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file-132 自然を守ってきたリゾート地 妙高・赤倉(前編)

  

始まりは江戸時代。自然を活用して
温泉、避暑、スキーのメッカへと開花


 江戸時代は温泉地として、明治時代は皇族や華族、富裕層に愛される避暑地として、戦後はスキーブームに乗って栄えてきた妙高・赤倉。地域住民のみならず、県外の人たちもその開発に携わり、リゾートとして盛り上げてきました。それほどまでに妙高・赤倉の自然は人々を魅了したのです。

「殿様が造った温泉郷」から皇族が愛する「避暑地」へ

高田藩が開湯させた日本唯一の藩営温泉

温泉&温泉街
温泉&温泉街
温泉&温泉街

赤倉温泉の源泉は妙高山の北地獄谷に湧いており、温泉街に流れてくるとちょうどよい湯加減に。加熱も冷却も不要のフレッシュな温泉だ。

 赤倉リゾートの幕開けは、江戸時代までさかのぼります。そのシンボルである妙高山は、古来より霊山として名高く、空海も修行の場に選んだほど。また、親鸞上人(しんらんしょうにん)も「この霊山に霊泉(温泉)あり」と地域の民に告げていました。しかし、当時は宝蔵院という寺が妙高山一帯を管理しており、湯を引くどころか一般の入山も禁止されていました。江戸時代後期になって宝蔵院の勢力が弱まると、地元の庄屋たちが役人を介して、越後高田藩主に「温泉を開発したい」と嘆願します。藩はその願いを叶え入れ、宝蔵院から土地の権利を買い取り、500本の大竹を管にして約7キロ離れた妙高山の源泉から赤倉へ湯を引いてくれました。日本唯一の藩営温泉「赤倉温泉」の誕生です。温泉街の幅広いメインストリートには共同浴場が二つ設けられ、宿屋もどんどん増えていきました。赤倉温泉にはこの時代から続く宿が今も多く残っています。

 

竹田さんと観光案内所
竹田さんと観光案内所

妙高観光局事務局次長の竹田幸則さんとえちごトキめき鉄道妙高高原駅前に隣接する妙高高原観光案内所。

六角堂

天心の終の棲家となった赤倉に、弟子であった横山大観らが建てた六角堂。

皇族の御来訪

赤倉観光ホテルにご来訪する皇族の方々。警備や食事の内容は何ヶ月も前から宮内庁と念入りに打ち合わせされた。

「赤倉温泉に来る人が変わってきたのは、やはり鉄道が整備されたことと、明治39年(1906)に岡倉天心が来たことが大きい」と言うのは、この地で生まれ、長年妙高・赤倉の観光に携わってきた、妙高観光局事務局次長の竹田幸則さんです。明治21年(1888)に直江津-長野間の鉄道が開通。田口駅(現えちごトキめき鉄道妙高高原駅)ができ、明治34年(1901)には田口-赤倉間を乗合馬車が走り、東京からの交通の便が格段に良くなりました。

 天心は、赤倉を「世界一の景勝の地」と絶賛し、この地に別荘(赤倉山荘)を最初に建てた人です。彼の美術活動の中心であった日本美術院を赤倉に移して「東洋のバルビゾン」にしようと考えていたほどでした。バルビゾンとは、パリ郊外にある村の名前で、『落ち穂拾い』で有名なミレーなど多くの画家を輩出しています。日本近代美術の父と称される天心が惚れ込む赤倉ですから、当時の富裕層である文化人、政治家、財界人から注目されました。

「大正元年(1912)には、東京の弁護士で衆議院議員の小出五郎と宮内庁の侍医頭入澤達吉らが中心となって「妙高倶楽部」を立ち上げます。赤倉を愛する名士が集まり、開発に努めたことで多くの別荘が建ちました。全国避暑地投票で3万を超える票を獲得して第1位に当選したことも追い風となり、赤倉温泉は高級避暑地として発展していくのです」と、竹田さん。その後、大正11年(1922)に熊本の細川侯爵の別荘ができ、3年後には久邇宮家の別荘が完成。華族や皇族の避暑地としても有名になりました。

「夏も非常に涼しいので、それまで軽井沢に行っていた人も赤倉に来るようになりました。大正時代に毎日新聞が行った平原の部でも日本一になり、前の役場にはその表彰状が飾ってありました。こうしていろいろと有名になっていったのです」

