file-77 にいがたの映画祭

  

映画を通じた文化交流

映画祭とは

 カンヌ、ベルリン、ヴェネツィアで行われる映画祭が世界3大映画祭と呼ばれています。世界のトップスターがレッドカーペットを踏み歩く姿が毎年、テレビ・新聞を賑わせます。
 映画祭では、世界中から集められた映画作品の上映や作品審査、賞の授与が行われ、その動向にも注目が集まります。映画ファンのみならず、その光景は誰もが一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。
 日本では、1985年に「東京国際映画祭」が初開催。相米慎二監督の『台風クラブ』がグランプリを受賞しました。日本で最も古い歴史を持つのは大分県の「湯布院映画祭」で、1976年から開催されています。
 その後、地方でもそれぞれの地域性を持った映画祭が数多く立ち上がりました。北海道の「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」は、SF、ホラー、ファンタジーに特化しています。山形の「山形国際ドキュメンタリー映画祭」はドキュメンタリーにと、いまでは特色ある映画祭が全国各地で開催されています。

にいがたの映画祭はじまる

 
市川栄さん(にいがた国際映画祭実行委員長)

市川栄さん
1958年12月3日生まれ。映画監督のジャン=リュック・ゴダールと同じ誕生日。多い年は、年間300本は観ていた大の映画ファン。フランス、イタリア、日本映画が特に好き。神奈川大学在学中は映画サークルに所属。作品を撮り、コンペに出品するも落選が続いた。そんな時も審査員の見る目の無さを仲間たちと言い合った。会社員として勤めながら、「にいがた国際映画祭」の立ち上げ期から関わる。第24回「にいがた国際映画祭」実行委員長。

 新潟市でいまも続く「にいがた国際映画祭」の第1回が開催されたのは、1991年でした。その計画が持ち上がったのは1986年の秋です。「にいがた国際映画祭実行委員会の準備会」が当時の新潟市長も加わり、新潟市役所内に設置されました。映画祭のあり方をめぐり、様々な議論を重ねながら準備が進められました。
 本開催のきっかけとなったのは、1990年に財団法人新潟市国際交流協会が設立されたことがあります。映画を通じて、国際交流、異文化理解の促進を図れるのではないか。新潟という土地は日本海交流の拠点になることができるのではないかといった目的が明確化しました。新潟独自の映画祭に向けた準備が本格化します。
 はじめは市民のボランティアスタッフら10数名が集まり、映画の選定、会場の確保、広報や宣伝を行い、翌年2月に第1回が開催されました。テーマを「環日本海編」とし、旧ソ連、中国、韓国、北朝鮮、モンゴルの5ヶ国から集めた13の映画が上映されました。

シネ・ウインドと映画祭

 「にいがた国際映画祭」第1回の実行委員長を務めたのは齋藤正行さんでした。齋藤さんは、1985年1月の名画座「ライフ」の閉館を機に、この街に文化の灯りを消してはならないと奮起します。同年12月、市民からの出資と会員制、ボランティアによる運営を行う「新潟・市民映画館シネ・ウインド」を開館させます。映画の上映だけでなく、音楽や落語、演劇などの舞台としてもその場を活用、またまちづくり活動の拠点ともなるような場としました。
 当時、各町々にあった映画館の閉館が続いていた中、映画ファンのみならず多くの市民にとっても文化交流の拠点となりました。「シネ・ウインド」開館によって、生まれた人のつながりが「にいがた国際映画祭」開催を支えた大きな要素です。
 その齋藤さんは、環日本海をテーマに行われる「にいがた国際映画祭」を前にひとつの提言をします。「韓国と北朝鮮の映画をかならず入れるべき。新潟という土地だからこそ果たせる役割があるはずだ」と。朝鮮半島と歴史的にも交流の深いこの新潟という土地で、その二つの国の映画をかけることを提案しました。
 以後の映画祭にもその方針は受け継がれ、「にいがた国際映画祭」の特徴のひとつになっています。

