file-17 直江兼続の謎 その2 ~上杉家の関ヶ原~ 兼続上洛

~上杉家の関ヶ原~ 兼続上洛

 

 上杉謙信を継いだ上杉景勝と、最後まで離れることなく寄り添った直江兼続。この二人には、いまもって分からない謎が横たわっています。どう解釈するかで二人の人物像が大きく変わってしまうほどの謎です。それゆえ今も、二人の生き方が魅力を失わないのかもしれません。

 ― 120万石で会津へ

名門直江家を相続した兼続は、主君上杉景勝の取り次ぎ役として活躍し、同じく取り次ぎ役の側近狩野秀治が天正12(1584)年に亡くなると、唯一無二の側近となって上杉家を切り盛りするようになります。当時24歳でした。

越後を併呑(へいどん)しかかった織田信長が本能寺の変で亡くなり、この前年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで豊臣秀吉が覇権を握ると天正14(1586)年、景勝は秀吉の求めに応じて上洛を果たしました。これは上杉家の、秀吉への従属を意味していましたが、同時に上杉家の存続を図る手段であり、景勝と兼続の天下の政治への参画へのきっかけでもありました。兼続は同い年の石田三成や千利休、 西笑承兌 (さいしょうじょうだい)ら一流の文化人と交流を深めます。

慶長3(1598)年、上杉家は会津へ移封となり、会津、出羽、佐渡を合わせて120万石の大大名となります。当時豊臣、徳川、毛利に次ぐ全国で4番目の石高です。この時兼続は 米沢城 を預かります。しかし、この年に豊臣秀吉が亡くなると中央政界の状況は混沌とします。秀吉の遺子秀頼を推す石田三成と、覇権を狙う徳川家康との対立が深まり、一触即発の事態となりました。

file-17 直江兼続の謎 その2 ~上杉家の関ヶ原~ 謎その1.会津の防備強化は何のためか

 

~上杉家の関ヶ原~ 謎その1.会津の防備強化は何のためか

 

 会津に入った景勝主従は国内の整備に精力を注ぎます。それが豊臣秀吉亡き後、徳川家康に戦支度と疑われ会津征伐につながります。

 ― 幻の城は広島城クラス

五大老の一人であった上杉景勝は、豊臣秀吉亡き後の混沌をよそに本国(会津)に戻りました。移封後間もなく秀吉の死によって上洛し、国の政務が滞っているというのがその理由です。この時はまだ徳川家と良好な関係を保っていました。

前任蒲生氏郷が作り上げた黒川城(現在の若松城の位置)と城下が手狭であるとして、慶長5(1600)年、 神指城(こうざしじょう) の築城を開始します。総指揮には兼続が当たりました。その規模は180×220メートル(本丸)で、現在の若松城のおよそ2倍。広島城に匹敵する規模でした。

ところがこの築城と、道路の普請、新しい家臣の召し抱えなどが家康の疑念を招きます。家康と戦う意図がないならば上洛して申し開きをせよという手紙を幾度か受け取った末に、直江兼続が出した返事が有名な 直江状 でした。これによって家康は上杉討伐を決めたとされています。

越後時代から大幅な加増で全国4位の大大名になったわけですから、それに見合う規模の城と城下、そして家臣が必要であり、単にそのためだけであったという見方もできます。神指城の築城は、大坂城と西の要となる広島城と並び、東北の要とする豊臣秀吉の意図したものであるともいわれています。

ただし、この時は既に五大老の一人である前田利長が、挙兵を疑われて母親を人質に出し、家康に屈服させられています。理屈からすれば景勝も家康も同じ五大老の一人ではありましたが、家康の勢いは絶大で、それが通じないことは誰の目からも明らかでした。

また、神指城の普請が謙信の大法要の直後に始まっていることから、何らかの意図、覚悟が既にあったのではないかとみる根拠の一つになっています。各地で城を治めていた諸将が一堂に集まったこの機会に、何らかの意志決定がなされた可能性があるからです。

 

file-17 直江兼続の謎 その2 ~上杉家の関ヶ原~ 謎その2.石田三成との密約はあったのか

~上杉家の関ヶ原~ 謎その2.石田三成との密約はあったのか

 

 家康との全面戦争かとみられた会津征伐は、石田三成の挙兵によって幻に終わります。総指揮に立った直江兼続は、何を求めて立ったのでしょうか。

 ― 家康を挟み撃ちにして天下に覇を?

