
file-141 郵便の父・前島密と切手の世界(前編)
人のために良かれと願う心を常に持て
「日本の郵便制度を作った人物」として教科書で紹介されている前島密(まえじま ひそか)。日本の近代化に大きく貢献した上越市出身の偉人は、「切手」や「はがき」を命名し、消印や特定郵便局制度を発案したことでも知られています。偉業を成し得た原動力には、「進取・開明の精神でみんなのためになることをやる」という強い信念がありました。
越後人の気質と「母の教え」

現在の上越市下池部に生まれた前島密。幼少期を過ごした故郷の春の風景。/「日本の桜フォトコンテスト2015」でグランプリに輝いた寺尾昭人さん(上越市)の作品

駅逓権正(えきていごんのかみ)に任命された、明治3年(1870)に新式郵便制度を発案。その後、さまざまな分野において大きな功績を残した。
「18歳の若さで歴史的な大事件(ペリー来航)に立ち会った驚きは相当なものだったはずです。その衝撃が彼の視野を広げ、人生を決めることになったのでしょう。旅から戻った前島は、“学問の伴わない行動であった”と自戒し、江戸で機関学を、長崎で英語や数学を習得するなど学問に励んでいます。 “縁の下の力持ちになることを厭うな。人のために良かれと願う心を常に持てよ”という前島スピリットが今も残っていますが、進取・開明の精神でどんな時代でも新しいものを求め、皆のためになることをやるという彼の信念やそれに伴う行動力こそ、今の時代に生きる私たちにとっても必要なものだと感じます」
幕末、維新の大活躍

前島記念館にある石碑。碑銘(表面)の文字は、渋沢栄一による書。「日本文明の一大恩人がここで生まれた…」から始まる碑文(裏面)は、會津八一、坪内逍遥らによって草案された。

明治9年(1876)12月13日付で前島密に宛てた、大久保利通の手紙。前島記念館に展示されるさまざまな書簡から、要人との交流を知ることができる。

郵便切手に登場したのは、大正10年(1921)。それから10種類以上の記念切手や普通切手(1円)のモチーフとなっている。
慶応3年(1867)に幕臣として江戸幕府で活躍した前島は、翌年、「大阪遷都」を主張していた大久保利通を思い止まらせます。そして自ら建言した「江戸遷都」が実現。江戸は「東京」と改称され、「明治」と改元されました。前島は明治政府へ出仕し、日本の新しい国づくりに尽力します。
明治4年(1871)の東京―大阪間で郵便の取り扱いが開始。翌年には全国に郵便制度が敷かれました。それは、前島が「日本郵便の父」と称されるに至った大きな軌跡でもありました。全国を旅した経験を踏まえ、これまで政府が飛脚業者へ支払ってきた経費を東海道の宿駅制度を使った政府公用便の財源に替えることに成功。さらに、官民共用で収入を得ながら新しい通信網を全国に展開できると提言しています。明治3年(1870)の民部省駅逓権正就任から、明治14年(1881)に逓信次官を辞任するまでの12年間はまさに八面六臂の大活躍。郵便制度の創業をはじめ、陸運元会社、郵便新聞の発刊など毎年のように新しい事業に取り組んでいます。最も多忙を極めた時期には、1ヶ月の間に枕で眠った日が3日しかなかったそうです。

郷土の偉人“前島 密翁”を顕彰する会は、高校の同期生で発足。前島密の功績を称え、生誕の地から全国へその偉業を発信している。
人間 前島密と余地の人

前島密の生家跡に昭和6年(1931)に建てられた「前島記念館」。業績を紹介するパネル展示のほか、当時の手紙や遺品等、約200点の歴史史料から生涯をたどることができる。
それにしても、上越という地方の町から上京した一人の若者が、多くの偉人たちが活躍する明治の時代に、これだけの実績を残すことができたのはなぜなのでしょう。

前島密の故郷に、今なお多くの「絆」が残されている証となる貴重な記念誌。顕彰する会が、前島密没後100年を記念して平成31年(2019)に発行した。
生誕地であり、幼少期を過ごした故郷・上越にもたびたび帰省し、心を配っていた偉人、前島密。人生の原点を忘れず、母の教えを貫き、世のために尽くした彼はまさに「余地の人」であったといえます。
■ 取材協力
利根川文男さん/前島記念館 館長
堀井靖功さん/郷土の偉人“前島密翁”を顕彰する会 会長
下酉映暢さん/郷土の偉人“前島密翁”を顕彰する会 広報担当理事
石黒康嗣さん/郷土の偉人“前島密翁”を顕彰する会 事務局長
■ info
小説『親不知・子不知』
前島密の生い立ち、故郷や母子の絆、誕生秘話を、フィクション
を巧みに織り交ぜて描いた、顕彰する会メンバーの力作。
(令和2年12月1日発行)
問い合わせ 前島記念館
