母から文字や詩を習い、錦絵や往来物で倫理や「人の道」を学びます。7歳のときに糸魚川に移り、藩医の叔父・相沢文仲(あいざわぶんちゅう)のもとで医学にふれて、医者になることを決意。幅広い教養を身に着けていたある日、彼の人生の指標となる印象的な出来事が起こりました。俳句の会を手伝いながら作った句を会客に絶賛され、喜んで母に報告したところ、「幼い頃に褒められた人は、自分の才能におぼれて大成しないことが多い。得意になって将来を誤らないか心配だ」と戒められたのです。前島記念館館長の利根川文男さんは、「母の教えが人生の教訓になっていたことは間違いありません。目標を決めたら最後までやり抜く精神力の強さを持ちながら、どんな偉業を成し遂げようとも常に謙虚だった前島の生涯を支えたのは、やはり母の教えでした」と語ります。
「18歳の若さで歴史的な大事件(ペリー来航)に立ち会った驚きは相当なものだったはずです。その衝撃が彼の視野を広げ、人生を決めることになったのでしょう。旅から戻った前島は、“学問の伴わない行動であった”と自戒し、江戸で機関学を、長崎で英語や数学を習得するなど学問に励んでいます。 “縁の下の力持ちになることを厭うな。人のために良かれと願う心を常に持てよ”という前島スピリットが今も残っていますが、進取・開明の精神でどんな時代でも新しいものを求め、皆のためになることをやるという彼の信念やそれに伴う行動力こそ、今の時代に生きる私たちにとっても必要なものだと感じます」
幕末、維新の大活躍
前島記念館にある石碑。碑銘(表面)の文字は、渋沢栄一による書。「日本文明の一大恩人がここで生まれた…」から始まる碑文(裏面)は、會津八一、坪内逍遥らによって草案された。
明治9年(1876)12月13日付で前島密に宛てた、大久保利通の手紙。前島記念館に展示されるさまざまな書簡から、要人との交流を知ることができる。
郵便切手に登場したのは、大正10年(1921)。それから10種類以上の記念切手や普通切手(1円)のモチーフとなっている。
29歳の前島は、英語教師として鹿児島に着任し、大久保利通など要人と交流。その後も伊藤博文、大隈重信、渋沢栄一、會津八一など多くの要人たちと交友があったと伝えられています。
慶応3年(1867)に幕臣として江戸幕府で活躍した前島は、翌年、「大阪遷都」を主張していた大久保利通を思い止まらせます。そして自ら建言した「江戸遷都」が実現。江戸は「東京」と改称され、「明治」と改元されました。前島は明治政府へ出仕し、日本の新しい国づくりに尽力します。
明治4年(1871)の東京―大阪間で郵便の取り扱いが開始。翌年には全国に郵便制度が敷かれました。それは、前島が「日本郵便の父」と称されるに至った大きな軌跡でもありました。全国を旅した経験を踏まえ、これまで政府が飛脚業者へ支払ってきた経費を東海道の宿駅制度を使った政府公用便の財源に替えることに成功。さらに、官民共用で収入を得ながら新しい通信網を全国に展開できると提言しています。明治3年(1870)の民部省駅逓権正就任から、明治14年(1881)に逓信次官を辞任するまでの12年間はまさに八面六臂の大活躍。郵便制度の創業をはじめ、陸運元会社、郵便新聞の発刊など毎年のように新しい事業に取り組んでいます。最も多忙を極めた時期には、1ヶ月の間に枕で眠った日が3日しかなかったそうです。
郷土の偉人“前島 密翁”を顕彰する会は、高校の同期生で発足。前島密の功績を称え、生誕の地から全国へその偉業を発信している。
「もし、前島密がこの世に存在しなかったら、明治の近代化は10年以上遅れていたことでしょう。そうなると日本は現在と全く違った国になっていたかもしれません」と語るのは、郷土の偉人“前島 密翁”を顕彰する会の会長・堀井靖功(ほりいやすのり)さんです。前島を取り上げたテレビ番組に感動し、前島密を学ぼうと高校の同期生7人が意気投合して始まった同会は、今年で発足から7年。「郷土の偉人を上越市民に知ってもらい、全国に発信する」「前島密の偉業と足跡を全国に訪ねる」という2つの目標を立て、講演会や講習会の開催、記念誌の発行など幅広い活動を行っています。