その後の展開

 
第2回にいがた国際映画祭の一場面

第2回にいがた国際映画祭。ゲストに映画評論家の佐藤忠男さん(上段右から3番目)を招いた。終了後、実行委員のメンバーと撮影。

 第2回の「にいがた国際映画祭」では、上映作品の地域はベトナム、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピンなど東南アジア地域にも広げられました。ゲストを招く企画もこの頃からです。第2回のゲストは新潟市出身で映画評論家の佐藤忠男さんでした。
 佐藤さんは鋭い映画批評を書くだけでなく、アジア地域をはじめ世界中の映画作品を発掘、紹介された方です。後に、日本映画学校校長も務めます。また当時、「福岡映画祭」(福岡県)に関わっていたこともあり、「にいがた国際映画祭」の実行委員にもぜひ見に来てもらいたいと声をかけたそうです。
 新潟の映画祭を見て、「企画の意図が散漫になっている。実行委員会が本気で伝えたいテーマはなにか、紹介したい作品はなんなのかしっかりと考えてみる必要がある」との厳しくも期待の込もった感想を述べました。現在、「にいがた国際映画祭」実行委員長の市川栄さんはその時、実行委員会メンバーでそれを聞いていました。その後、市川さんは「福岡映画祭」へ出かけ、佐藤さんとの交流も続いたそうです。
 そして「福岡映画祭」に出かけていくうちにスタッフにも知り合いができ、お互いに行き来することもあったそうです。また、全国各地の映画祭との交流も生まれました。「山形国際ドキュメンタリー映画祭」(山形県)、「高崎映画祭」(群馬県)、「なみおか映画祭」(青森県)などの映画祭スタッフとも交流が生まれ、実行委員の数名で行くこともあれば、逆に新潟に来てもらうこともあったそうです。

全国初

 「にいがた国際映画祭」はその後も、実行委員会の奮闘とともに回を重ねていきました。中には全国初公開となる作品もありました。1998年の第8回では香港の映画、『上海グラント』を全国初公開しました。県外からのお客さんも多く来場するようになりました。
 第1回からの方針であった韓国、北朝鮮の映画上映に関しても初公開がありました。映画祭初期の頃、北朝鮮の映画作品が配給会社にはないことがありました。その時には、実行委員会のメンバーで新潟朝鮮総連を訪ねて、映画を借りてきたこともありました。映画を通じた文化交流という目的を伝えると、新潟朝鮮総連にあった映画を借りることができたそうです。

映画だけでなく

 
にいがた国際映画祭の会場

にいがた国際映画祭の会場、市民プラザ受付の様子。

 市川さんが実行委員長だった1994年の第4回からは国際交流パーティが開催されるようになりました。インド料理や韓国料理など市内の料理店に出店協力してもらい、様々な外国籍の方たちと市民らの交流の場が設けられました。
 また、映画祭の中でファッションショーも開催しました。市内の服飾系専門学校と連携し、生徒が作ったアジア地域の民族衣装を着てのファッションショーです。キャットウォークを作り学生らが歩きました。
 他にも写真展や演奏会、落語会の開催と映画上映だけでなく様々な催しが開催されました。 多くの市民にとっても国際交流、異文化理解の場となっていきました。
 映画の上映だけでなく、様々なイベントを開催するには行政や会場など関係機関との交渉事も増えていきます。市川さんはこの頃から、「実行委員長は、みんなのやりたい!をくみ上げること、そこで上がった意見を実現することが仕事だった」と語ります。
 1999年頃には観客動員数7000人を越える集客となり、活況ぶりをみせることになります。

file-77 にいがたの映画祭

  

映画祭に行く、から関わる、作るへ

長岡の映画祭

 新潟で映画祭が始まって数年の後、長岡でも映画祭が開催されるようになります。
 1990年2月、長岡観光会館という映画館が閉館しました。これで長岡市内にあった5つの映画館がすべて閉館となったのです。このことを受けて、市民ら有志が集まり市民映画館を作れないかとの検討がはじまりました。「市民映画館をつくる準備会設立のための市民の集い」が3月には開催されました。
 翌年には組織を「市民映画館をつくる会」とし、仲間を募りながら自主上映会や全国のミニシアターへの視察を行います。株式会社設立のための資本金の募集も同時に進行、目標を1,000万円以上としました。
 活動開始から約3年後の1992年12月、「映画館を作るための映画祭」が初開催されました。映画監督の大林宣彦さんを迎え、『青春デンデケデケデケ』『ふたり』『はるか、ノスタルジィ』といった大林監督の作品が上映されました。

