特集 -File10-

file-10 永遠の良寛

形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉

 1968年、ノーベル文学賞を受賞した川端康成が、その授賞式で紹介した良寛の歌です。彼は良寛を「日本の神髄」と語りました。村の子どもたちと手まりやかくれんぼで戯れる良寛さんは、私たちにとって馴染み深い存在ですが、「老いても童心を持ち続けた良寛」は、あまたある良寛像の一つでしかありません。人の数だけの良寛像があり、どれほど近づいてもまだ真の姿を見せてくれない。それが没後170年以上を経てもまだ人々を魅了し続ける理由なのかも知れません。

生い立ち
良寛堂

出雲崎町の良寛の生家跡に建つ良寛堂。大正11年に竣工し、お堂の中には良寛が持っていたとされる地蔵が納められています。

 良寛は新潟県出雲崎市の名主、橘屋山本家の長男に生まれました。生年は諸説ありますが、1750年代のことです。当時出雲崎は佐渡金山から運ばれる金の積み降ろし港として天領になっており、山本家は武士と同じように刀をさすことを許され、出雲崎の由緒ある 石井神社 の神官を兼ねる家系でした。江戸帰りの朱子学者大森子陽(おおもりしよう)の私塾で学んだ後に名主見習いとなりますが、幼少期の良寛(栄蔵のちに新左衛門文孝(ふみたか))は「昼行灯(ひるあんどん)」と呼ばれ、ぼんやりしたつかみ所のない少年だったと伝えられています。

 天領の名主の役を果たさなければならなかった良寛は、20歳前後で出奔し出雲崎町光照寺(こうしょうじ)(曹洞宗)に入門、剃髪(ていはつ)してしまいます。その後同寺を訪れた高僧、備中玉島の国仙(こくせん)に師事して 円通寺 (岡山県倉敷市)に行き、そこで修行を積みます。30歳を過ぎて国仙和尚から印可を受けて後は諸国を放浪し、40歳のころ越後に戻り国上寺(こくじょうじ)境内の五合庵に入りました。その間に、実家は弟の由之(ゆうし)が継いでいましたが、父の頃から傾いていた実家橘屋はさまざまな不幸に見舞われていました。母は亡くなり、隠居して京に旅に出ていた父以南(いなん)は旅先で入水自殺をしていました。

五合庵

三条は宝塔院の隆全を始め、良寛の友人が多い町でした。良寛の没後、初めての良寛詩碑を建てたのも三条の人々とされています。市立図書館前には、心地良さそうな良寛の像が建っています。

 五合庵時代から既に、著名な 書家や学者 が訪ねて来たり、長岡藩主から寺の住職になってほしいと頼まれたりと、良寛は江戸にまで名の届く存在になっていました。そして晩年は長岡市(旧和島村)の木村家に世話になります。

 この頃の良寛の逸話は、常に穏やかでほほえましいものですが、当時の世相は決して穏やかではありませんでした。度重なる飢饉で越後各地でも一揆が起こり、外国船が日本各地を脅かし、良寛がよく訪ねていた三条では 大地震 が起きています。良寛がそれらに心を痛めていたことは、詩や歌からうかがい知ることができます。

 良寛が 貞心尼 (ていしんに)と出会うのは、亡くなる数年前のことです。二人の間で和歌が交わされ、後に「はちすの露(つゆ)」にまとめられる二人の交流は、多くの人が師弟愛ではなく40歳違いの恋であったとみています。当時は既に病を自覚していた良寛は、1831年、貞心尼と弟、弟子にみとられて亡くなりました。

 

良寛の謎

 幕末を生きた良寛は、生前を知る人が書き記した記録を始めこれまで多くの人に研究され、評伝が書かれて来ましたが、それでも分からないことが数多くあります。良寛は数多くの歌や手紙を残しましたが、自分自身のことはほとんど語ってはいません。中にはどう解釈するかで良寛の人物像が大きく変わってしまうような事柄もあり、それゆえ人間良寛はより謎めいて魅力的なのかも知れません。幾つかをご紹介します。

 
市振(糸魚川市)

 

出雲崎の高台から良寛堂周辺の町並みとその先の日本海を望む。
 

 

(1)出生と橘家の謎

 出雲崎の名主の長男に生まれた良寛ですが、実は両親ともに養子でした。母親は佐渡相川の親戚から橘屋に入り、新津の大庄屋から入った養子の新次郎と結婚。その後与板の庄屋の息子である以南と再婚します。これらの年代や良寛の正確な誕生日などの記録は残っていません。以南もどこか謎めいた人物で、早くに家督を譲って俳諧の道に生きようとしていたのではないかと見られています。そして最後は京都で遺書を残して行方が分からなくなります。
 

 

 
 

(2)出家の謎

 生まれた時から大きな責任を負っていた良寛の出家は、その責任の放棄でもありました。一説には罪人の処刑の立ち会いをさせられた後に家を出て姿をくらましたとも伝えられていますが、この時期に出雲崎で処刑があったという記録は見つかっていません。青年の入り口にあった良寛が何を思って出家したかは何も語られていません。
 天領出雲崎は海岸に沿って妻入りの家並みが並ぶ細長い町で、その妻入りの町並みは3.6kmにもおよび日本一の長さです。良寛が育った頃は町並みに沿って北を出雲崎、南を尼瀬(あまぜ)と二つの大きな町に別れていました。良寛の生まれた橘屋は出雲崎の名主で、尼瀬には京屋という別の名主がおり代官所の位置を巡って争っていました。代官所がどちら側にあるかで家の盛衰が決まるからです。この時期に跡継ぎが出奔して剃髪するというのは、橘屋にとって大きな衝撃であったと思われます。幼少期の「昼行灯」、そして晩年の穏やかな良寛さんとは結びつかない劇的な行為に、そもそも光照寺への入門を疑問視する研究者もいます。

