file-21「文学の中の新潟~温泉編」~「雪国」の越後湯沢
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」
(川端康成「雪国」)
川端康成が泊まった「かすみの間」。この部屋への宿泊はできない。観覧料は宿泊客無料、見学のみは500円。
かすみの間に隣接して「雪国」の各版やゆかりの出版物、写真などを展示。合わせて高半に宿泊した多くの文化人の墨蹟を見ることができるようになっている。
雪国に登場する駒子のモデル、芸者の松栄さんが芸者時代に愛用した硯箱と結婚後ただ一つ身につけていたといわれる指輪は、松栄さんの夫から寄贈されて高半に置かれている。
日本の現代文学の中で最も有名な書き出しの一つですが、このトンネルというのは群馬県との境にある谷川岳を貫く清水トンネルであるといわれています。長さ9,702メートルは完成当時日本一、世界でも9番目の長さでした。トンネルの貫通による上越線全線開通は昭和6(1934)年9月。川端康成(1899-1972)が初めてこのトンネルをくぐったのは、3年後の春のことです。
温泉で執筆することを好み、群馬県の水上温泉などをよく訪れていた川端は、よい温泉があると勧められて湯沢を訪れます。その年の12月には再び訪ねており、この時が川端と雪国との出会いとなりました。
JR東日本越後湯沢駅と川端が泊まった高半旅館(現在「越後湯沢温泉雪国の宿 高半」は今と同じ位置ですが、駅前に連なる温泉街は、当時はありませんでした。「上越線の開通で温泉を掘削して今の温泉街ができましたが、以前はうちを入れて3つほどしか宿はありませんでした。自炊用の七輪を持って泊まりに来るような湯治場でした」と高半の女将高橋はるみさんは言います。川端は昭和9(1937)年からおよそ3年の間、この宿へ幾度も足を運びました。当時木造三階建てだった宿は鉄筋に建て替えられましたが、川端が泊まった「かすみの間」はそのまま保存されています。
小説「雪国」が発表されたのは昭和10(1935)年。その後も湯沢に通いながら執筆を重ね、戦後の昭和22(1947)年「続雪国」を発表。現在出版されている「雪国」は昭和23(1948)年に刊行されたもので、続雪国を含んで一つの小説となっています。そして昭和32(1957)年に英訳「SNOW COUNTRY」が出版され、海外でも高い評価を受け昭和43年(1968)年、ノーベル文学賞を受賞しました。受賞にあたって、「雪国」は「伊豆の踊子」などと並んで主要作品と位置づけられました。
高半を訪ねると、「かすみの間」が当時のまま保存されている他、川端康成ゆかりの品や写真、そして「雪国」に登場する芸者駒子のモデルといわれる女性のゆかりの品を見ることができます。松栄さんと呼ばれたその女性は、芸者をやめた後に結婚しましたが、「川端康成のノーベル賞受賞で話題となり、雑誌記者が駒子のモデルを探し出しました。当時は既に結婚していましたから、川端さんが迷惑をかけたとお忍びで謝りに訪れたそうです」と高橋さん。JR東日本越後湯沢駅近くには、湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」があり、そこには松栄さんが暮らしていた置屋の一室が再現されています。
川端が感じた雪国は、雪国で暮らす人の感覚とは異なりますが、世界に向けて発信された日本の雪国のイメージ、最も広く浸透している雪国のイメージは小説「雪国」のものです。改めて読み返してみてはいかがでしょうか。
file-21「文学の中の新潟~温泉編」 ~岡倉天心が最も愛した地~赤倉温泉
徳富蘆花(とくとみろか)(1868-1927)が訪れた際に書いたもの。香嶽楼には訪れた多くの文人の墨蹟が保存されている。普段はしまわれているが、頼めば見せてくれる。
遠間旅館「天心の間」に飾られた当主宛の手紙。現当主からは3代前にあたる。
岡倉天心の別荘「赤倉山荘」があった場所には六角堂が建つ。後ろに見えるのが妙高山山頂。当時は木材を薪炭に使っていたため、背の高い樹木が少なく今よりはるかに眺めがよかったという。
古くから信仰の山として女人禁制など厳しい戒律のあった妙高山の麓に赤倉温泉が開かれたのは江戸時代の1816年。高田藩が藩営で開発し、一時は温泉奉行という役職がありました。直江津上野間を結ぶ信越本線の開通は、上越線より40年ほど早い明治26(1893)年。これによって赤倉は湯治場からリゾート地に生まれ変わっていきます。
明治32(1899)年、当時「金色夜叉」によってベストセラー作家になっていた尾崎紅葉(1868-1903)は、新潟へ向かう途中赤倉を訪ね、香嶽楼(こうがくろう)に泊まります。信越本線で上野を出発したのですが、大雨で鉄道が不通になってしまい予定外の宿泊でした。しかしこの地の風景をいたく気に入り、後に発表された「煙霞療養(えんかりょうよう)」では「おそらく湯治場としての日本一」「およそ己の知る限りに、ここほど山水の勝を占めた温泉場はない」と絶賛します。尾崎が投宿した香嶽楼へは、その後与謝野晶子、与謝野鉄幹、有島武郎らが訪れています。