 他にも、明治時代の人気作家尾崎紅葉が赤倉温泉を「天下一」と、昭和5年(1930)には「アルペンスキーの父」として知られるシュナイダーが妙高山群を「東洋のダボス」と激賞。芸術家の岡本太郎は赤倉温泉を愛する友人と過ごすためのロッジ「赤倉サンクラブ」を建て、『日本百名山』の著者深田久弥は妙高山と火打山を「日本を代表する山」と褒め称えています。

 

 

国策として建設された赤倉観光ホテル

大倉喜七郎

赤倉観光ホテル以外にも、上高地帝国ホテル、川奈ホテル、ホテルオークラ東京をつくり、現在の帝国ホテルやホテルオークラの礎を築き上げた大倉財閥2代目総帥の大倉喜七郎。

ホテルからの眺望

レストランや大浴場、客室などホテル内のあちこちで絶景を堪能できる。カフェテラスからは斑尾山や信州の山々、野尻湖などのパノラマビューが広がる。

 竹田さんが「赤倉に来たら一度は訪れて欲しい。リゾートを体現している、モデルのようなもの」と言うのが、妙高山の中腹、標高約1,000mにある赤倉観光ホテルです。日本政府は外貨を獲得しようと国際リゾートホテルの建設推進、その国策の一環として昭和12年(1937)12月12日にオープンしました。創業者は大倉財閥の大倉喜七郎。現在の帝国ホテルやホテルオークラの礎を築いた人物で、赤倉観光ホテルの建設には非常にこだわり、設計士をスイスに送って勉強させました。国内の皇族のみならず、海外からの国賓も受け入れてきた、高原リゾートホテルの草分けです。広報担当の桜井大樹さんにホテルの魅力を伺うと「ここだけにしかない眺望、80年の歴史が培った空気感でしょうか」と言います。その何とも言えない居心地のよい空気感はどのように醸されていったのでしょう。

 

桜井さん

広報担当の桜井大樹さん。先輩からの教えを大切にしてきた。

ホテル創業の頃

初代ホテルの建築には、世界的に名高い山岳リゾート国スイスの様式を取り入れた。

ホテル創業の頃

ロビーは由緒ある佇まいを大切にしている。写真はモノクロだが絨毯は赤く、開放的な高い天井、落ち着いた調度品。冬になれば暖炉に火が入る。

 先輩たちからは、「お声がけを多くしてお客様とお話ししなさい。それでご希望が伺えるからこちらからご提案できる。お客様から尋ねなければ答えないホテルにならないように」と指導されました。また、1回目にお会いした時と、2回目にお会いした時では接し方も変えます。「例えば、到着時は初めての場所に緊張していたり、お疲れだったりします。まだリラックスされていなければ、リラックスするようにお話をする。おはようございますと大きな声がうれしい方もいれば、会釈の方が好きな方もいらっしゃる。お客様のニュアンスを感じ取って、お一人お一人に合わせて対応を変えることは悪いことではない」そう先輩から教わってきました。「国際的な山岳リゾートを目指して、世界中のお客様が赤倉にいらっしゃる。これからも私たち自身が魅力と感じるものを崩さないようにしながら、サービスや施設を整えて行きたいです」と桜井さんは語ります。

 また、桜井さんの言う素晴らしい自然の眺望は、「昭和31年(1956)に上信越高原国立公園に追加指定され、赤倉が自然とともに歩んできたことが大きい」と竹田さんは言います。国立公園制度の確立に尽力した田村剛先生が、その制度が始まる前に赤倉を訪れて手つかずの自然に感銘を受けました。国立公園に指定してほしいと地域も嘆願し、長年かかってようやく赤倉一帯が指定されたのです。他の地域では、国立公園は人里離れた山中にありますが、赤倉では人が住んでいる旅館街も特別地域に指定されています。そのため、より環境が守られてきたのです。
ホテル外観

創業時の建物は昭和40年(1965)に焼失、翌年に旧館を模した現在の本館が建てられた。麓にあった宮家の別荘を見下ろしてはいけないと正面の向きを振ったという逸話がある。

 

 後編では、自然を守ってきた赤倉の歴史、スキーで盛り上げてきた様子、インバウンドへの取り組み、地域を守る保勝協会などについて紹介します。

 

掲載日:2019/11/22

 

 

後編 → 自然を守ってきたリゾート地 妙高・赤倉(後編)
赤倉の自然の魅力は世界共通

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