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file-92 北国街道と岩室宿の発展

  

街道の歴史をたどると、人々の生活が見えてくる


 越後(現在の新潟県)と信濃(現在の長野県)を結ぶ北国街道。古くから、人々や物資が、時には軍兵が行き来した、新潟県にとって重要な交通路の一つです。江戸時代には寺社参詣の流行に伴い、多くの文人や庶民がこの街道を通って彌彦神社と岩室を訪れました。

 今回は、「街道」の持つ様々な役割や表情をたどり、江戸時代の人々の暮らしをひもといてみましょう。


北陸道から北国街道へ

妙高山

越後と信濃の国境に立つ妙高山。山麓を東側と西側から巡る、いくつかの古道があったことがわかっている。


 北国街道は、江戸時代に幕府によって、中山道の終点・追分宿(現・長野県北佐久郡軽井沢町)から高田城下(現・新潟県上越市)までをつなぐ道につけられた名前です。その後、佐渡で産出される金銀を運ぶ街道として重要度が増すと、出雲崎まで延長され、やがて新潟湊(現・新潟市中央区)が発展すると、新潟市までを「北国街道」と呼ぶようになりました。

 しかし、幕府の呼び名とは別に、古代からそこに暮らし、行き来していた人々は、「善光寺道」・「中山道」・「信州道」・「北国道」など、様々な呼び方をしていたようです。『新潟市史』には、「奥州道」・「庄内道」・「北国浜街道」という名称も記されています。古代に整備された「北陸道」の一部を取り込んでいることから、「北陸道」と呼ぶ人も少なくなかったようです。

 この「北陸道」という名前は、10世紀に編纂された法令集『延喜式(えんぎしき)』に登場します。今の福井・石川・富山・新潟の辺りを合わせた地域名であり、この地域の幹線道路名でもありました。新潟県内では、青海(現・糸魚川市)・名立(現・上越市)・和島(現・長岡市)・弥彦などを通って、寺泊から佐渡に向かうルートでした。

上杉謙信

軍事上の必要から、越後国内の交通路整備に乗り出した上杉謙信。その後の景勝の時代に主要道が整った。


 中世に入り、街道は大きく進化します。戦いに勝つには、軍兵と物資のスムーズな移動が必須と考えた名将たちが、交通路整備に乗り出しました。越後でも、上杉謙信や景勝が道の造成や宿場の整備に着手。交通と軍事上の重要拠点である宿場を掌握して、越後全土を制圧し、信濃に進攻していきました。

 江戸時代に入ると、幕府は上杉氏が整備した交通路を引き継ぎ、近世街道を整備していきます。東海道、中山道などの五街道と、それに準じる脇街道(わきかいどう)です。北陸道から北国街道へ、街道は名前やルートを変えながら、新しい政治や経済、時代を映し、発展していったのです。

 

宿場に課せられた役割

『正保越後絵図』

『正保越後絵図』

『正保越後絵図』

北国街道が初めて登場した地図。街道により主要な宿が結ばれている。『正保越後絵図』(新潟県立図書館蔵)に記された現・新潟市周辺。岩室村、弥彦村、新潟町などが記されている。


 北国街道が初めて地図上に表れるのは、正保2年(1645)の『正保国絵図』です。信濃・追分宿から、関川宿(現・妙高市)を経て越後に入り、高田・直江津・寺泊を通り、いったん内陸に向かって峠を越えて弥彦・岩室へ。角田山麓の村々を通り、布目(現・新潟市西蒲区)・赤塚(現・新潟市西区)を経て、海沿いを新潟へと続いていきます。

 ここで、江戸時代の宿場の役割を探ってみましょう。
 江戸時代に入り、幕府の公用の荷物、書状などを運ぶ、長距離輸送の仕組みが整備されます。宿場ごとに馬や人足(荷物の運搬に従事する労働者)を替えて荷物を運ぶ「宿駅伝馬(しゅくえきてんま)制度」が本格的に導入されました。公用の荷物を積み替え、次の宿場へ送り届けることが、宿場の最も重要な役割だったのです。そのため、定められた人足数と馬数の常備が宿場には義務付けられていました。
 やがて、参勤交代の確立などに伴い、街道の交通量も増えていきます。それにも関わらず、幕府公用の運送費用は低料金に設定されていたため、各宿場の宿駅伝馬制による収入は実質的に目減りし、不満の声が上がるようにもなっていきました。
 また、交通量の増大により宿場の人馬が不足し、近隣の村々から集めるようになりました。天保7年(1836)に弥彦村の百姓代(百姓の代表)が出雲崎代官所に賃金の3割増しを願い出ている記録があります。代官所は訴えをのむ形で「3割増しを今後10年間継続する」と返答しています。

 江戸時代後半にもなると、庶民たちの往来も増加し、宿場がにぎわいを増す反面、宿駅伝馬制度への不満はますます強まっていったと考えられます。街道が人と物の流れを活発にする一方で、宿場の仕組みには課題も多かったようです。

北国街道を通った人々

北国街道

岩室村内の北国街道は、樋曽(ひそ)集落から、山麓を南下し、弥彦村上泉に接続するまでの約6キロ。


北陸街道に沿う道標

かつての北陸街道に沿う道標は、当時をしのんで平成に入ってから建てられたもの。近隣への距離も示す。


 直江津や出雲崎、寺泊という交通の要所と越後一ノ宮・彌彦神社があったため、多くの著名人が北国街道を歩いたことが書物に記され、今に伝わっています。

 古くは、室町時代に成立した『義経記(ぎけいき)』です。寺泊に漂着した源義経が、彌彦神社を参拝した後、海沿いの道を通って、岩船・瀬波(村上市)に向かったとあります。
 江戸時代には、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の中で、北国街道を歩いています。同行した門人の『曾良旅日記』によれば、元禄2年(1689)7月3日に、「新潟を立つ。馬高く、無用之由、源七指図にて歩行す。申の下刻、弥彦に着す。宿取り、明神へ参詣」と記されています。馬の駄賃は高いと宿の主人が言うので、そのアドバイスに従って、新潟から徒歩で弥彦へ。午後5時に着いて、彌彦神社を参拝したようです。翌日は午前7時に出発、峠を越えて、弘智法印(こうちほういん)の即身仏(瞑想を続けて絶命し、ミイラ化した仏)を見、その後、寺泊の西生寺を詣でてから出雲崎をめざしました。
 文化11年(1814)、ユーモアあふれる紀行本『東海道中膝栗毛』の作者、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が弥彦・寺泊を訪れています。その旅を題材にして書いた『諸国道中金の草履』に、弥彦を過ぎた後、波打ち際を3里(約12km)歩いて寺泊に着いたとあります。
 幕末には、松下村塾を開いた長州の思想家・吉田松陰も訪れています。嘉永5年(1852)2月14日に、新潟見物の後、内野・赤塚・稲島(現・新潟市西蒲区)を経て岩室に到着。翌日は、彌彦神社を参拝して寺泊・出雲崎へ向かっています。

 このように、江戸時代には彌彦神社に多くの著名人が訪れていたことがわかっています。では、一般の庶民にとってはどうだったのでしょう。第二部では、江戸時代の庶民のレジャーに焦点を当てて、北国街道をたどっていきます。



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