file-124 みんなのまち、万代シテイ~人々を魅了し続ける街づくりとは~(前編)
昭和、新しい街が生まれた
巨人がV9を達成し、花の中三トリオが人気を博していた昭和48年(1973)、万代シテイが誕生。バスセンター、センター内の商店街、ボウリング場、巨大スーパー「ダイエー」、そして当時は新潟県内ナンバーワンの高さを誇ったレインボータワー、その複合力で県民の心をつかみました。
大きな「イ」の秘密
万代シテイ構想のスタートは昭和45年(1970)。それは、災害からの復興プロジェクトでした。万代橋に近い万代地区には、新潟交通の本社や車庫、整備工場などが集まっていましたが、昭和39年(1964)の新潟地震により壊滅。約2万坪が手付かずのままになっていました。当時、取締役企画室長だった中野進さんは、「目指すものは、復旧ではなく復興。新潟市民が望み、新潟全体の役に立つものを創り出そう」と、まずソーシャルニーズをリサーチ。その結果を踏まえて、交通の要のバスセンターと大型商業施設が一体化した、夢のある街を構想します。
万代シテイのシンボル、レインボータワーは、45年間、新潟のランドマーク的存在。
発想の根本にあったのは、ヨーロッパの街でした。教会や市庁舎のある広場を中心に街が広がり、広場では祭りや行事が行われ、市場が立ち、人々が集う――そのようなエリアを創ろうと考えたのです。バスセンターの2階をパークにし、これを囲むように店舗を配置。別棟の施設とはペデストリアンデッキ、広場と横断歩道橋の機能を持ち併せる高架橋でつなぎ、人が回遊できるようなグランドデザインができあがりました。広場には、キャッチフレーズ「虹の街」を具現化したレインボータワーを。当時は新潟県一の高さを誇る展望塔でした。
「ダイエーも三越も伊勢丹も、トップを説得して出店にこぎつけました」/中野さん
誘致する店の選考基準は「その道の日本一」。中野さんは、総合スーパーは「ダイエー」、百貨店は「三越」と定めて交渉を開始。同時に、それまで新潟県にはなかった、雑誌から専門書、洋書までを幅広く扱う大型書店「紀伊国屋書店」とも交渉を始めます。「当時、新潟県の人口は約240万人。その巨大マーケットが、新幹線や高速道路開通によって県外に流出する恐れがありました。それを引き付ける強力なマグネットは超一流でなければ」と中野さん。
次は名前です。ヒントは中野さんがイギリス滞在中に知った、ロンドンの中心部を指す「シティ・オブ・シティ」という表現。「私が目指していたのは、単なる商業施設ではなく、街づくり。衣食住とエンターテインメントが一体になった街は、プラザやタウン、センターという単語では表せない、もっと大規模のものでした」。そういう思いを込め、中野さんは「万代シテイ」と命名。大きな「イ」にしたのは、一般的な「シティ」と区別し、世界に一つだけの固有名詞とするため。それほどの覚悟とともに、「虹の街」万代シテイが誕生したのです。
時間を超えて愛される
8万人が駆け付けたダイエー新潟店のオープン日。新潟県初の大型総合スーパーの誕生。
土日にはシルバーホテルの花嫁さんの着付けも。1日で6人の対応をしたことも/江川さん
昭和48年(1973)11月23日のオープン日、ダイエーには約8万人が殺到し、一帯は大いににぎわいました。その日から「マルヤ美容室」は万代シテイで営業を続けています。「うちは予約を取らないんです。下がバスセンターで、バスを待つ間に来て下さるお客さんも多いから。いつ飛び込んできてもいいようにね。『美しく・早く・安く』がキャッチフレーズの店ですから」と江川洋子さん。「一番忙しかったのは昭和50年代。西城秀樹みたいにして、聖子ちゃんカットにして、と若い人がやってきて、てんてこ舞いでした」。大きな窓越しに見えていた店の外の若木が、いつしか大きく枝を伸ばし、今では窓を覆うほどの大木に。「この木とレインボータワーを見ながら、40年以上、働いています。タワーがなくなるのは寂しいですが、私はもうひと頑張り」とにっこり。
「ゴールデンウイークや年末年始など、帰省の際に来店されるお客さまも多いです」/小林さん
ミートソースの代わりにホワイトソースがかかったホワイトイタリアン。NGT48のメンバーにも大人気。
もう一店は、新潟市民のソウルフードにして、全国ネットのテレビ番組でも取り上げられる「イタリアン」を提供する「みかづき」。実は、万代店は「イタリアン」を前面に押し出したファストフード店の1号店。これ以前に出店していた店は、和風の甘味処でした。「イタリアンへの舵きりを決めたのは会長です。新しいショッピングエリアで、幅広い層が来店するだろうと考えての決断。当たりましたね、オープン月の売り上げは、本店を抜きましたから」と、営業部の小林厚志さん。「ライブで来県したアーティストやNGT48のメンバーが好きだと言ってくださるのも、ありがたいです。ファンの方々が食べに来てくれますから」。自家製麺を改良し、ソースに使うトマトの品質を上げた以外は、基本の味をかたくなに守り続ける「イタリアン」にとっても、万代シテイは特別な場所でした。
成長し続ける街
その後も万代シテイは成長していきます。ファッションでは「三越エレガンス」に続き、「新潟伊勢丹」「ビルボードプレイス」がオープンし、若者の心をキャッチ。それまで新潟市内での買い物といえば、古町・本町が中心でしたが、幅広い年齢の人たちが万代シテイに集まってきました。
文化の発信地として映画上映だけでなく、ライブやトークショーなども企画/齋藤さん
そして、万代シテイはモノだけではなく、イベントや文化でも人々を引き付けました。昭和60年(1985)に「新潟・市民映画館シネ・ウインド」を立ち上げ、万代シテイ商店街振興組合で副理事長を務める齋藤正行さんに万代シテイの魅力と特徴を伺いました。同組合には現在、約60会員が加盟し、イベント等の販促、環境整備、広報活動を協力して行っています。「万代シテイの特徴は、それぞれの施設やテナントが、自分の営業をしながらも新潟交通を軸にまとまっていること。確かに新潟交通は一企業なのだけれど、もともとバス事業という公益事業を行ってきたから、考え方が『世のため、人のため』とまさに公共事業的。万代シテイはみんなのものと考えているんです。こういう成り立ちの街は世界のどこにもありません。街づくりのパイオニアじゃないかな。関わっていることが誇らしいよね」
バスセンター2階のスペースはステージ完備。週末はイベントやライブでにぎわう。
広場や万代シテイ通りを使ってのイベント、ライブも毎週のように行われました。人気アイドルのミニライブ、テレビの歌番組の収録などに若者が殺到し、夏のサンバカーニバルも定着。盛り上がりは最高潮を迎えようとしていました。
やがて平成17年(2005)に「ダイエー新潟店」が閉店し、「ラブラ」に生まれ変わります。後編では、変化していく万代シテイをたどります。
■ 取材協力
中野進さん/株式会社シルバーホテル 取締役相談役
江川洋子さん/マルヤ美容室 オーナー
小林厚志さん/株式会社みかづき 営業部長
齋藤正行さん/万代シテイ商店街振興組合副理事長