file-123 古墳に魅せられた人々~古墳は古代からのメッセージ~(前編)
古墳は、空白の歴史を埋めるピースだ
弥生時代の次に登場した古墳時代(3世紀後半から7世紀初頭)、南は鹿児島県から北は山形県、岩手県まで多くの古墳が造られました。国内で発見された古墳は約16万基で、新潟県では650基ほど(※)が確認されています。当時の日本は小さな国の集合体で、奈良県大和地方の国々をまとめた「ヤマト政権(ヤマト朝廷)」がさらに地方の国へと勢力を伸ばしていました。古墳とは地位の高い人を葬ったヤマト政権の葬儀様式で、形もさまざまあり前方後円墳が最もステータスが高いと言われています。政権と同盟を結んだ地方の王(豪族)にも築造が許されたので、全国に散らばる古墳はヤマト政権の勢力図でもありました。
古墳には死者を葬ると同時に、地域内外に権力を示すシンボルや死後もなお地域を見守る役割がありました。また、古墳時代の日本はまだ文字が普及しておらず、中国で記された『宋書倭国伝(そうじょわこくでん)』などから当時の社会が類推されています。日本史には「空白の4世紀」と呼ばれる、文献がまったく残っていない時期がありますが、古墳の持つ情報がそれを埋めるピースになるかもしれません。
(※)平成30年9月30日現在
教科書通りではない新潟の古墳
専門は「日本の古代国家形成期について」という橋本さん。飯綱山古墳群や観音平4号墳、牡丹山諏訪神社古墳等の発掘に携わる。
新潟県の古墳博士といえば、新潟大学人文学部教授の橋本博文さん。子どもの頃から古墳に親しみ、放課後になると勉強もせず石器を拾いに行っていたほどの遺跡好き。新潟に赴任する前は、埴輪(はにわ)を研究していたそうです。「新潟に赴任して約20年になりますが、どうも新潟の古墳は教科書通りではない」と言います。例えば、橋本教授の出身である群馬県には約14,000基の古墳があり、そのうち埴輪を持つものは約1割。しかし、新潟は650基ほどのうち二つしかありません。葺石(ふきいし)といって古墳を覆うように葺(ふ)いた石があるのも飯綱山古墳群(南魚沼市)や緒立八幡神社古墳(新潟市)など10基足らずです。
橋本教授が新潟大学着任後、最初に手掛けた調査で新潟初の埴輪を発見した飯綱山古墳群。副葬品が飯綱考古博物館や新潟大学旭町学術資料展示館で展示されている。
ヤマト政権は国防のために、交易ネットワークの要になる場所を重要視。古墳時代とは、その一等地を抑えていた王が成長した時代です。一方、当時の日本には、ヤマト政権に付き従わない人々がいました。ヤマト政権と彼らの境界に位置していた新潟は「越(こし)」と呼ばれた国で、海より攻め入る人々から境界を守っていました。日本海側沿岸部(※)には菖蒲塚(あやめづか)古墳(弥彦・角田山麓)、保内三王山(ほないさんのうやま)古墳群(三条市)、城の山(じょうのやま)古墳(胎内市)、浦田山古墳群(村上市)などが残っています。「古墳時代中期になると、ヤマト政権は南魚沼の豪族に有力化した群馬県地域の豪族を牽制するよう命じ、飯綱山古墳群をはじめとする内陸部の古墳が造られるようになりました」
(※)当時の新潟平野はほとんどが湿地で、網の目状の水路が日本海や各地の川とつながっていました。
弥生の丘展示館の体験メニュー。発掘体験では、大人も子どもも楽しそう。
「古墳もまだわかっていないことが多く、発掘して新たなことがわかるのが魅力。未知の古墳で新潟の歴史が変わるかもしれない」/相田さん。
さて、最近では縄文がブームになっていますが古墳もジワジワと人気が高まっています。新潟市秋葉区、花と遺跡のふるさと公園にある弥生の丘展示館では、土器や銅鏡づくり、弓矢や石斧体験など、楽しみながら当時の人々の暮らしや文化を知ることができるメニューが盛りだくさん。「市内の小中学生が課外授業で来たり、ファミリーのお出かけスポットになったりしています」と話すのは新潟市文化財センター学芸員の相田泰臣さん。園内の国指定史跡・古津八幡山遺跡には、県内最大級・直径60メートルの巨大な円墳「古津八幡山古墳」があります。
