file-156 後世に残すべき風流踊「大の阪」「綾子舞」(前編)
ユネスコ無形文化遺産提案候補となった新潟県の風流踊
「風流踊(ふりゅうおどり)」とは、風流の精神を体現して衣装や持ち物に趣向を凝らし、唄や笛、太鼓などのお囃子に合わせて踊る民俗芸能のこと。ユネスコ無形文化遺産の提案候補として、全国から41の風流踊が選ばれ、新潟県では魚沼市の「大の阪(だいのさか)」と柏崎市の「綾子舞(あやこまい)」の二つが入りました。
魚沼市堀之内の「大の阪」
盆踊りの原風景に会いに行こう
櫓を中心にたおやかに踊る大の阪。全盛期は踊りの輪が何重にもなったが、最近は少なくなっている/撮影:大の阪の会芸能部・櫻井信夫さん
大の阪のシンボルである約6mの高さの大櫓。中心部の灯籠には、大の阪の歌詞が表記されている/撮影:櫻井信夫さん
蒸し暑いお盆の頃、夜になってふ〜っと涼しい風が吹いてくる。「そんな時に、唄の合間に入る笛の音が何とも言えない…」と語るのは、大の阪の会監事の佐藤敏一さんです。唄声よりも一段高い旋律で、哀愁があり、物心ついた70年以上前から聞いているのに「いいな〜」と感じるそう。
「大の阪」は、魚沼市(旧堀之内町)に伝わる盆踊りで、平成10年(1998)に国指定重要無形民俗文化財となりました。起こりは定かでありませんが、今から300年以上前の元禄時代(1688〜1704)前後に、越後縮(えちごちぢみ)の産地であった堀之内の商人が、取り引き先の京阪地方と行き来するうちに伝わったと言います。最近では櫓(やぐら)を建てて、ぼんぼりを下げる、昔ながらの盆踊りをすっかり見なくなりましたが、大の阪は今でも6メートルの櫓を組みます。「こんな高さはなかなかないですよね。大の阪は踊りそのものを室内で見せるお座敷芸ではなく、あの会場でやるからこそ魅力があります」と会長の竹田徳平さんは言います。実際に見てとりこになって、毎年県外から来る人もいるそうです。
開催場所は草創1349年という趣のある八幡宮境内。8月14〜16日と必ずお盆に開催し、夜の7時から10時まで、15番ある唄(昔は66番まであった)をひたすら繰り返します。念仏(ねんぶつ)を唱えながら踊る「念仏踊り」が源流とされており、どの歌詞にも「南無西方(なむさいほう)」という文句が入ります。
風流踊には、地域の歴史や風土が反映されており、除災や死者の供養、豊作祈願など安寧な暮らしへの願いが込められていますが、大の阪も踊りを通じて先祖の霊を祀ってきました。櫓を中心に輪になって踊りながら、亡くなった親族や友人知人に思いをはせ、先祖や地域の祖霊たちの姿を想像するうちに、自分は孤立した命ではなく、連綿と続く流れの中にあると気付きます。時空を超えた一体感を味わえる…、そんな機会が盆踊りなのかもしれません。
なぜ、大切なものが途絶えるのか?
時代の流れにあがらい続ける
しかし、優雅な踊りのかげには幾度も存続の危機がありました。北越戊辰戦争(1868)の前後には祭りどころではなくなります。その後の時代の流れの中で何百年も根ざしてきた文化風習が否定され、衰退した盆踊りも多くありました。それでも、大の阪は何世代にも渡ってきた堀之内のルーツのようなもの。この美しい盆踊りを失いたくない人たちが時代の風潮にあらがい、密かに踊り続けていたのです。
大の阪の会のみなさん。左から芸能部・撮影担当の櫻井さん、会長の竹田さん、芸能部長の林さん、監事の佐藤さん
貞和5年(1349)に創建と言われる大の阪会場の八幡宮。別称は、藪上(やぶかみ)神社。元禄4年(1691)から続く「堀之内十五夜まつり」の会場でもある。
ところが、1900年代初頭頃になると、大の阪の緩いテンポと唄の節回しのむずかしさから若者に敬遠されてしまいます。時代の流れによって大の阪は忘れ去られてしまいますが、昭和の初めになって地元の青年たちが苦心して現在の姿に再現しました。その後、第2次世界大戦の混乱でまた衰退しますが、昭和21年(1946)頃に結成された有志による「三青連(さんせいれん)」が牽引し、昭和26年(1951)に「郷土芸術振興会」が、平成7年(1995)には現在の「大の阪の会」が設立され、保存と育成に尽力してきました。
著名人との縁で広まった大の阪
新潟県の無形文化財指定となる
大の阪の歴史を教えてくれた大の阪の会前会長の宮正伻(みやまさずみ)さん。越後縮の生産元であった宮さんの家は昔、『北越雪譜』作者・鈴木牧之(ぼくし)が見習いで3カ月勤めた先だったとのこと。
