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file-17 直江兼続の謎 その2 ~上杉家の関ヶ原~ 謎その3.越後を取り戻す意図はあったか


~上杉家の関ヶ原~ 謎その3.越後を取り戻す意図はあったか


 当時45万石とされた越後から大幅加増で120万石となって会津に移った上杉家ですが、越後には未練があったといわれています。関ヶ原の合戦の後、取りつぶしを免れ米沢30万石に移されて幕末を迎えますが、米沢藩では越後をあえて「本国越後」と呼んでいました。

 上杉家は全国屈指の金持ち大名とされていましたが、その財源は青苧などの貿易や鉱山経営が主で、従来の上杉家の経営にとっては、港は欠かせない要素でした。長い海岸線と網の目のように内陸をつなぐ川があった越後は、物流にはたいへん便利な土地だったのです。内陸である会津にも、米沢にも当然港はありません。会津へ移って後、一時山形県の酒田を攻めて掌握したり、米沢移封後は酒田と直結する最上川を改修したり、常に物流の動脈を確保しようとしたのが上杉家、つまり兼続でした。少ないコストで物流網を維持でき、しかも京都に近い越後は、上杉家にとっては失うにはあまりに惜しい国だったのかも知れません。
 ちなみに上杉家は謙信の時代から農業政策についてはほとんどみるべきものがありませんでした。新潟県が米どころとして知られるようになるのは明治以降のことで、当時は会津、米沢の方がはるかに米作りに適した土地柄でした。  

 移封の際、なぜか上杉家は最も大切であるはずの謙信の遺骸を会津へは持っていきませんでした。謙信の遺骸を会津へ運んだのは、入れ替わりに越後へ入った堀氏入封後のことです。

 また、家康軍と対峙した際越後国内で一揆が発生しますが、堀氏の領国経営の苛烈さに抗議したとも、兼続が最初から一揆を意図して息のかかった領民を越後に残してきたのだともいわれます。伊達・最上連合との戦いに際して上杉軍の一部が越後に入り、一揆勢に加勢したとも伝えられます。家臣の一部や有力な商人が分家によって越後に残った例がみられることは確かです。

 兼続の総指揮によって山形で合戦が起こったのは、最上領で分断された領土をつなげる目的があったとされています。結果的には一日で決着が付いてしまった関ヶ原の合戦が長引けば、最上領の次に狙ったのは越後だったのでしょうか。景勝と兼続は何を目指して兵を挙げたのでしょうか。それを確かめる資料は、まだ見つかっていません。


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