 

若くして抜擢され豊臣秀吉に仕えた石田三成、上杉景勝と鉄の結束を生涯続けた直江兼続。同い年で立場も似ていた二人は、上杉景勝が初上洛した天正14(1586)年、26歳の時から交友を深めました。亡くなった豊臣秀吉との約束を破り専横する家康に対し、「東と西から兵を挙げて攻め滅ぼす」二人はそのような密約を交わしたと伝えられています。それが真実だとしたら、その時直江兼続は何を望んだのでしょうか。

石田三成と直江兼続との密謀は、江戸時代の始めに成立した軍記物に描かれています。「続武者物語」(1680年)には、三成が兼続に宛てた手紙の内容が載っており、「東国太平記」(1680年)には佐和山城(現在の滋賀県)で深夜の密会の様子が描かれています。1967年に編纂された会津若松史でもそうした見方をしており、家康打倒のために会津の領国経営があったと記しています。

しかし実際の戦いは、挟み撃ちとはなりませんでした。家康は大軍を率いて大坂から七月初旬に江戸城へ入城し、ゆっくりと歩みを進めました。上杉は会津の入り口である白河に防塁を築いて待ち構える作戦でした。三成は、五大老の一人である毛利輝元を大将に挙兵の準備にあたり、家康の軍勢がここに到着する以前の栃木県小山市付近を進軍しているところで挙兵に及びます。三成挙兵の知らせを受けて家康軍は引き返し、上杉軍はこれを追うことなく伊達・最上連合軍と山形方面で戦争を始めました。総大将は兼続でした。

引き返す家康軍を上杉軍が追っていれば、その後の状況は違っていたかも知れない。なぜ追わなかったのか、そもそも追う意図はあったのか。そうした謎が、上杉家の行動にはつきまといます。

現在では、石田三成と直江兼続の間に密謀はなかったとする見方も多いのですが、あったにしてもなかったにしても、明確な証拠となるものは出ていません。

関ヶ原合戦前夜、上杉家中の城は会津若松城と未完の神指城、米沢城、鶴ヶ岡城。 大坂城から上杉討伐に向かって来た徳川勢に対し、上杉家は白川口に集結し臨戦態勢を敷きました。

上杉家は石田光成(佐和山城)、中国の毛利輝元ら西軍と徳川家を挟み撃ちにする作戦だったと伝えられますが、実際には 最上義光(山形城)、伊達政宗(岩出山城)が徳川方についており、上杉家も敵に包囲され容易に兵を進められる状況ではありませんでした。

file-17 直江兼続の謎 その2 ~上杉家の関ヶ原~ 謎その3.越後を取り戻す意図はあったか

 

~上杉家の関ヶ原~ 謎その3.越後を取り戻す意図はあったか

 

 当時45万石とされた越後から大幅加増で120万石となって会津に移った上杉家ですが、越後には未練があったといわれています。関ヶ原の合戦の後、取りつぶしを免れ米沢30万石に移されて幕末を迎えますが、米沢藩では越後をあえて「本国越後」と呼んでいました。

上杉家は全国屈指の金持ち大名とされていましたが、その財源は青苧などの貿易や鉱山経営が主で、従来の上杉家の経営にとっては、港は欠かせない要素でした。長い海岸線と網の目のように内陸をつなぐ川があった越後は、物流にはたいへん便利な土地だったのです。内陸である会津にも、米沢にも当然港はありません。会津へ移って後、一時山形県の酒田を攻めて掌握したり、米沢移封後は酒田と直結する最上川を改修したり、常に物流の動脈を確保しようとしたのが上杉家、つまり兼続でした。少ないコストで物流網を維持でき、しかも京都に近い越後は、上杉家にとっては失うにはあまりに惜しい国だったのかも知れません。
ちなみに上杉家は謙信の時代から農業政策についてはほとんどみるべきものがありませんでした。新潟県が米どころとして知られるようになるのは明治以降のことで、当時は会津、米沢の方がはるかに米作りに適した土地柄でした。

移封の際、なぜか上杉家は最も大切であるはずの謙信の遺骸を会津へは持っていきませんでした。謙信の遺骸を会津へ運んだのは、入れ替わりに越後へ入った堀氏入封後のことです。

また、家康軍と対峙した際越後国内で一揆が発生しますが、堀氏の領国経営の苛烈さに抗議したとも、兼続が最初から一揆を意図して息のかかった領民を越後に残してきたのだともいわれます。伊達・最上連合との戦いに際して上杉軍の一部が越後に入り、一揆勢に加勢したとも伝えられます。家臣の一部や有力な商人が分家によって越後に残った例がみられることは確かです。

兼続の総指揮によって山形で合戦が起こったのは、最上領で分断された領土をつなげる目的があったとされています。結果的には一日で決着が付いてしまった関ヶ原の合戦が長引けば、最上領の次に狙ったのは越後だったのでしょうか。景勝と兼続は何を目指して兵を挙げたのでしょうか。それを確かめる資料は、まだ見つかっていません。

 

file-17 直江兼続の謎 その2 ~上杉家の関ヶ原~ 米沢の郷土史家にきく「直江兼続と米沢」

 

