file-149 奉納花火の今(後編)

  

まるで花火でつなぐリレーのよう
「ロングラン奉納煙火」で火を灯し続ける

 このコロナ禍によって片貝まつり(浅原神社秋季例大祭奉納大煙火)は、昭和20年(1945)に日本が第二次世界大戦で敗戦した年以来、75年ぶりの中止となりました。それにより、どのような変化が生まれたのか、どう未来へつなごうとしているのか、新たな動きの渦中にいるみなさんからお話を伺いました。

縦軸と横軸に、さらに思いがよられていく

75年ぶりの2年連続中止、空っぽの神社に子どもたちもさびしそう

吉原さん

吉原正幸さん。息子さんも同級会の会長で、勤め先がまつりの日に休ませてくれないと、それを理由に会社を辞職。「ふ〜ん」と言いながらも心の中では「よっしゃ!さすが俺の息子、いさぎよいぞ!」と思ったそう

 「生まれてから初めて。2年間も中止だなんて」と言うのは吉原正幸さん。片貝まつり実行委員会の委員⻑として長年まつりに尽力している人物です。「昭和40年(1965)に台風で延期はあっても中止なんてありませんでした。昨年はこの情勢なら仕方ないと思いましたが、本当はやりたいですよ!日本一の花火だと自負しているし、何とかしてやりたいという気持ちはみんなにある。今年もあがいて11月開催に延期しましたが、やはり中止になりました」と悔しそうです。江戸時代から続く片貝まつりが中止になったのは敗戦の年以来。戦時中だってやっていたし、長い歴史には飢饉や災害もありましたが、それでも「中止はなかった」のです。通常のイベント的な花火大会ではなく浅原神社への奉納花火という特質とともに、片貝人がどれだけまつりを愛してきたかがうかがえます。

 

2019古稀・永遠会スターマイン

吉原さんが所属する同級会「永遠会」の皆さんが、古稀のお祝いで上げたスターマイン/片貝町煙火協会提供

神社に展示してある筒

昔は木に箍(たが)を巻いて補強した筒を使ったそうで、まつり前は片貝中の桶屋が大忙しだった

 さらっとおさらいすると、片貝の花火は全国でも珍しい個人が上げる奉納花火。まつりの起源は「玉送り」といって、片貝の世帯1軒ごとに自作の花火を作り、町内で集めて浅原神社に奉納したこと。それは昭和になって花火製造に免許が必要になるまで続きました。片貝中から花火…つまり火薬が大量に集まるので、実際に事故が起きたこともありました。しかし片貝人はそれも承知で、大げさに言えばまつりに命をかけてきたのです。花火を上げる理由も、誕生、成人、結婚、還暦といったお祝いや、厄年の厄払い、故人への追善供養など。まるで片貝の各家庭から見えない導火線が浅原神社につながって、思いや祈りがパンパンに詰まった花火を弾かせているようです。それを見て喜んだり、しんみりしたり、熱くなったり…、片貝人は花火を通じて響き合い、まちがひとつになってきたのです。
 「次の世代に継承するためにも2年連続中止は避けたかった。片貝に生まれるとまつりに本気になるのです。花火、山車、露店が神社に集まるまつりらしいまつりですから、とても賑やかで子どもたちも楽しみにしています。昨年は中止になったのに、その日も子どもたちが神社にのぞきに来るのですね。そして、とてもさびしそうにしていました」と吉原さんは言います。しかし、今が踏ん張り時。長い歴史にはコロナ禍のように人知を越えたことが起き、その中でも負けずにまつりを存続させるにはどうしたらよいのか…。少子化も進む片貝では、今までにもいろいろな案が出ていましたが先送りにしていました。「今はそれを見直して、未来につなげるための機会だ」と吉原さんは考えています。

 

片貝だからこそ可能だったその日突然上がる「ロングラン奉納煙火」

安達さん

安達靖さん。「花火には引きつけられる力がある。長い時間をかけて準備するのに一瞬で消えてしまう。作る人の思い、上げる人の思い。全部が合わさって素晴らしい一瞬になる。煙火協会に花火をつなぐ役割を終了したら、まつり以外でも花火ができるイベントを考えていきたい」

安達さん講師の様子

「東京片貝会」があり、離れていても地元を熱く応援している。年に1回会員の中から講師を派遣して、中学校で講義をする。安達さんも子どもたちに教えた経験がある

 まつりの中止という閉塞感、打撃を受ける花火業界を支援したいと「片貝花火サポーターズ倶楽部」を立ち上げた人がいます。Uターン者の安達靖さんです。「転勤族で30年間片貝を出て働いていましたが、花火が大好きで毎年必ず帰省していました。全国の花火大会を巡ったり、ホームページを作成し片貝まつりの情報発信をしたり、片貝花火のファンクラブも作っていました」という花火通。退職して骨を埋める覚悟で片貝に戻った頃、「鍬とスコップ」の佐藤さんたちと出会います。花火が大好き過ぎて、いてもたってもいられなかった安達さん。「花火のまちだから、四季それぞれで上げられたらいいね。いつか毎日でも上げられたらいいな〜」と話し合っていました。手始めに元旦0時に新年の抱負を込めた新春スターマイン「福花火」の打ち上げを企画し、協賛者を募って花火を上げました。初回が2020年で、それからコロナが蔓延。この「福花火を開催した」という素地があり、思いついた「ロングラン奉納煙火」を実行に移しました。
 「片貝の花火は各ご家庭の個人花火で冠婚葬祭や人生の節目に奉納してきましたが、まつりが中止になると上げる機会がなくなってしまう。また、片貝は花火が大きな産業ですが、県内の花火大会が軒並み中止できびしい状態。そこで、そのお手伝いをしよう、全国的に片貝花火を支援したいとの動きの受け皿になってプライベート花火を上げよう」と考えました。愛好会ではなく、支援する立場です。令和2年(2020)6月15日に初めて個人奉納で上げ、10月末日まで120件の申し込みがありました。単純計算でほぼ毎日のように上げたことになります。それでもまだ花火業界はきびしいそう。11月中旬〜3月末まで『ふゆ物語』と銘打って続け、3月の最終日は片貝町煙火協会にバトンをつなごうとクラウドファンディングをやって、七転び八起きの語呂合わせで78万円の目標に143万円が集まり花火を打ち上げました。今年もまた来年3月末まで開催しています。