「蒲原の王」が葬られ、丘陵先端部にある古津八幡山古墳(手前)からは、蒲原平野を一望できる。
昭和62年(1987)、土取り工事に伴う試掘調査で発見され、平成23年(2011)〜26年(2014)にかけて発掘調査と復元整備が行われました。復元に使われた土は10トントラック300台以上に相当します。調査の結果、設計や土木工事には高度な技術が使われていたことが分かりました。「古墳の大きさは権力の象徴。信濃川と阿賀野川に挟まれ、海にも内陸にもつながる交通の要所を治めていた“蒲原の王”は、蒲原平野各地の豪族によって推し立てられたと想像されています。秋葉区・新津は“鉄道のまち”として知られていますが、昔から結節点という交通の要所だったので豪族が力を付けたのです」
しかし、古墳はいつしか忘れ去られ、その後は八幡宮が建てられたり(明治時代に移転・合祀)、第二次世界大戦前後には食糧難から古墳の斜面を削って畑地として使ったり、昭和51年(1976)から平成13年(2001)までは環境庁(当時)が古墳の上に大気観測所を設置していました。「さまざまな変遷がありましたが、ここが古墳だったとは知らない人たちも“神聖な場所”とは感じていたようです。ムラのシンボルであり、ムラを守るもの。神聖な場所として受け継がれたからこそ神社も造られたのでしょう」と相田さんは言います。
古墳は昔も今も見晴らしスポット
「牡丹山諏訪神社古墳の発見は、埴輪の破片の第一発見者が、大切にとっておいたことがきっかけ。疑問に思ったら自分の胸に秘めておかないで、ぜひ専門家に見せて欲しい」/清水さん。
金仙寺の境内地にある国指定史跡の前方後円墳「菖蒲塚古墳」。左上は隼人塚古墳(円墳)/新潟市歴史文化課文化財センター提供
古墳に魅せられた人たちに、古墳を楽しむコツを伺ってきました。まずは、新潟大学旭町学術資料展示館学芸員の清水美和さん。大学で古墳を専攻し、趣味は古墳巡りの旅という古墳女子。四季の風景とその中にある古墳を巡るのがオススメだそうです。「現代人も眺めの良いところに墓を造りますが、死してなお自国を見守る古墳はその多くが地域を一望できる見晴らしの良いスポットにあります。私は、古津八幡山古墳では“ふむふむ、この蒲原の地を見下ろしていたんだ”、浦田山古墳群では“海がよく見えるなぁ”と王の気分になって、古に思いをはせています。菖蒲塚古墳は代々同じ地に古墳を造ってきましたが、雄大な景色が広がって確かに良い場所だと思います。また、昔の人は自然を利用するのではなく、自分の人生や寿命も自然の中にあると受け入れていました。そんな世界観にも触れることができます」
近くの集落から北海道に起源を持つ続縄文土器が出土。越後平野が北と南の文化が交じる最前線として機能していたことがうかがえる。/新潟市歴史文化課文化財センター提供
牡丹山諏訪神社古墳のマスコットキャラクター「ぼたんつつは」ちゃん。
古墳に行ったらじっくり歩いてみましょう。そうすると「いろいろな発見ができる」と清水さんは言います。「古墳を楽しむコツは、歴史の眼鏡をかけて見ること。例えば、古津八幡山古墳は丘の上にあり、その集落は平野にあったと考えられているので、当時の人たちはそれぞれの場を行き来していました。そんな暮らしを垣間見るとおもしろい。また、新潟には巨大古墳がなく、こぢんまりと造られていて、出しゃばらない印象を受けます。新潟県民は謙虚だと言われますが、当時からそんな県民性だったのかしら…、と想像も膨らみます。他県では古墳が観光地化していて、関連のグッズやお土産が充実しています。新潟もキャラクターグッズなどをグイグイと押し出して欲しいですね」
掘りたくてたまらない発掘症候群!?