~上杉家の関ヶ原~ 米沢の郷土史家にきく「直江兼続と米沢」

米澤直江會4代目会長小山田信一さん

兼続の功績を偲ぶ米澤直江會の4代目会長小山田信一さん。「兼続をNHK大河に、と運動を始めたのは20年ほど前。当時はまだ原作になりうる小説もなくて、兼続を書いてくれる小説家探しもした」と懐かしむ。直江會は明治に兼続の家臣の子孫たちで結成され戦中に断絶。今は子孫に限らず70人の会員がいるという。

 

米沢市原方衆の町並み

米沢市原方衆の町並み。
120万石から30万石への減封で家臣を養いきれなくなったため、兼続は希望者を募り開墾地へ武士を入植させた。彼らは原方衆と呼ばれ、屋敷の後ろに広い農地を持った町並みに暮らした。生け垣は薬効のある「うごぎ」を植えることを奨励され、今もうこぎが青々としている。

 

柿渋を塗った書物

兼続は藩内で栗と柿を植えることを奨励した。食糧として、また栗は腐食に強い木材として、柿は柿渋が防水、防腐、防虫に役立つためだ。写真の書物は柿渋を10回塗り重ねたもの。虫を寄せ付けず保存状態が格段に良い。

 

直江夫妻墓

直江夫妻墓
直江兼続とお船の方は、二人並んで米沢市の春日山林泉寺に葬られている。妻お船の方は景勝の息子定勝の養育に尽力し、兼続が亡くなると3000石を与えられ藩政にも影響力を持ったと伝えられる。81歳の天寿を全うした。

米沢30万石に移封となった上杉家はこの地に根を下ろし、一度の改易もなく明治を迎えました。会津120万石から1/4の石高に減った上杉家中を支え辣腕をふるった直江兼続は、米沢の地に何を残したのでしょう。

 上杉家の執政直江兼続は、米沢へ移封になった時、41歳でした。江戸藩邸と行き来しながら城下町を築き、治水、産業振興に腕をふるいます。直江兼続を顕彰して30年近く活動を続け、直江兼続をNHK大河ドラマの主人公にと長年運動を続けてきた米澤直江會会長で郷土史家の小山田信一さんに、兼続が米沢に残した遺産について話をうかがいました。

 ― 上杉鷹山の師は直江兼続

米沢で市民に最も尊敬されているのは、なんといっても上杉鷹山。しかし、実は鷹山のしたことというのは、もとをたどると直江兼続の真似なんです。自ら馬を駆って領内をくまなく巡り実情を把握すること、身分を超えて人々と接すること、質素倹約。みな兼続がやってきたことです。

鷹山が兼続を手本にしたという根拠もあります。ご存じのように鷹山は高鍋藩から幼くして上杉家の養子になりましたが、高鍋藩秋月家の家老、三好善太郎重道が幼い鷹山に送った手紙が残されています。そこには、米沢藩を立て直すには直江兼続に学べと書かれています。

治水や城下町の建設など、今も目に見えるものはよく知られていますので、今日は目に見えない彼の功績を話します。晩年のお船(せん)の方が病気がちだったこともあり、兼続は伊達藩医の有壁道察(ありかべどうさつ)を米沢に招きます。当時高名な医師で他藩からも招聘があったのですが、有壁家は兼続に応えるんですね。有壁家は医師養成にも非常に力を入れており、多くの医師を輩出しています。現在でも東北地方の医師は米沢出身者が多いんです。明治に入って上杉茂憲が沖縄県令になるんですが、その時有壁家も沖縄入りして医師養成所をつくります。兼続の行った人材登用が、米沢や遠く離れた沖縄で人材の養成に繋がっている一例です。

また米沢の隣の南陽市は山形屈指のぶどう産地ですが、これも兼続が関係しています。米沢入りした兼続は財源確保のため各地で鉱山開発をするんですが、赤湯というところに甲斐から招いた鉱山師を入れているんです。その際彼らはぶどうの苗を一緒に持ってきた。それが南陽市におけるぶどう栽培の始まりです。

兼続は情報をとても大事にする人でした。蒲生家の家臣だった西村久左衛門を御用商人にして天下の台所大坂の相場情報を得る一方、与板の「草の者」として使っていた頭領の八木家に士分を与えて米沢に呼び寄せます。農民は移封の際連れて来ることは許されませんから、米沢に落ち着いてから呼んだのです。彼らにはどんなものが売れるのか、どこの国で高く売れるのかということを調べさせました。積極的に情報を収集して作戦を立てる姿勢はその後も受け継がれ、米沢藩が明治まで生き残る基盤となっています。

兼続が米沢に残した最大の遺産は、質素倹約と先の世代を思って今を生きる心の2つだと私は思います。市街だけでも30か所を超えるゆかりの地がありますが、それだけでなく兼続の精神が、再び皆の心に刻まれることを願っています。

協 力:新潟県立歴史博物館

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