 
五合庵

 

良寛が寛政5年(1793年)ころから約20年過ごした五合庵。

 

(3)修業時代の謎

 

 円通寺でのおよそ10年、その後五合庵に定住するまでの10数年のことは、良寛自身も語ってはいませんし、修業時代に何をしていたのか、円通寺を出てからどこで何をしていたのかもほとんど知られていません。名主見習いの「昼行灯」が「良寛さん」に変化する間の出来事、良寛が何を見て何を学んだかを私たちは知ることができません。
 

(4)貞心尼との関係

 良寛と貞心尼の間には40歳の年の差があります。二人の間にあったものが、仏門に帰依した者同士の師弟愛とみるか、恋とみるか、いずれとも異なる愛情とみるか。良寛最晩年のこの交流は、良寛を一層謎めいて、今も多くの人を惹き付けます。

 

良寛の逸話

 
良寛の書

 

解良家に伝わる良寛の書。若い大工が作ろうとして失敗した鍋のふたを、良寛がもらって書いたのだそうです。長らく飾っていたので煤で黒くなり、後に良寛の墨跡が消えないよう彫りを入れられました。県重要文化財。
 

 

 草庵の軒下からタケノコが生えて来たため、床をはいでタケノコを伸ばしてやったというお話は、多くの人が知るところです。良寛はほのぼのとしたたくさんの逸話を残していますが、もちろんそれらのどこからどこまでが本当かは分かりません。良寛を何かと世話した解良(けら)家に生まれ、その晩年を知る解良栄重が後にまとめた「良寛禅師奇話」という綴りがあります。その中から幾つかを紹介しましょう。(加藤僖一著「良寛と禅師奇話 解良家蔵」考古堂書店より)

(1)死人ごっこ

 訪れる里ごとに、子どもたちが禅師と遊ぼうと集まってきた。ある里では、禅師はよく死者のまねをして臥せ、それに子どもたちは草花など載せて覆って遊んだ。しばらくすると利口な子が禅師の鼻をつまんで息ができないようにした。すると耐えかねた禅師は息を吹き返してしまった。この遊びは、老齢の禅師が遊び疲れて息を整えるためにしていたのではないだろうか。

(2)上手くなったら

 禅師に何か書いてほしいと頼むと「練習して上手になったら書きましょう」と言う。その一方で気が乗れば幾らでも書くこともあり、筆や墨、硯、紙は何だろうと構わなかった。自分のつくった詩歌を書くのだが、暗記していて書くので脱字があったりその都度少し変わっていたりして、一定ではなかった。

(3)念仏を唱えて

 茶の湯の席に呼ばれた際、回って来た濃茶を全部飲み干してしまった。その後で次席の人に茶を譲らなくてはならないことに気がついた禅師は、口の中に入れたお茶を器に吐き出して隣の人に渡した。それを見ていた次席の人は、禅師から渡されたお茶を念仏を唱えながら飲んだ。

(4)タケノコで火事

 五合庵にいた時、厠(かわや)にタケノコが生えてきた。とうとう天井につかえるほど伸びたので、ろうそくの火で天井を焼いて穴を開け、タケノコを伸ばしてやろうとしたが、結局厠を丸ごと焼いてしまった。

(5)禅師が泊まると

 禅師が泊まった日は主も下々もみな和やかになり、禅師が帰った後もしばらくその心持ちが続いた。仏法を説いたり善行を勧めたりするようなことはなく、特に何かを語るでもないのに、禅師がいることで皆の心がやさしくなった。

(6)忘れる

 タバコを好んだ禅師は、始めは人から借りてキセルタバコを吸ったが、後に自分のキセルを持つようになった。しかしそのキセルや他の持ち物はたいがい人の家に忘れてしまった。そこで人が「出かける前に持ち物を紙に書いてはどうか」と勧めた。禅師はそのようにしたが、その書き付けも人の家に忘れた。

(7)おれがの

 笠など身の回りのものに禅師は、自分の名前ではなく「オレがの」(おれのもの)と、書いていた。我が家には禅師にかつて貸した本があり、そこには「ほんにオレがの」と書いてある。

良寛を慕う人々

 
良寛像

 

分水良寛資料館前(燕市)に建つ良寛像

 

 

 新潟県立図書館には、700冊を超える良寛に関連する書籍があります。これでも全てではなく、今も新しい本が出版されています。ある人は良寛の書に、ある人は歌に、ある人は詩に、ある人は生き方に触発され、良寛を通して自身を語ります。「大愚良寛」を著して良寛を世に広めた相馬御風(そうまぎょふう)、書に傾倒した会津八一(あいづやいち)や北大路魯山人(きたおおじろさんじん)、晩年にその書を手元に置こうと求めた夏目漱石。日本画の安田靫彦(やすだゆきひこ)は良寛を題材にした作品を多数描き、出雲崎町の良寛堂の設計者でもあります。詩歌の分野では斎藤茂吉(さいとうもきち)や、会津八一から送られた書を絶賛した正岡子規(まさおかしき)。小説家では水上勉(みなかみつとむ)や瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)など多くの作家が良寛を描こうとしています。多くの人を魅了してやまない良寛は、没後170年以上を経てもまだ、語り尽くされてはいないのです。
 

 

良寛の足跡に触れる
良寛関連サイト

協力:良寛記念館

 

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