明治39(1906)年、日本美術の父ともいわれる岡倉天心(1863竏驤1913)が赤倉を訪れ別荘を建てました。当時天心は茨城県五浦(いずら)の日本美術院とボストンの美術館を行き来していたため、この別荘(赤倉山荘)を管理していた遠間旅館には、天心の書簡が残されています。遠間旅館6代目の和広さんは「天心は高田を訪れた際に赤倉を紹介されて、この風景を絶賞しました。お弟子さんも呼んだのですが、天心が日本美術院をここへ移そうとしているのを察して、あまりに東京から遠いからと先に帰ったそうです」と話します。
天心が亡くなったのは大正2(1913)年。赤倉山荘でのことです。幕末の横浜に貿易商の息子として生まれ、英語に堪能で欧米、中国を視察し、東京美術学校(現東京藝術大学)の創設に関わり、海外に初めて茶の湯を紹介した岡倉天心。当時に限らず、現代を含めても日本で最も「美」を知る人物の一人です。そんな天心に愛された妙高山麓の風景は、世界でも屈指の美しさを備えているのかもしれません。
この後赤倉には細川家の別荘が建ち、皇室の人々がスキーに訪れ、高級リゾート地として知られるようになります。そして昭和33(1958)年、画家の岡本太郎を中心とした人々が「赤倉サンクラブ」を設立。多くの文化人のサロンとなりました。
今でも岡倉天心の縁により、学生の合宿が行われるなど東京藝術大学との交流は現在も続いています。
file-21「文学の中の新潟~温泉編」 ~新潟の奥座敷~五頭(ごず)温泉郷
長生館「御風の間」は飾ってある墨蹟はことごとく御風のものだ。
阿賀野市にある五頭温泉郷は、新潟県内で最も古い温泉といわれる出湯温泉、世界有数のラドン含有量を誇る村杉温泉、弘法大師開湯と伝えられる今板温泉の総称です。いずれ劣らぬ古い歴史を持っていますが、明治に入って水原(現阿賀野市)に県庁ができ、後に新潟市に移ってから「新潟の奥座敷」として多くの人を集めました。その中には戦前三度内閣総理大臣となった近衛文麿も含まれます。
明治元年創業といわれる「風雅の宿 長生館(ちょうせいかん)」へは、相馬御風がよく訪れました。御風は早稲田大学を卒業後文学界で活躍し、後に郷里の糸魚川市に戻って地域の歴史文化発掘に多大な貢献をした人物です。良寛研究で知られるほか、早稲田大学校歌や県内各地の学校の校歌を作詞したことでも知られます。
「曾祖父か祖父が御風と友人だったようです」と話す荒木善行社長室長。五頭温泉郷には新潟県内で二番目にフォードの乗合自動車が走り「国や県の役人が訪れる場所で、歴代の知事もよくやってきました。政治家が多かったのは、すぐそばに五十嵐家があったからじゃないかなと思います」と言います。五十嵐家は県内有数の大地主で、当主五十嵐甚蔵氏は貴族院議員。明治22(1889)年の明治天皇地方巡幸では、滞在のための館を私費で建設しています。
五頭温泉郷はその他多くの文人や画家を集め、竹久夢二もこの地を訪れています。
中津川の深い峡谷沿いに連なる秋山郷。映画「ゆれる」〔平成18(2006)年公開〕で象徴的に使われた吊り橋がこの近くにある。白い建物が川津屋。
吉川英治の筆。当時は電気はなくランプを使っていた。「紙なんかなくて障子紙に書いてもらったものです」という。
新潟県津南町と長野県栄村にまたがる一帯の総称である秋山郷は、平家の落人(おちうど)集落だったという伝説があります。「新・平家物語」を描いた吉川英治(1892-1962)が訪れたのは昭和28(1953)年。平家の落人集落を取材するために一か月間滞在しました。
投宿したのは岩の間から湧き出る温泉を溜めた洞窟のような風呂があることで知られる川津屋。江戸時代末の創業で、当時秋山郷で宿はここしかありませんでした。平成12(2000)年に改装しましたが、当時吉川英治が泊まっていた部屋と同じ位置に「吉川英治の間」をしつらえています。
秋山郷は中津川の深い渓谷沿いに連なる集落からなり、日照時間が短いためほとんど米が採れない上に県内有数の豪雪地です。厳しい環境の中で独自の生活文化を育んできたことは、鈴木牧之の「北越雪譜」でも描かれています。川津屋女将の吉野和子さんは「40年ほど前までは秋山郷の中でしか結婚しなかったそうです。秋山郷には、平家の落人と秋田マタギが住み着いたといわれ、男女ともすらっと背が高く色白で品のある人が多かった。秋山美人といわれていました」と話します。吉川英治が訪れた頃にはまだ電気はなく、灯りはランプ。川水で自家発電していたそうです。
