関川村「渡辺氏庭園」

file-165 新潟の庭園文化~孤高の庭師・田中泰阿弥~(前編)

伝統的な日本の美が数多く残る新潟

 新潟県には大地主(豪農)や豪商たちが残した邸宅、寺院や町屋などが多く残っています。下越地方にはそれらの歴史的建造物や庭園が集中する全長約150㎞(国道290号線)の「にいがた庭園街道」と呼ばれる街道があります。令和元年(2019)に国土交通省ガーデンツーリズム制度に認証登録され、国指定名勝や国登録有形文化財も数多く含まれています。そんな「にいがた庭園街道」に残る庭園や、京都をはじめとした日本各地の庭園の作庭や、修復を手掛けた新潟県出身の庭師がいました。

柏崎が生んだ孤高の庭師・田中泰阿弥(たいあみ)

 明治31年(1898)、新潟県刈羽郡中鯖石村大字加納(現在の柏崎市加納)の笠原家の次男として笠原泰治、後の田中泰阿弥は生まれました。実家は農家でしたが、兄の米作は農業の傍らで庭師・相澤熊蔵(あいざわくまぞう)の弟子として造園技術を学んでいました。この相澤という人物は、「江戸で徳川家へ出入りしていた」、「大名のお抱えの庭師だった」といわれるほどの庭師で、明治維新後に江戸を去って加納に移り住み、刈羽、柏崎界隈では庭師の開祖といわれる人物でした。

 兄である米作が弟子だったこともあってか、相澤は泰治を「サイ」と呼び、よく可愛がっていたそうです。「サイは目が大きくて可愛い坊だ」と言って頭をなでてくれたことがあり、このことについて泰治は後に「一種の深い感銘を受けた」と語っています。

 泰治(田中泰阿弥)の生涯について、特に幼い頃や修行時代については、あまり資料が残っていません。泰治がなぜ庭師を志すことになったのかは想像するしかありませんが、兄・米作やその師である相澤と関わったことが大きな要因になっているのかもしれません。

修行、そして日本全国を回る放浪の日々へ

 泰治は米作の作庭の手伝いをはじめ、その後大正3年(1914)、16歳で東京の植木屋に奉公に出ると、本格的に造園の世界に入っていきます。そして20歳のとき、兄の添書(紹介状)を携えて京都岡崎在住の庭師・中村萬次郎の元に修行に出ます。金沢出身の中村は、当時南禅寺の瓢亭の庭などを造っており、泰治もその現場へ行っていました。泰治は中村の下で3年間腕を磨きました。昼間は造園を学び、夜は連日茶道や華道、さらに書や俳句や謡(うたい)まで、それぞれの師匠の下で熱心に稽古に打ち込みました。特に茶道、書、俳句などは生涯にわたって続け、多くの書や俳句を残しています。

 3年間の修行の後、泰治は中村の下を離れ、渡りの植木職人として各地を転々としながら複数の庭師の下でさらに修行を積みます。27歳のときに茶道の師匠のつながりから京都黒谷の田中家の養子となり、名前を田中泰治と改めました。
 庭師として独立した泰治は、昭和4年(1929)、銀閣寺の通称で知られる慈照寺において足利義政の茶席跡や古庭園の「洗月泉」(せんげつせん)、「相君泉」(そうくんせん)の遺構を発掘したことで、銀閣寺の庭師となりました。この銀閣寺の庭園の修復をきっかけに、数々の京都の名庭の修復工事に携わるようになりました。そして多くの師の下で伝統的な日本庭園の美を学んだ経験を活かし、さらに新しい庭園を創造できる天才庭師として、その名が世間に知れ渡るようになりました。私生活では結婚もし、20代後半から30代前半で公私ともに人生の転換期を迎えました。

