file-4 豪農の遺産
どこまでも壁が続く渡邉邸(関川村)。酒造業などを営み県内屈指の、つまり全国屈指の豪農で知られました。新潟の酒蔵を舞台にした宮尾登美子原作のNHKドラマ「蔵」で、主人公“烈”の生家として撮影が行われました。国指定重要文化財です。
県内には「豪農の館」と呼ばれるかつての大地主の邸宅がたくさん残り、今も雪国らしい剛健な邸宅や収集した品々を見ることができます。かつて 「地主王国」 と呼ばれた新潟。その遺産は館や美術品に限りません。政府と直結するパイプを持つ財閥や御用商人のいなかった新潟で、豪農たちは明治維新後の近代化に貢献したのです。
1868年、明治元年の新潟は砲火の中にありました。徳川幕府最後の将軍慶喜が前年に大政奉還をした後、幕府と幕府に最後まで味方した会津藩を中心とする諸藩を討伐する新政府軍が北進してきたのです。これに対し新潟県内や東北の諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結成し迎え撃ちました。新潟県内での最大の激戦は長岡城の攻防戦でした。長岡藩は家老河井継之助を中心に藩政改革をすすめ、軍備を整えていました。新政府軍に一度は長岡城を攻め落とされたものの、数ヶ月にわたって中越地方を中心に戦闘が繰り広げられました。同盟軍は長岡城を奪還したものの、新政府軍は同盟軍の背後を突いて、同盟軍の補給基地であった新潟港を陥落させ、一挙に長岡城を再度落城させ、越後における戦闘はおわりを迎えます。同盟に加わった諸藩は、降伏したり、敗走したりし、戦いの舞台は会津に移ってゆきます。
明治政府は当初、薩摩や長州、土佐など九州や四国の人々が多くの役割を担っていました。地理的に遠い新潟県では関わりの深い人材もなく、財閥系の商人もいませんでした。しかも戊辰戦争では敵方に回り戦火に焼かれます。新潟の近代化は、マイナスからのスタートでした。
旧第四銀行住吉町支店
1873(明治5)年、日本で条例に基づいた最初の銀行が開設されました。第一、第二、第四、第五の各銀行です。国立銀行条例に基づいて設立され、当初 国立銀行 と呼ばれましたが純然たる民間資本の民間銀行で、その後設立される日本銀行とは異なります。このうちの第四国立銀行が現在の「 第四銀行 」(本店新潟市)です。
第一国立銀行 は三井、小野の私立銀行が移行したもので、 第二国立銀行 は横浜の豪商を中心として設立、第五銀行は後の三井銀行。第三国立銀行は大阪商人が中心となって準備が進められましたが、開業には至りませんでした。財閥や、経済活動の活発だった大坂、横浜の財界人が中心となって設立された初期の国立銀行の中で、第四国立銀行の存在は異色でした。
当時の新潟県令楠本正隆は、豪農を始めとして県内の有力者を集め、県内での国立銀行設立の効用を訴え、出資を呼びかけました。豪農たちは地域の産業育成のための資本の確保、新田開発の資金などの目的に賛同し、この呼びかけに応え、明治7年3月から、第四国立銀行は営業を開始します。発起人は県内最大の豪農市島徳次郎(初代頭取)を筆頭として 12名 。
その後県内では、長岡第六十九国立銀行、村上第七十一国立銀行、新発田第百十六国立銀行、高田第百三十九国立銀行の4行が設立されました。
明治5年、日本で初めての鉄道が開業しました。政府は国を挙げて全国への鉄道網敷設に着手しました。新潟県内で最初に鉄道敷設が決まったのは、明治18年。長野県の上田から直江津(上越市)の間です。そして21年の暮れには直江津ー上野が鉄道で結ばれます。政府は直江津ー新潟間も官営で鉄道敷設をする計画でしたが優先順位が低く、それに危機感を強めた新潟県内の財界人は、直江津ー新潟ー新発田間を私鉄として着工できるよう政府に働きかけを開始します。中心的役割を果たしたのは柏崎市の大地主・山口権三郎。渋沢栄一らの東京資本とともに、県内からは豪農を中心に多くの資本金が集まりました。