『越後堀之内 大の阪・屋台囃子よもやま』著者 阪西省吾(画像は改訂版)。歴史をまとめたこの冊子があったことで、文化財指定やユネスコ無形文化遺産提案候補にもなれたとも言われる。
他にも、偶然か、必然か? 不思議な出来事が大の阪の追い風になります。静岡県の『ちゃっきり節』で有名な作曲家・町田嘉章(かしょう)氏が、昭和27年(1952)7月12日付朝日新聞『盆踊りうたくらべ』で新潟県の盆踊りを取り上げ、中でも「私のもっとも大好きなもの」として大の阪を紹介します。そして、昭和29年(1954)には、新潟県の無形文化財に指定されることとなったのです。
また、こんな偶然もありました。昭和42〜43年(1967~68)頃の夏、ひばり児童合唱団の指揮者である田中信昭氏が、たまたま堀之内を通りかかり、踊り最中の大の阪に遭遇。車から降り、神社の石垣に登って眺めるほど心を奪われます。田中氏は同合唱団のレパートリーに加えたいと作曲家の柴田南雄(みなお)氏に依頼し、昭和50年(1975)に発表されたのが『北越戯譜』です。大の阪にわらべうたを交え、合唱を通じて表現する柴田氏独特のシアター・ピース(※)として注目され、同合唱団の公演によって国内のみならず、ヨーロッパにまで大の阪を伝えることになりました。
※シアター・ピース・・・演奏者の行為・演技を中心に計画される音楽作品
子どもがいない、進む高齢化…
この難局をどう打破するか?
新型コロナウイルスの感染拡大により開催があやぶまれた令和2年(2020)。密を避けて、いつもの八幡宮ではなく、商店街を流して踊った/撮影:櫻井信夫さん
先人の苦心によって守られてきた大の阪ですが、今はまた新しい問題に直面しています。まずは、新型コロナウイルス感染症拡大です。人が集まれないので練習がやりにくく、令和2年(2020)は祭り会場も八幡宮境内ではなく、商店街を流すことにしました。通りの家々が明かりを灯し、それはそれで素晴らしい祭りになりましたが、令和3年(2021)は中止。今年は開催しましたが、やはり積極的な発信や集客など賑わいムードははばかられました。
さらに切実なのが後継者の育成。会員数は公称60名ですが、祭りへの参加のみならず会場設営でも動ける人が半分ほどになってきました。ご自身も笛の名手である大の阪の会芸能部長の林悦夫さんは、「何と言っても若い人を増やさないと続きません。Uターン者や地元のブラスバンドのみなさんに、和楽器をやってみたい人はぜひ!とお声がけして入ってもらっています」と言います。
そんな中で、小学3年生に指導をする試みが7年ほど前から始まっています。指導者は大の阪の会前会長の宮正伻さん。「昔の人たちはどうしたら大の阪が続くかをみんなで考えてきたのでしょう。農家を中心とし、冬場の農閑期に、夜なべ仕事をしながら練習することで定着する場をつかんだのです。そしてこれからは、大の阪の14番の歌詞〝油屋の油火は 細そうて長うて とろとろと〟の精神です。大切なのは、細々とでも伝統を受け継いでいくこと。昔を取り戻すことではなく、昔の唄の中に込められた精神を現代の私たちが受け継ぎ、『現代の大の阪』として繋いでいく。大の阪は今活躍している人たちのもの、これから新しく生まれる人たちのものです。新しいことをすると失敗もありますが、失敗をしないと強くならない。失敗が原動力になるのだから、今の人たちにはどんどん新しいことにチャレンジして欲しい」と言います。
大の阪は、堀之内の住民でなくても、誰もが自由に参加できます。ご覧になるだけでなく、踊りの輪にも入ってみてはいかがでしょうか。
堀之内地域では保育園から中学校までの子どもが練習に参加。毎年11月に開催される「魚沼子ども芸能祭」でも例年踊りが披露される/撮影:櫻井信夫さん
掲載日:2022/8/25
■ 取材協力
魚沼市・大の阪の会
会長/竹田 徳平さん、監事/佐藤 敏一さん、芸能部長/林 悦夫さん、芸能部・撮影担当/櫻井 信夫さん
小学校での指導者・大の阪の会前会長/宮 正伻さん
■ 参考資料
『越後堀之内 大の阪・屋台囃子よもやま』 著者・阪西省吾さん
魚沼市HP
文化遺産オンラインHP
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