映画館を作るための映画祭

 
 第5回長岡アジア映画祭の実行委員のメンバー
 

第5回長岡アジア映画祭の実行委員のメンバー写真。
 

 

 当初、長岡の映画祭の目的は、映画館の建設にありました。新潟市にある「新潟・市民映画館シネ・ウインド」のような、映画の上映だけでなくあらゆる文化活動の拠点としての映画館建設でした。
 第1回の映画祭には「激論フォーラム」と題した討論会があわせて開催されました。司会は『阿賀に生きる』で撮影カメラマンを務めた映画監督の小林茂さん。パネリストには、商店主、バンドマン、子ども劇場代表者などを迎えそのあり方が模索されました。
 しかし、会の目的であった映画館の建設が見直しをせまられる機会がきます。1993年12月、三条東映ムービル「長岡マリオン」が同市内に開館しました。この時にも、メンバー間で議論が交わされましたが、一度、映画館建設を取り下げることになりました。それまでに募っていた出資金の返還作業も行われました。
 

その後の映画祭

 第5回長岡アジア映画祭会場内の様子
 

第5回長岡アジア映画祭の会場、長岡リリックホール客席の様子。
 

 

 「市民映画館をつくる会」は1996年、第1回「長岡アジア映画祭」と名称を変更して映画祭を開催しました。目的を見直しながらも活動を継続していきます。
 2012年に、組織名の変更があり「コミュニティシネマ長岡」としました。回数は引き継ぐかたちで、第17回開催より映画祭の名称は「ながおか映画祭」となりました。
 その第17回、2012年の開催から新潟大学教育学部附属長岡中学校社会創造科の生徒も企画に参加するようになりました。生徒たちから、『純子はご機嫌ななめ』『ネコ魔女のキポラ』という2作品を親子向けの無料上映を企画、実施しました。昨年の第18回には、『阿賀に生きる』の上映後、小林監督と社会創造科の生徒のトークも行われました。
 映画祭を継続する中で、企画する側の裾野も広がっていきました。映画館という箱モノの建設から、映画祭というひとつの場づくりとして市民の中にもゆっくりと浸透していっているのではないでしょうか。
 今年もまた9月の第19回開催に向けて準備が進められています。

    

 

映画人の育成

 映画を観ることから、映画を撮るという取り組みも始まっていきます。1997年には映画づくりを学ぶ「にいがた映画塾」が開講しました。その背景には、手塚眞監督による映画『白痴』の制作がありました。その制作スタッフらが講師となり、「市民にも広く映画制作に興味を持ってもらうこと、そして映画人の育成をしたい」と組織されました。
 手塚監督、『阿賀に生きる』の佐藤真監督などが、カメラの扱い方、シナリオの書き方、映像表現の手法などの講義と実践を行いました。その結果、受講者の中から自主映画を撮る人も出てきました。
 そして、自主映像作品を制作する人たちの発表の場として同年、「インディーズムービーフェスティバル」が立ち上がりました。作品のジャンルを問わず、あらゆる映像作品の発表の場として毎年開催されるようになりました。
 一方、長岡でも「ながおかインディーズムービーコンペティション」が1999年からはじまりました。こちらは、全国から公募した作品に対し審査を設け、グランプリや準グランプリ、監督賞が選ばれました。
 自主制作映画の発表をきっかけにテレビ・映像業界を目指し、就職していく人も出てきました。映画を観る側から、作る側へ、そしてそれを仕事にしていったのです。
 そう思うと、新潟には映画を観る場所があり、それを作りたいと思った人が学べる場所もある。そして、発表の機会があるという恵まれた町なのかもしれません。

