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file-5 上杉謙信と戦国越後 義に生きた希代の戦国武将


家督相続まで

 7歳で林泉寺に預けられ、6世住職天室光育の薫陶を受けていた長尾景虎(のちの謙信)は、13歳で寺から呼び戻され元服。栃尾城(長岡市)に入城します。景虎が生まれた長尾家は、越後守護上杉氏の家来で守護代として越後で大きな権限を持っていました。父為景の隠居によって家督は兄の晴景が継いでいましたが、越後の他の勢力の抵抗に遭い、対応に苦慮していました。

 越後の他の勢力とは、どのようなものか。まず一つ目は長尾一族の中にありました。守護代として越後に根を張っていた長尾氏は、当時の政治の中心地府中(上越市)にあって守護代を出す府内長尾氏、関東へ出入りする街道沿いの魚沼地方を勢力範囲とした上田長尾氏(魚沼市)、新潟県中部の平野部を勢力範囲とした古志長尾氏(長岡市)があり、必ずしも協調していたとはいえない状況が続いていました。上田長尾氏の政景は坂戸城を拠点に、謀略や武力をもって公然と府内長尾氏に対抗しました。

 二つ目の勢力は守護上杉氏です。守護は京にあって、越後にいる守護代から米や金を送られていました。上杉氏が京を引き揚げて自ら越後を支配しようとしたことから守護代の長尾氏と対立し、父の為景は主である越後守護上杉房能を急襲し自害に追い込んでいます。これが越後で起きた最初で最後の下剋上でした。しかし関東の上杉一族の助力などもあり、為景は越後の実権を手にする間もなく戦に追われ、進退窮まって息子晴景に家督を譲ったのです。

 三つ目の勢力は揚北衆と呼ばれる国人たちでした。南北に長い越後は、現在の富山、長野県境に近い南部の府中が政治の中心地。北部にはその勢力が届いていませんでした。福島県から新潟市に注いでいた阿賀野川(昔は揚川と呼ばれた)より北の地域では、色部、中条、黒川、本庄氏などが領主としてそれぞれに領地を統治し、状況に応じて協力したり対立したりという微妙な関係にありました。長尾氏に対しても、それぞれの利害によって協力したり敵対したり、また状況に応じて隣接する福島県の伊達氏や芦名氏、山形県の大宝寺氏と結んだりもしました。そもそも隣県の勢力は政情不安定な越後で勢力拡大をもくろむ存在。それらの足がかりを作りかねない揚北衆は、府内長尾氏にとっては非常にやっかいな存在でした。

栃尾城跡(長岡市)

栃尾城跡(長岡市)

 景虎が栃尾に入城したのは、この3つの勢力がその時々の利害によって離合集散し兵を挙げるような内乱のさなかでした。栃尾入城直後から敵を蹴散らして注目を集めた景虎は、為景によって義父を殺された越後守護上杉定実の後ろ盾によって春日山に入城します。19歳の時のことでした。

 長尾家の家督を継いだからといって、すぐに抵抗勢力がひれ伏したわけでも、戦によって相手を滅ぼしたわけでもありませんでした。主(あるじ)の守護上杉定実を立てつつ、領主間の土地境界の紛争などに積極的に介入したり、寺社の所領を安堵したりすることで「統治者」としての実績を重ねました。一方で京の室町幕府とのつながりを持つことで、統治者としての権威付けも欠かしていません。守護上杉定実が子のないまま亡くなった1550年、幕府から白傘袋と毛氈鞍覆の使用を許され「守護と同等」の地位を公認されました。景虎は21歳になっていました。



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