 

 また安達さんは、「ロングラン奉納煙火は片貝だからこそできた」と言います。花火を上げることが事前にわかると見物客が多く集まるため、打ち上げ日はお知らせしません。当日、上がる10分前にいきなり号砲を鳴らします。「花火は大きな音がします。除夜の鐘がうるさいと言われる時代に突然上げるのに、近所の人が神社に来たり、見えるところまで出たり。そして、いつも楽しませてもらっているよ、ケガをしないでね!とまで声をかけてくれる。花火のまち、片貝だからこそできるのです。来年につなげないと、と思います」

 

日本中の片貝花火ファンが「がんばれ!」と応援してくれる

GLAYERSの花火
GLAYERSの花火

GLAYERSのみなさんのメッセージを花火に貼って上げた。その思いは、花火師も驚くほどきれいに花開いたという

 「ロングラン奉納煙火」は片貝人以外も奉納できるので、全国から多くの支援とともに花火が上がりました。有名バンドGLAY(グレイ)のファンのみなさん「GLAYERS」も、悪疫退散祈願と、安全安心な環境で笑顔でGLAYのライブに集えるように、と世界中からお金を集めて奉納花火を上げてくれました。それにより関東圏で放送されるニュースになって、また多くの方が注目して応援してくれました。「花火は派手なエンターテインメントというイメージがある。しかし片貝は、いろんな思いが神社に奉納される。ポーン、ポーンとしか上がらない。つまんないね、かもしれませんが、一発一発が大事に花火師によって上げられる。奉納した人の思いに、見上げている人の思いも重なって他人の花火でもらい泣きする。花火で涙が流せる。素晴らしく良い時間。これを次につなげていきたいです」と安達さんは言います。
 吉原さんも、安達さんたちサポーターズに「感謝している」と言います。

 

 

未来へ向かう力は自然と心の中にある、ここ片貝で育てば

浅原神社

片貝まつりは9月9日、10日と決まっている。山車は30、露店は200程開くという

やせかまど

吉原さんの愛読書『やせかまど』。昔の片貝まつりの様子が記されている(出版 片貝町郷土史研究会)

 吉原さんにまつりの思い出を伺ってみました。「成人から始まって古稀まで花火を上げようという強い結び付きがあるのは、やはり他の地域とは違います。子どもの頃は、誇りはまだわかりませんでしたが、すごいまつりをやっているという意識はありました。今の子たちもおそらくそうじゃないかな。夏休みが終わると心の中はまつり一色。一昔前の先生たちは〝まつりボケ〟が始まったな、と言っていました。授業に集中できなくなるので(笑)。夜にお囃子の練習をしますが、ちょうど夜遊びをしたい頃でとても楽しい。今は女子もいますが、昔は男子のみ。うちは神社のそばにある大通りから入ったところで、練習後の帰り道は真っ暗で怖かった。それがまつりになるとぼんぼりの灯りが点いて昼間のように明るくなる。若い人たちがどんちゃん騒ぎをしていて、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。片貝の人たちはまつり好きで、花火の前にも夏の盆踊りがありますが男女の巡り会いの場になっていましたね。若い男衆が上半身裸で太鼓を叩き、浴衣の女性もやって来て。世話好きの大人たちが、あれはどこんちの娘だ、あそこんちの息子だって紹介し合う」
 こんな連帯感の強い地域なので、昭和31年(1956)に片貝町が市町村合併で小千谷市に編入されたときも「片貝は、片貝だ!」と反対者が続出。吉原さんのお父さんもそうで、ちょうど編入年と小学校入学が重なり、学校へ行ったら「小千谷市立」という看板が。それを見て入学式には参加したものの、授業には参加しませんでした。「おかげで2週間くらい、同じような子どもと保育園で勉強していました」と笑います。いまだに片貝の人たちは、自分たちの地域を「町」だと、編入前の町名の「片貝町」だと言うそうです。

 

 最後に吉原さんから若い次世代へメッセージをいただきました。「若い衆へ。今までの積み重ねがあるから、構えて考えなくてもいい。これだけへんぴな田舎で、こんなすごいまつりをしている。それがみんなには自然と心の中にある、ここ片貝で育てば…!」
 田村校長がおっしゃっていた歴史という縦軸、地域という横軸、そこに多くの人の思いや行動が合わさって、糸がさらに強くよられていく。片貝の奇跡はそこから生まれているのかもしれません。

 

成人玉送り

 

掲載日:2021/11/15

 


■ 取材協力
吉原 正幸さん/片貝まつり実行委員会 委員⻑、同級会「永遠会」 会長代行
安達 靖さん/片貝花火サポーターズ倶楽部 代表


■ 参考資料
片貝町煙火協会公式サイト
ロングラン奉納煙火2020総集編 「みんなの想いが花咲くまち片貝プロジェクト」(You Tube)

 

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