映画祭のいま

 近年、レンタル店の普及や低価格化、インターネット配信などの背景もあり、映画館で映画を観るという人は減少傾向にあります。映画祭の観客動員数もまた減少傾向にあるのが現状です。また、実行委員会の組織運営、スタッフの募集も課題となっています。
 今回、取材に応じていただいた市川さんは、1993年の第3回から2000年の第10回まで実行委員長を務めました。そして、2014年の第24回で再び実行委員長に抜擢されました。
 当時から変わらない、「にいがた国際映画祭」を企画する魅力を「多数決で作品を決めないこと」とお話ししてくださいました。「数の論理だけが正しいわけではない、たった一人の意見でもその作品を紹介する熱意や目的を持っていれば上映するようにしている」そうです。
 まずはじめに実行委員のメンバーが映画を楽しみ、その作品をお客さんと共有する喜びを大切にしたいそうです。そこには「スタッフが楽しんでなければ、お客さんだって楽しめないでしょう」という思いが込められています。
 映画祭にスタッフとして参加する機会は誰にでも開かれています。映画祭もまちづくりも、参加し企画してその当事者となるのが一番楽しめるのではないでしょうか。

<参考ホームページ>

▷ ・にいがた国際映画祭
▷ ・新潟・市民映画館シネ・ウインド
▷ ・ながおか映画祭
▷ ・コミュニティシネマ長岡ブログ
▷ ・にいがた映画塾(~2002年)
▷ ・にいがた映画塾スタッフのブログ(2008年~)

 


■取材協力
市川栄さん(にいがた国際映画祭実行委員長)

■資料提供
関矢茂信さん(コミュニティシネマ長岡代表)
    

 

file-77 にいがたの映画祭

  

県立図書館おすすめ関連書籍

「もっと詳しく知りたい!」、「じっくり読みたい!」という方、こちらの関連書籍はいかがでしょうか。以下で紹介しました書籍は、新潟県立図書館で読むことができます。貸し出しも可能です。ぜひ、県立図書館へ足をお運び下さい。

▷『僕の映画人生』

(大林宣彦著/実業之日本社/2008年)請求記号:778 /O12
 映画「この空の花~長岡花火物語」の監督として、長岡と縁の深い大林宣彦さん。その大林監督が70歳の時に出版されたこの本は、少年時代のエピソードに加え、主な作品の背景も監督自身によって語られた、「ぼくの自伝のような、恥ずかしくもまだまだ早過ぎる一冊」(「“あとがき”は蛇足でしょうが、書きたいことは有ります。」より)。映画に携わる者として、また人生の先輩として、大林監督からのたくさんのメッセージが伝わってくる1冊。大林監督が「格別の悦び」と言う、和田誠さんの装丁も必見です。

▷『映画が街にやってきた―「白痴」制作新潟の2000日物語―』

(「白痴」の記録編纂委員会編/新潟日報事業社/1999年)請求記号:N /778 /H19
 1998年、一本の映画が新潟で制作されました。その映画のタイトルは『白痴』。この本は、監督である手塚眞氏と、「安吾の会」世話人で「新潟・市民映画館シネ・ウインド」代表の斎藤正行氏の出会いから始まる、映画制作プロジェクトの記録集です。制作プロジェクトは困難を極めますが、新潟のボランティアや「映像十字軍」の協力など、さまざまな試みが行われていきます。ちなみに、このとき生まれたのが「にいがた映画塾」。自主映画制作・上映を支援し、「新潟インディーズムービーフェスティバル」などの上映会で新潟の映画文化を盛り上げ続けています。
 「映画『白痴』をめぐる新潟の記録」(「はじめに」より)として、また、新潟の映画事情を読み解く資料として、おすすめの1冊です。

▷『街の記憶 劇場のあかり 新潟県 映画館と観客の歴史』

(新潟・新潟市民映画館鑑賞会/2007年)請求記号:N /778 /Ma16
 新潟で映画が好きな人なら一度は足を運んだことがあるのではないでしょうか。新潟・市民映画館シネ・ウインド。今年も「にいがた国際映画祭」の上映会場となりました。
 そのシネ・ウインドが発行する『月刊ウインド』の250号を記念して出版されたのがこの本です。新潟県の映画館の歴史が、地域ごとにまとめられていますので、「かつて通ったあの映画館が掲載されている」という方もいらっしゃるかもしれません。また、聞き書きや座談会を収録した記事に加え、「記憶と思い出」の項目には観客の当時の思い出も記されており、その街の人々の営みまでも思い起こさせてくれます。

ご不明の点がありましたら、こちらへお問い合わせください。
(025)284-6001(代表)
(025)284-6824(貸出延長・調査相談)
新潟県立図書館 http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/

 

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