新潟県北部の新発田まで鉄道を敷設することは、豪農にとっても非常に高い関心がありました。なぜなら、旧新発田藩領には豪農の中でもさらに巨大な地主が集まっており、収穫した米をできるだけ価格の高い地方に運んで換金することが収益を左右していたからです。
この北越鉄道株式会社が直江津から新発田までの本免許を交付されたのは明治28年。翌年から建設に着手しました。トンネル、低湿地、川が行く手を阻む大工事でしたが、10年後の明治38年にようやく新潟と上野が鉄道で結ばれます。その後明治40年に北越鉄道株式会社は鉄道の国営化に伴い政府に買収され、役割を終えました。
新潟平野に広がる田園
新潟県は、今でこそ良質なコシヒカリが実り、一面に田んぼが広がる「コメ王国」として知られますが、明治時代はそうではありませんでした。沼地や水はけの悪い田んぼが多く、毎年のように洪水に見舞われ、米の収穫量は安定せず、しかも品質の悪い米が多いことで全国に知られていたのです。特に水害が多かったのは新潟県中部の平野。西蒲原郡(現在の弥彦村、新潟市岩室、新潟市巻、新潟市黒埼、新潟市西川、新潟市味方、新潟市潟東、新潟市月潟、新潟市中之口、燕市分水、燕市吉田)、南蒲原郡(現在の田上町、三条市下田、三条市栄、長岡市中ノ口、加茂市、見附市、など)の一帯です。
氾濫する河川の改良や、干拓、低湿地の水抜きなどに尽力したのも、豪農たちでした。学問を修め役人や政治家となり、政府に働きかけた人も多く、中には 村長 として陣頭に立った人もいます。この地域が洪水を免れるようになったのは、当時東洋一の大工事といわれた 大河津分水 の通水からですが、この着工に生涯を尽くした 田沢実入 もまた、古川村(現在の新潟市南区古川新田附近)庄屋の家に生まれた人です。
現在の市島邸
現在の伊藤邸(北方文化博物館)
新潟が「地主王国」と呼ばれるようになった経緯、地主がどのように土地を増やしてきたかについてはさまざまな研究がなされています。
県内で突出していた豪農は、江戸時代には既に2000町歩を有していた 市島家 。日本一の豪農といえば山形県酒田の本間家ですが、市島家はそれに次ぐ豪農でした。江戸時代からの豪農は、県内にたくさんあった沼地の干拓事業などによって大きく耕地を増やした人々が主でした。開発許可を得るのも容易ではなく、従って県内の各藩と密接なつながりを持つ地主だけが土地を増やすことができました。
一方、県内のほとんどの豪農は明治に入ってから土地を増やしています。市島家と肩を並べる豪農となった 伊藤家 は、明治23年の調査ではまだ所有地1000町歩には達していませんでした。明治に入って米で納める年貢が金納に変わるという大変化の後、明治14年から松方デフレによって深刻な農村不況に見舞われます。この時、県内の農村は自作農の離村や中小地主の没落が急激に進行し、大地主に土地が集まってさらに大きな地主となっていきました。
そしてこの頃には、回船問屋などの商人が、商売で得た資金で土地を買い大地主になっていきます。およそこの3つのパターンで、県内の豪農は生まれました。
明治以降の新潟県の政治経済において、豪農は大きな役割を果たします。大規模な地主は出資者として、企業経営者として、貴族院議員などの政治家として、東京の財界とのパイプ役として地域に貢献していきます。その他の地主は村長として村の指導者となったり、農村改良に尽力したり、地域の指導者となっていきました。
協力 |
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北方文化博物館、県立歴史博物館、財団法人 渡邉家保存会、財団法人 継志会 |
豪農の遺産参考文献 |
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