 独立後は仕事があるところにはどこへでも出向き、53歳で「田中泰阿弥」と名乗るようになった後も、京都や東京、鳥取、千葉、静岡、鎌倉、そして新潟など全国を転々として作庭や庭園の修復を行いました。家族がいる自宅は京都にありましたが、ほとんど戻ることはなかったそうです。泰阿弥は昭和53年(1978)に80歳でその生涯を終えますが、その際もこれから作庭しようとしていた施主(依頼主)の家で亡くなっています。亡くなる直前の泰阿弥が、「40年も放浪生活をしているがそろそろ終いにしなければならない」と書いた資料が残っています。このことからも、泰阿弥が人一倍仕事に熱心で、造園に生涯を捧げたいと思うほどの情熱を持っていたことが想像できます。

田中泰阿弥が新潟に残した庭園

 新潟県の5か所の国指定名勝庭園のうち、泰阿弥が作庭に関わっているのは柏崎市の「貞観園(ていかんえん)」、関川村の「渡辺氏庭園」、新発田市の「旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園」(清水園)の3か所です。これらの庭園について、新潟、首都圏、京都で庭園の鑑賞法の講座などを行っている藤井哲郎さんにお話をお伺いしました。

藤井哲郎さんプロフィール
新潟市在住。20代からの日本庭園好きが高じて、2015年に庭屋一如(ていおくいちにょ)研究会を立ち上げ「日本庭園・数寄屋造りのみかた」の講座を開始。伝統建築と日本庭園鑑賞の愛好者を増やし、建物・庭園を後世に残すことをライフワークとする。新潟県内外で450回以上の鑑賞法講座、20施設以上のガイド養成講座で講師を務めるほか、「にいがた庭園街道」などの文化観光企画も立ち上げている。

 

泰阿弥が修復した貞観園の石庭 (画像提供:庭屋一如研究会)泰阿弥が修復した貞観園の石庭
(画像提供:庭屋一如研究会)

 柏崎市にある「貞観園」は、旧高柳町の大庄屋だった村山家の庭園です。江戸時代中期に作庭された後に数回手が加えられ、明治初期に現在の姿になったといわれています。泰阿弥が修復に関わったのは昭和7年(1932)で、どの箇所を修復したのか記録が残っていませんが、前庭として京都の龍安寺の石庭のような、石組の枯山水庭園を造った、という記録だけは残っています。ここには15個の石があり、現在は自然に生えた苔に覆われていますが、その下には龍安寺の石庭と同じく、京都で採れる希少な白川砂が使われています。

 昭和12年(1937)に国の名勝指定を受けた貞観園は、全国屈指の美しい苔庭といわれるほど、庭園内は苔で覆われています。生息している苔の種類は100種類を超えており、幽玄な雰囲気を醸し出しています。

(画像提供:庭屋一如研究会)

 貞観園の苔はすべて自然に生えたものです。湿気が滞留しやすい地形のため、苔が育ちやすい環境となっています。

画像の赤丸部分が猿面石
(画像提供:庭屋一如研究会)

 庭園内には佐渡で採れた鮮やかな赤色が特徴の赤玉石が多数据えられています。その中でも特徴的なのが猿面石と呼ばれる石で、一つの石の赤い部分が顔、灰色の部分が頭で、猿の横顔に見えることからこの名が付いています。

 関川村にある「渡辺氏庭園」は廻船業、酒造業や新田開発で財を築いた豪商・豪農・大庄屋である渡邉家の庭園です。江戸時代中期に京都から庭師を招いて作庭されたといわれています。昭和23年(1948)に泰阿弥の手によって修復が行われ、現在の形になりました。しかし、こちらも泰阿弥がどこを修復したのかははっきりとわかっていません。

屏風絵のように見える客間上座からの景色
(画像提供:庭屋一如研究会)

 藤井さんが立ち上げた庭屋一如(ていおくいちにょ)研究会の名前の由来にもなっている「庭屋一如」という言葉は、「庭と建物の調和がとれていて、一体になるように設計された空間」という意味があります。「渡辺氏庭園」は、庭屋一如の代表例として書籍やテレビ番組で取り上げられるほどで、客間の上座から見える庭の景色は、3本の柱が屏風の折り目のようになっていて、まるで屏風絵を見ているような景色が楽しめます。また、建物の庇を支える柱もなるべく少なく、細く造られており、客間から見える景色を邪魔しない造りになっています。