滞在中、吉川はこの宿から秋山郷の各地を取材し、「新・平家物語」の構想を練りました。雑誌への連載は秋山郷を訪れる3年前の昭和25(1950)年から始まっており、昭和32(1957)年まで続きます。この間小説は菊池寛賞を受賞し、3度にわたるの映画化の他、NHK大河ドラマの原作にもなりました。
file-21「文学の中の新潟~温泉編」新潟県立図書館おすすめ『温泉文学』
こちらでご紹介した作品は、新潟県立図書館で読むことができます。貸し出しも可能です。
また、特集記事内でご紹介している本も所蔵していますので、ぜひ県立図書館へ足をお運びください。
ご不明の点がありましたら、こちらへお問い合わせください。
(025)284-6001(代表)
(025)284-6824(貸出延長・調査相談)
新潟県立図書館 http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/
▷『ブエノスアイレス午前零時』
(藤沢周/著 河出書房新社 1998 913.6‐F66)
謎の温泉を舞台に主人公と老婦人が織りなす幻影の世界。温泉通ならすぐ分かる新潟の有名温泉がモデルです。
▷『珠玉』
(開高健/著 文芸春秋 1990 913.6‐Ka21)
開高健の絶筆となった中編小説。作品のクライマックス、舞台となる温泉のモデルはもしかして作家ゆかりの銀山平?そんな想像に興味は倍増します。作品の完成度も高い。
▷『温泉主義』
(横尾忠則/著 新潮社 2008 291‐Y77)
「温泉はニガ手」と言いながら、絵を描くためにと訪れた24の温泉地。湯あたりにアレルギー…それでも楽しい温泉旅行。新潟は岩室温泉を紹介。図版も楽しめます。
▷『気まぐれ美術館』
(洲之内徹/著 新潮社 1978 723‐Su74)
北蒲原が生んだ画家・佐藤哲三を発掘したことで知られる洲之内徹氏の代表的美術評論。評論家・佐々木静一氏が「ボタ餅の上にボタ餅ののっているような話」と評した「山荘記」は、洲之内氏の新潟の「アジト」だった出湯温泉・石水亭が舞台。
▷『不連続殺人事件』
(坂口安吾/著 角川書店 1974 913.6‐Sa28)
安吾ゆかりの地として知られる松之山温泉。この地が舞台とされる作品は、『黒谷村』『不連続殺人事件』『逃げたい心』など。新潟といえば坂口安吾。サスペンスものから始めてみませんか?
▷『紬の里』
(『立原正秋全集』13巻所収 角川書店 1983 918.6-Ta13-13)
この作品のヒロインは紬織りの名手・志保子。彼女は、雪に埋もれた塩沢の地で、ひっそりと越後上布を織る一途な女性。清冽な白銀の世界を背景にしながらも男のエゴと女の情念が絡み合うような、読み応えのある文学作品です。
特集内で扱った作品一覧
▷ 『雪国』 (川端康成/著)
▷ 『SNOW COUNRY』
(Yasunari Kawabata)
▷ 『煙霞療養』 (尾崎紅葉/著)
▷ 『The book of tea』
(Kakuzo Okakura)
▷ 『新・平家物語』 (吉川英治/著)
▷ 『北越雪譜』 (鈴木牧之/著)
file-21「文学の中の新潟~温泉編」 ~リンク集
▷ 文学の中の新潟~紀行編
松尾芭蕉ら新潟を訪ねた作家、文人の紀行文を中心に紹介しました。
▷ 湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」
小説「雪国」に登場する駒子の部屋を再現。雪国の民具などを展示。館の隣に足湯があります。
▷ 越後湯沢温泉
雪国の宿 高半
川端康成が宿泊した「かすみの間」が保存されているほか、宿を訪れた多くの文人による揮毫(きごう)を見ることができます。川端と同時にノーベル文学賞候補に挙がっていた小千谷市出身の詩人西脇順三郎もたびたび訪れていました。かすみの間と展示品は、500円(宿泊の場合無料)で見ることができます。
▷ 赤倉温泉
赤倉温泉の歴史や魅力を紹介しています。
▷ 香嶽楼(こうがくろう)
尾崎紅葉、田山花袋、与謝野晶子、与謝野鉄幹らの作品は、常時展示はしていませんが
依頼すると見ることができます。
▷ 癒し温泉の宿
遠間旅館
赤倉温泉開湯と同時に入植した12人の民間人の一人が開いた宿。
岡倉天心の書簡が残されています。温泉ソムリエの宿でもあります。
▷ 五頭温泉郷
五頭山の麓に連なる温泉街です。
▷ 風雅の宿
長生館
庭園が見事な宿で、ラジウム温泉は飲泉も可能。
相馬御風の書が数多く保存されています。
▷ 相馬御風記念館
良寛研究を始めとした御風の足跡を知ることができます。
▷ 秋山郷
坂巻温泉川津屋
手を伸ばせば源泉という温泉と峡谷美。吉川英治の写真や書があります。
▷ 新潟県
環境にいがた
県内の温泉と利用の概況が分かります。
▷ 鈴木牧之記念館
鈴木牧之が暮らした塩沢にあり、牧之の遺墨や雪国の民具、越後上布に関するものが展示されています。
協力:新潟県立図書館