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file16 「直江兼続の謎 その1~御館の乱の分岐点~」~景虎の最期



景虎の最期

互いに謙信の薫陶を受け、義理の兄弟でもあった景勝と景虎の争いは、他国を巻き込んだ末に景勝の勝利で決着がつきます。が、越後全域を巻き込んだ騒乱は領土の多くを失った上に、景虎が死んでからも終わりませんでした。この騒乱の中で、直江兼続が誕生します。


 ― 武田勝頼との同盟


 北条家と同盟を結んでいた武田勝頼は北条家の要請に応じて景虎に付いていましたが、景虎の勝利は武田家にとっては必ずしも望ましいものではありませんでした。武田勝頼はこの3年前に長篠の戦いで織田信長に敗れ、織田・徳川連合に脅かされていました。越後が景虎のものになれば北条家との均衡も破れ、孤立する恐れがあったからです。

 ここへ、景勝から講和の申し入れが入ります。謙信の死後3ヶ月が経った頃でした。勝頼と景勝の講和は成立し、金五百両と上野(群馬県)の一部が勝頼に贈られ、勝頼の妹が景勝の妻となりました。これによって、それまで優勢だった景虎側は一気に苦況に陥ります。頼みの綱である北条家の援軍が来ず、勝頼の勧めに応じて和議を受け入れました。しかし、それはほんの一時のことで再び戦闘が再開されます。

 状況を打開すべく景虎は、前関東管領上杉憲政と自身の息子である道満丸(どうまんまる)を春日山に送り、講和を図ります。しかし景勝側は憲政と、景勝にとって甥である道満丸を殺してしまいました。そして御館は攻め滅ぼされ、景虎は再起を懸けて関東を目指します。その道中の鮫ヶ尾城で景勝の追撃に遭い、自害して果てました。謙信の死からちょうど一年が経っていました。

 謙信の跡目争いから始まった騒乱は、一方の当事者が亡くなっても収まりませんでした。親北条と反北条、以前から続いていた魚沼郡と古志郡の諸将の対立という構図が含まれていたためです。景勝は国内の戦乱を抑えると同時に、織田信長を始めとした国外の勢力とも戦わなくてはなりませんでした。


直江屋敷跡
 

直江屋敷跡
春日山城の中にあった直江屋敷跡。与板城主になって以降も兼続は景勝を補佐して春日山におり、上洛後は伏見と行き来する日々だった。
 

 
 
与板城跡
 

与板城跡
与板(現在は長岡市)は、信濃川にほど近い舟運の要衝で直江家が治めていた土地。兼続直属の部下は「与板衆」と呼ばれ、上杉家運営の重要なポストについて兼続を助けた。
 

 
 

 ― 直江兼続誕生

 

 樋口与六の名がようやく文献に登場するのは、乱の勃発から2年を経た頃のことです。景勝から舟の税を免除された文書で初めて名が確認されており、御館の乱の戦後処理で何らかの手柄を立てていたことをうかがわせます。与六はこの時、20歳でした。

 上杉家内で大きな権力を持つきっかけとなった直江家相続は、御館の乱が間接的なきっかけになっています。上杉家内の論功行賞に不満を持った毛利秀広(もうりひでひろ)に直江家当主であった直江信綱(なおえのぶつな)が殺されてしまったからです。与六は景勝の命により未亡人となったお船(せん)の方の婿になり、直江家を相続します。兼続はここから、上杉家内で権力を掌握してゆくのです。上杉家の力を大きくそぐ結果となった御館の乱ですが、これが起こらなければ後世に名を残す直江兼続は生まれなかったかも知れません。

 兼続は、それまで毛利秀広が担っていた外交の取り次ぎ役を任せられます。取り次ぎ役とは諸外国からの外交文書や内政の諸事を景勝に伝え、その指示を返す役のことです。ですから取り次ぎ役は景勝との窓口として絶大な権力を持つことができます。当時はもうひとりの取り次ぎ役である狩野秀治とふたりで政務に当たっていましたが、天正12(1584)年ごろに秀治が亡くなると、景勝は後継の取り次ぎ役を立てることはありませんでした。兼続は上杉家唯一の取り次ぎ役として、事実上執政の立場となり上杉家を舵取りしてゆくことになるのです。


協 力:新潟県立歴史博物館
写真協力:上越市

その2に続く...

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