人間 前島密と余地の人
前島密の生家跡に昭和6年(1931)に建てられた「前島記念館」。業績を紹介するパネル展示のほか、当時の手紙や遺品等、約200点の歴史史料から生涯をたどることができる。
広報担当理事の下酉映暢(しもとりえいちょう)さんが続けます。「郵便事業の創設だけに注目されがちな前島ですが、陸海運業の振興や鉄道の建設、新聞、電気・通信など、多岐に渡る分野で功績を残しました。そこには、“儲けるための仕事をしない”という彼のポリシーが見えます。財政や経済の仕組みを深く学んでいますし、特に教育の分野では、障がいを持つ人や貧しい人にも学問を伝えようと国字改良(漢字廃止)にも取り組み、私財を投じて学校の設立にも尽力しています。まさに、“日本文明の一大恩人”でした」
それにしても、上越という地方の町から上京した一人の若者が、多くの偉人たちが活躍する明治の時代に、これだけの実績を残すことができたのはなぜなのでしょう。
前島密の故郷に、今なお多くの「絆」が残されている証となる貴重な記念誌。顕彰する会が、前島密没後100年を記念して平成31年(2019)に発行した。
「前島出世のキーマンは、安積艮斎(あさかごんさい)です」と事務局長の石黒康嗣(いしぐろやすつぐ)さん。上越時代の恩師、倉石侗窩も師事した安積は、江戸随一の朱子学者の呼び名が高く、主宰する塾には吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎などそうそうたる偉人たちが学んでいます。その門人帳には彼らと並び「越後高田在、上野房五郎」の名前がありました。「入門時、前島は、すでに全国を回っていましたから、知識も豊富。測量、航海術となんでもござれですから、他の塾生たちと同等、あるいは一目置かれるくらいの存在だったのかもしれません。そうなると、人脈もつくりやすかったのではないでしょうか。しかし、それだけではあそこまでいきません。前島が“余地の人”と言われる所以がそこにあります。後がなくて切られそうになったとき、どういう対応がひらめくか。いろいろな経験をしていないと最後のひらめきは出てきません。それができるから、余地の人なのです。目と足で確認したものでなければ信じない。実証主義者、前島密を語ることばとして、これ以上のことばはないでしょう」
前島は、さまざまな局面で「余地を持って行動すべし」と自らはもちろん、周囲にも言い聞かせていたといいます。開国したばかりの日本で、外国人(英語)コンプレックスもなく、堂々とコミュニケーションをとっていたという前島。彼の人生からは、培った知識に自信を持ちながらもおごることなく、国内外を問わず多くの人間関係を深めてきた自負が伺えます。
生誕地であり、幼少期を過ごした故郷・上越にもたびたび帰省し、心を配っていた偉人、前島密。人生の原点を忘れず、母の教えを貫き、世のために尽くした彼はまさに「余地の人」であったといえます。
後編は、「切手と郵便」をテーマにした趣味の世界を紹介。前島密の歴代一円切手のコレクションを持つ切手収集家のお話、またオリジナル「フレーム切手」のデザインなどから、「郵趣ワールド」の魅力に迫ります。
掲載日:2020/12/14
■ 取材協力
利根川文男さん/前島記念館 館長
堀井靖功さん/郷土の偉人“前島密翁”を顕彰する会 会長
下酉映暢さん/郷土の偉人“前島密翁”を顕彰する会 広報担当理事
石黒康嗣さん/郷土の偉人“前島密翁”を顕彰する会 事務局長
■ info
小説『親不知・子不知』
前島密の生い立ち、故郷や母子の絆、誕生秘話を、フィクション
を巧みに織り交ぜて描いた、顕彰する会メンバーの力作。
(令和2年12月1日発行)
問い合わせ 前島記念館