深い庇を支える細い柱
(画像提供:庭屋一如研究会)

 泰阿弥が「渡辺氏庭園」のどこの箇所に手を加えたかはわかっていませんが、茶室は泰阿弥が造ったことがわかっています。そして藤井さんは「これは私の推測でしかありませんが、泰阿弥が茶室を造ったのなら、茶室から見える庭も造ったのではないかと思います。」と言います。

藤井さんが泰阿弥が造ったと推測する茶室から見える庭
(画像提供:庭屋一如研究会)

 「渡辺氏庭園」の茶室へ向かうまでの庭・茶庭には、手と口を清める蹲(つくばい)の奥に小さな井筒(井戸)があります(写真の赤丸部分)。「これからおもてなしに使う水は綺麗な水です」ということを表現するために、あえてここに置かれています。
 先ほどの客間から見える庭とこの茶庭では、大きく雰囲気が変わっていることがわかります。「渡辺氏庭園」は、客間からは華やかな庭、茶室からは侘びた庭が見えるように造られており、「庭屋一如」な空間となっていることを体感できます。

 「渡辺氏庭園」や茶室の修復を終えたのちに、泰阿弥が修復に取り掛かったのが、新発田市にある「清水園」です。江戸時代に新発田藩主であった・溝口家の下屋敷に、幕府茶道方の縣宗知(あがたそうち)の指南の下で作庭され、昭和28年(1953)から当時荒廃していた清水園の修復に取り掛かり、現在の形になりました。庭園の原形は縣宗知によるものですが、現在残っている庭園はほとんどが泰阿弥の修復したものです。

特徴的な大きな礼拝石から見える清水園の風景
(画像提供:庭屋一如研究会)

 画像手前にあるのは、礼拝石という神仏に祈る場所で、ここから180度見える景色がその庭園で一番綺麗な景色になるように庭が造られます。清水園は近江八景の風景を取り入れています。近江八景のおこりは、江戸時代とする説もありますが、室町時代頃に、近江国(現在の滋賀県)の8つの優れた風景を選んだものです。江戸時代には浮世絵師の安藤広重が、浮世絵の風景画を描いたことでも知られています。

 この礼拝石から見て左手に見える茶室・夕佳亭(ゆうかてい)の付近は近江八景の『堅田(かたた)の落雁(らくがん)』を表現しており、夕佳亭は琵琶湖に突き出して造られた仏堂、『浮御堂(うきみどう)』に見立てられています。清水園は池のほとりに5つの茶室(桐庵(とうあん)、夕佳亭、翠濤庵(すいとうあん)、同仁斎(どうじんさい)、松月亭(しょうげつてい))があり、それらはすべて泰阿弥が修復時に建てたものです。

夕佳亭と中から見た風景
(画像提供:庭屋一如研究会)

 夕佳亭は西向きに大きく窓が開いています。これには意図があり、夕方になると水面に反射した沈む夕日の光が茶室内に入り、天井や壁がキラキラと輝くように設計されています。
 もうひとつの茶室・松月亭にも大きな窓があります。これは東向きで、昇る月が綺麗に見えるように設計されています。特に中秋の名月を空と池に映して見ることができたようです(現在は松が伸びているため難しい)。このように泰阿弥は、季節や時間も演出の一部として取り入れておもてなしする茶室を造り上げたのです。

 現在も新潟に残る庭師・田中泰阿弥の足跡を辿ってきました。しかし新潟にはまだまだ魅力的な庭園がいくつもあります。後編では、藤井さんに新潟の庭園や庭園文化についてさらに詳しくお話を伺います。

 

掲載日:2024/3/25

 

【出典】
・雑誌『室内』(工作社、1974年11月1日発行)
・田中泰阿弥研究会『孤高の庭匠 田中泰阿弥展』(2005年7月)

【取材協力】
・庭屋一如研究会 主宰 藤井哲郎さん

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