「私の出身地である胎内市には、近年発掘調査が行われ豊富な副葬品が出土した城の山古墳があり、調査成果に非常に興奮したことを覚えています」/南波さん。
日本海側最北端、4世紀前半代の前期円墳「城の山古墳」。
発掘調査には、民間会社も携わっています。長岡市にある大石組もその一つで、調査員の南波守さんに話を伺いました。「新潟県には県外に本社を置く業者を含め、約10社の発掘を手掛ける会社があります。当社は20年ほど前、長岡市での遺跡発掘調査の調査支援というかたちで重機の手配や作業員を提供しました。そして約10年前、長岡・燕市の遺跡発掘をきっかけに、社内に文化財事業部を立ち上げました。以来、本格的に発掘調査の業務委託を受注し、支援させていただいています」
現場では南波さんのような知識を持つ調査員が作業員をまとめ、担当者と打ち合わせながら調査を進めていきます。「発掘調査を手伝っていただく作業員はその都度募集をかけます。最初はちょっとした興味やバイト感覚の方が多いですが、何年かやるとますます興味が湧いて、もう掘りたくてしょうがない。時には、“発掘調査はまだか”という問い合わせの電話もあります。また、60歳から80歳くらいの同じ年齢が集まるので仲間意識も強くなり、横の連携もすごいですね。めずらしいモノを掘り当てると子どもの頃の宝探しのようで、自分が掘った!自分の手で世に出した!という手応えがある。隣の人がモノを出すと、“何であいつばかり。俺と場所を交代しろ”と冗談も交じります。こればっかりは運なので仕方ありませんが、はまる人は病み付きになるようです」
城の山古墳から出土した全国的にもめずらしい、矢の入れ物の靫(ゆき)。副葬品の中には、ヤマト政権の古墳から出土した副葬品と同じ組み合わせのものもあった。
調査員という立場上、発掘調査では作業員へ指示を出したり写真撮影を行ったりしている南波さんですが、本音を話せば自分で道具を持って掘っている時が一番楽しいそうです。「そんな私も発掘症候群の一人でしょう。古墳の発掘調査にはたくさんの経験と知識が必要ですが、いつかは城の山古墳のような古墳の調査をしたいというのが私の夢の一つです」
ピースが集まるほど全体の絵が見えてくる
出土品の弓を持つ小野本さん。好きな県内の古墳は、牡丹山諏訪神社古墳。「ここの円筒埴輪は、ヤマト政権直属の工人(こうじん)(当時の職人)を招いて作らせたのではと思うほど上手でかっこいい」
新潟県埋蔵文化財調査事業団の小野本敦さんも大学で古墳時代の考古学を専攻し、東京でも発掘の仕事に携わってきました。「事業団での仕事は、道路工事現場等での発掘調査と出土品を記録に残すこと。出土品は、たいてい壊れているので、復元し図面に落として資料を作成します。テレビドラマなどで道路工事をしていたら突然遺跡が現れて作業がストップ!というシーンがありますが、それはほんのごくわずか。実際には道路計画が作られた時点で現地へ行き、試掘をして遺跡の有無を確認し発掘調査が必要かどうか判断します。新潟の特徴は、木製品が多く出土すること。新潟平野はもともと湿地だった所が多いので深く掘るほどジュクジュクと湿っています。木は水に漬かっていると腐らないので、関東では見ないような木製品が山ほど出てきます。先日も130センチメートルの弓がほぼ当時の姿で出土しました。関東と比べると異種格闘技戦といいますか、まったくジャンルが違う感じです」
ベテランの手による土器の復元作業。竹串やアルミホイル、空箱など復元の道具にも各自の工夫がある。
小野本さんは、文献が残る時代も面白いですが、文字が発達していなかった古墳時代だからこそ「モノが面白い」と感じています。「文字がないので見つけたモノが語ってくれる。見た人が感じ取り、客観的な証拠で裏付けていくのがポイントです。遺跡の調査は、ピースが足らないパズルのようです。全部が埋まることはないけれど、ピースが多いほど抜けている部分を補って全体の絵が見えてくる。それが多くの人の目に触れるとさらに新しい展開が起きるかもしれません」
古墳や歴史に興味がある人、将来こういう仕事に就きたい人は、市町村の博物館や埋蔵文化財センターを訪れてみましょう。新潟県埋蔵文化財センターでは小学生向けの考古学の体験イベントなども行っています。東京へ行っても上野のパンダを見ずに土器を見て帰ってくる常連もいるそうです。空白のパズルを埋めていくのはそんな子どもたちかもしれません。
■ 参考資料
file-62 発見!新潟の遺跡~古代史の中の新潟県 ~発掘! 城の山古墳
発掘! 城の山古墳~発掘チーム 水澤幸一さんのお話~
file-62 発見!新潟の遺跡~古代史の中の新潟県~発掘! 城の山古墳
古代史の中のにいがた~北方の要所 県埋蔵文化財調査事業団 春日さんのお話~
■ 取材協力
橋本博文さん/新潟大学人文学部 教授
相田泰臣さん/新潟市文化財センター 主査
清水美和さん/新潟大学旭町学術資料展示館 学芸員
南波守さん/株式会社大石組 文化財事業部 発掘調査員
小野本敦さん/公益財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団 調査課 班長